前作の前日譚と後日譚に当たりアカデミー賞史上初めて続編が作品賞を受賞
《大船シネマおススメ映画 おススメ度★★》
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー PARTⅡ』です。大ヒットを記録した『ゴッドファーザー』の製作中から続編が構想され、フランシス・フォード・コッポラはパラマウントピクチャーズにいろいろな条件付きで監督を引き受けることにしました。結果的にはアカデミー賞史上初めて続編が作品賞を受賞することになり、全米興行収入年間第6位のヒットを記録。一方でキネマ旬報ベストテンでは正編・続編ともに第8位と低評価で当時の日本の映画評論家たちの見る目がなかったことの証明になってしまっています。
【ご覧になる前に】若きヴィトーを描いた章以外は映画向けオリジナル脚本
1901年、シチリア島コルネオーネ村の葬列に銃弾が鳴り響き少年が撃たれます。父親を殺したマフィアのドン・チッチオに復讐しようとしたためで、もう一人の息子を連れてチッチオに助命を嘆願した母親も殺され、少年はロバに隠れて島を脱出します。移民船でニューヨークに着いた九歳の少年が入国管理官からもらった名札にはヴィトー・コルネオーネと書かれていました。時代は変わって1958年のネバダ州タホ湖畔ではマイケル・コルネオーネの息子アンソニーの初聖体式を祝うパーティが催され、学校へ多額の寄付をしたマイケルは上院議員から表彰されますが、書斎に入るとギアリー議員は賭博で儲けるマイケルを口汚く罵り始めるのでした…。
『ゴッドファーザー』は劇場公開前から全米400以上の映画館から事前レンタル予約が殺到して1500万ドルを稼いでいました。パラマウントピクチャーズは1972年3月の公開前から続編製作を決定して体制づくりに着手します。しかしプロデューサーのアルバート・S・ラディは自ら原案を書いた『ロンゲスト・ヤード』を製作するということでオファーを断り、パラマウントはフランシス・フォード・コッポラに製作・監督の全権を委任することにしました。引き受ける際にコッポラが出した条件は、製作費の予算決定権を握ることに加えて『カンバセーション…盗聴…』の監督とサンフランシスコでのオペラ公演の演出と『華麗なるギャツビー』の脚本執筆。さらに『ゴッドファーザー』で対立することが多かったロバート・エヴァンスに口出しさせないことをパラマウントに認めさせたコッポラはマリオ・プーゾと続編の脚本に取り組むことになりました。
前作『ゴッドファーザー』はマリオ・プーゾが書いた原作をほぼ忠実に映画化したものですが、歌手ジョニー・フォンテーンがラスヴェガスで過ごす日々を描いたパートとドン・ヴィトーがシチリア島からニューヨークにやってきた経緯のパートだけは取り上げられていませんでした。そこでコッポラとプーゾのコンビはヴィトーの青年時代にあたる「第三部」をドンを継承したマイケルの現在とカットバックして続編を構成することにしました。すなわりヴィトーがドンになるまでの前日譚とマイケルがドンになった後の後日譚を交錯させることで、『ゴッドファーザー』の物語を時代の変遷とともに語り上げる壮大な叙事詩(エピック)に仕立てたのでした。
続編を製作するからには主要な登場人物は同じ俳優が演じなければなりません。マーロン・ブランドは『ゴッドファーザー』でメイクによって老人のように見せていましたからヴィトーの青年時代も簡単に演じられるだろうとオファーしたそうですが、パラマウントピクチャーズの待遇に不満をもっていたブランドは出演を拒否。そこでコッポラはソニー役のオーディションを受けていたロバート・デ・ニーロのことを思い出し、マーティン・スコセッシ監督の『ミーン・ストリート』の演技を見てデ・ニーロこそが若き日のヴィトーにふさわしいとキャスティングします。結果的にデ・ニーロは本作でアカデミー賞助演男優賞を獲得するすばらしい演技を披露することになりました。
コッポラが製作責任者となって予算をハンドリングしたおかげもあって、継続して出演した俳優たちのギャラは軒並み大幅アップになりました。アル・パチーノは2万5000ドルから50万ドルプラス利益の10%、タリア・シャイアはわずか1500ドルだったのが3万ドルプラス1万ドルのボーナス、ジェームズ・カーンはほんのわずかなシーンしか出演場面のないのに前作と同額のギャラを受け取りました。クレメンザをやったリチャード・カステラーノにもオファーしたものの条件が合わず(セリフを書き換えることとか痩せたのに体重を戻さなければならなかったとか諸説あり)残念ながらクレメンザは心臓発作で死んだという設定に変更され、マイケル・V・ガッツォによるフランキーなるキャラクターに置き換えられました。
