成瀬巳喜男によるサイレント映画で本作が松竹蒲田での最後の監督作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『限りなき鋪道』です。もとは北村小松という人が書いた新聞の連載小説で、池田実三の脚本を成瀬巳喜男が監督したサイレント作品です。松竹蒲田撮影所の監督序列では末席だった成瀬巳喜男は本作を最後にPCLに移籍することになり、成瀬はPCLでの初監督作品『乙女ごころ三人姉妹』で初めてトーキーを作ることができたのでした。
【ご覧になる前に】主人公杉子を演じる忍節子にとっては初出演作品でした
銀座の街角で客待ちをしている似顔絵描きが落ちていた新聞で靴を磨いています。その新聞に掲載されていたのは女優東山すま子が映画会社に辞表を出したという記事。近くの喫茶室で女給目当てにホットケーキを注文する客がいる一方で、女優探しをしているスカウトは女給たちの中で杉子に目をつけます。その杉子を電話で呼び出したのは町夫で、仕事帰りの杉子に町夫は故郷の両親から見合いを勧められているから早く結婚したいと告げます。アパートに帰った杉子はルームメイトで同僚の袈裟子に町夫から告白されたと話すのでしたが…。
原作者の北村小松は慶應義塾大学在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社しました。昭和6年に日本初のトーキー映画として松竹が製作した『マダムと女房』の脚本は北村小松の手によるもので、多くのシナリオを書くと同時にユーモア小説を執筆し、太平洋戦争が始まるとスパイものなど戦意高揚的な小説を書くようになっていきます。「限りなき鋪道」は大阪毎日新聞と東京日日新聞に連載された新聞小説で、昭和7年に中央公論社から出版され、映画化にあたっては本人ではなく池田実三という人は脚色を担当しています。
東京の四谷で縫箔職人の家に生まれた成瀬巳喜男は父が早死にして家計を助けようと、大正9年(1920年)に開設されたばかりの松竹キネマ蒲田撮影所に小道具係として入社しました。初監督作品は入社10年後の『チャンバラ夫婦』でその間に成瀬の後に入社した五所平之助や小津安二郎、清水宏はすでに監督に昇進していましたので、松竹蒲田の監督たちの中での序列においては成瀬巳喜男は監督デビューしたとはいっても末席なのでした。
監督昇進後も成瀬巳喜男は上層部からあてがわれた企画しか回って来ず、昭和6年に五所平之助が『マダムと女房』で初めてトーキーを撮ってからも成瀬巳喜男はサイレントしか監督させてもらえません。北村小松原作の「限りなき鋪道」も誰も撮る人がおらず成瀬のところに回ってきたそうで、松竹蒲田の城戸所長がこれを