そしてマイケルと敵対するハイマン・ロスを演じたのがリー・ストラスバーグ。ストラスバーグはアクターズ・スタジオの芸術監督でメソッド演技法を確立した指導者で、彼の下で学んだ俳優はマーロン・ブランドをはじめポール・ニューマンやジャック・ニコルソンなど数えきれません。アル・パチーノもそのひとりで、パチーノからの特別な依頼を受けたストラスバーグは乗り気ではなかったもののコッポラの父親であるカーマイン・コッポラと話し合ったのちに引退生活から復帰することを決心しました。リー・ストラスバーグもオスカー候補になったのですが、教え子のひとりであるデ・ニーロが受賞したのは皮肉というかストラスバーグにとっても本望だったことでしょう。
キャメラマンにはベルナルド・ベルトルッチとコンビを組んでいたヴィットリオ・ストラーロの起用が検討されたようですが結果的には前作に引き続きゴードン・ウィリスが担当。コッポラは『地獄の黙示録』でストラーロにキャメラを任せることになります。前作同様に美術はディーン・タヴォウラリスで、『地獄の黙示録』のほか『カンバセーション…盗聴…』や『アウトサイダー』などのコッポラ作品でしか名前を見ることはできません。音楽はもちろんニーノ・ロータで前作では「愛のテーマ」の主旋律が1958年のイタリア映画のために作られたものだったということでオスカーの対象になりませんでしたが、本作ではカーマイン・コッポラとともにアカデミー賞作曲賞を獲得しています。
【ご覧になった後で】信頼を得る父と家族を失う息子が見事に対照的でした
いかがでしたか?1975年に日本で公開されたときに映画館で見たのですが、『ゴッドファーザー』を見ずにいきなり『PARTⅡ』を見たこともあって、お話が複雑すぎてチンプンカンプンだったのを思い出しました。現在的な目で見てもマイケルとハイマン・ロスとフランク・ペンタンジェリの関係性は複雑ですし、キューバ革命が勃発して大統領との癒着が無意味化するみたいな時代背景は中学生には理解できなかったことでしょう。さらにはローマ帝国滅亡時に家族の安全のために自死を選ぶという話をトム・ヘーゲンから聞かされたことでフランキーが浴室で手首を切って自殺するという流れはよっぽど注意してセリフを聞いていなければとてもではないですが追いきれません。そんなわけでアカデミー賞脚色賞を得たコッポラとプーゾの共同脚本はかなり高度な読解力を要求するものだったと思われます。
特にマイケルからロサト兄弟と手打ちしてくれと頼まれたフランキーが首を絞められるシーンで「マイケルがよろしくとさ」というセリフがストーリーを複雑化していました。マイケルがハイマン・ロスに自宅を襲撃したフランキーを始末しようと思っていると告げるのは相手の懐に入り込むためのウソだったわけですが、このセリフがあることでマイケルがフランキーをハメたように勘違いしてしまうのです。しかもこのセリフはシナリオにはないアドリブによるものだったそうで、コッポラがそのテイクを採用したために物語を余計に混乱させてしまうことになりました。しかしながら本作のマイケルパートは誰が誰を騙しているのかがわからなくなるような裏の裏のかき合いみたいなところが魅力でもあるので、コッポラもあえて複雑化することを狙ったのかもしれません。
一方ではシチリア島から始まるヴィトーの少年期から青年期を描くパートは、いかにしてヴィトーが周囲からの信頼を勝ち得てドンになっていったのかがわかりやすく伝わってきて、ノスタルジックなムーソと合わせて本作の複層的な魅力のベースを作っていたのではないでしょうか。舞台女優に声をかけるというジェンコに対してヴィトーは「妻がいるからいい」と言い、ジェンコの店を解雇されると洋梨ひとつを土産の買い、クレメンザが絨毯を盗む場面でも「妻が喜ぶ」という理由で協力し、次男のフレドーが肺炎で泣いているのを何もしてやれない情けなさの表情で見つめる。そんな様子からヴィトーが悪人ではなく人格者であることが観客に印象付けられます。ヴィトーと観客の間にすら信頼関係が成立しているので、ドン・ファヌッチ殺害シークエンスでは誰もがヴィトーを応援したくなるような気持ちで屋根の上を走るヴィトーの横移動ショットに釘付けになってしまうのです。
そのような気持ちにさせるのは脚本だけではなくロバート・デ・ニーロによる演技が大いに貢献しているわけで、はにかんだような微笑を浮かべたヒョロっとした感じがナイーヴな感性を表現していて、ヴィトーという人物に魂が吹き込まれるように感じられました。コロンボ夫人を立ち退きさせようとした大家とのやりとりなどでは風格さえ感じさせ、ジェンコ貿易会社の看板を掲げる場面では観客は多幸感に包まれるようでさえあるのです。ここまで感情移入できるのはロバート・デ・ニーロがヴィトーを的確に血肉化させたからだと思います。
それと対比させるように描かれるのがマイケルの現在パートで、前作でドンに上り詰めたマイケルは本作では一貫して冷酷無比な支配者としてファミリーの頂点に君臨しています。トップにいてすべてを掌握しているからこそ配下に対する命令はほんの少しも間違うことはなく、トム・ヘーゲンであってもその役割範囲以外の事柄であればマイケルは情報を漏らすことすらしません。政治の世界でも経済の世界でもトップに立つ者は孤独だと言われていますが、本作のマイケルはファミリーのトップに立つからこそ絶対的な孤独に陥っていきます。そしてファミリーに歯向かったり裏切ったりした敵は必ず抹殺するというマイケルの方針は1ミリたりともはずれることがなく、結果的に堕胎した妻ケイは家から追い出され、家族を人質にとられたフランキーは自殺を余儀なくされ、兄のフレドーすらもハイマン・ロスに内通していたことで排除されます。
ヴィトーのパートのクライマックスは父親を殺したドン・チッチオの復讐シーンで、無残にも母親が銃撃された現場でチッチオが斬殺される場面に観客は快哉の声さえあげるのに対して、マイケルパートのクライマックスは空港でのハイマン・ロス暗殺とフランキーの浴室での自死と湖の釣り船で撃ち殺されるフレドーがカットバックされ、観客は暗い奈落の底に落とし込まれたような暗澹たる気分にさせられます。『ゴッドファーザー』の前日譚であるヴィトーパートがコルネオーネファミリーの勃興期を描く明るい未来志向であるのに対して、後日譚であるマイケルパートはファミリービジネスを突き詰めていった先には家族を失った孤独が闇のように口を広げていました。『ゴッドファーザー』を正編・続編と続けて見ると、この壮大な物語はある一家の成長と衰退を描いた悲劇だったことに気づかされるのでした。
アル・パチーノはマイケルの孤独感を見事に表現しているものの、誰よりも父親の犯罪稼業に手を染めたくないと思っていたのにその跡継ぎとなる運命を背負った前作に比べると、冷たい強さ一辺倒に感じられるところが物足りなさにつながっていました。かたや圧倒的な存在感を見せるリー・ストラスバーグは物腰柔らかそうなマイアミでの登場からバハマでは一転してマフィアの大立者としての威圧感を示していました。特に反対勢力の真剣さを訴えるマイケルを窘めるベランダのシーンや明日までに200万ドルを揃えて持ってこいと言い渡すホテルの部屋のシーンなどは、マーロン・ブランドのドン・ヴィトーとタメを張る人物なんだなという説得感がありました。残念なのはヴィトーパートでの若き日のハイマン・ロスの登場シーンがカットされたこと。かつてはヴィトーと仲間だったことが映像として表現されていれば、マイケルとの抗争にもっと運命的なものが付与されていたことでしょう。
若き日のクレメンザやテッシオをやる俳優たちも巧かったですし、トム・ヘーゲン、フレドー、コニーなどコルネオーネファミリーを演じるおなじみたちも安定感がありました。そんな中で特筆すべきはバハマのシークエンスでマイケルのボディガードをやったアメリゴ・トッドは黒ずくめの衣裳で一言もセリフがなく、不気味でありつつもマイケルの作戦の実行役として強烈な印象を残しました。ハンガリー出身のアメリゴ・トッドはイタリアで彫刻家になったという経歴の持ち主でフェリーニの『サテリコン』にも出演しているそうです。
プロデューサーも兼ねたフランシス・フォード・コッポラは予算を自己裁量で使えることがよっぽど嬉しかったんでしょう。予算制限のあった前作では思い切り撮れなかったモブシーンに力を入れていたのが印象的で、ヴィトーパートのエリス島での入国管理局の様子は左から右にキャメラが横移動すると査察のために並んでいる移民が次々に映され、貧しそうな親子から裕福そうな紳士までを舐めたうえで、国や年齢、健康状態で選別されていく入国審査の順番を丁寧に描いていました。待合の椅子でヴァイオリンを弾く中年男までワンショットの長回しの中でもの凄い人数のエキストラを使っていたのには思わず笑ってしまうほどで、衣裳や小道具の手配はさぞ大変だっただろうなと感じます。さらにイタリー街ではニューヨークのワンブロックをそのまま撮影用に借り切って1920年代の外観に総とっかえさせるほどお金をつぎ込んだんだそうです。ここでも左から右への横移動ショットが圧巻でした。
とにかく『ゴッドファーザー』については話し出すとキリがないくらいにいろいろな感想や思いが溢れ出てきてしまうので、いつまでも話が尽きることはありません。いずれにしてもこのような現代の悲劇がマフィアの世界で描かれたことが非常に現代のリアリティを表していると思いますし、アクション映画のドンパチで人が殺されるのとは全く違った殺人が通常モードで行われている酷薄さを描くことができたのは、1970年代においてアメリカ映画がハリウッド時代とは全く違った素材を扱うようになったからだと思われます。東映ヤクザ映画が『仁義なき戦い』のような組同士の抗争ものに路線変更していったのも、テレンス・ヤング監督の『バラキ』のようなマフィアものが多数製作されたのも『ゴッドファーザー』の存在抜きにはあり得なかったことでした。映画史において非常に重要で独自のポジションに位置づけられるべき作品であると思います。(T070926)

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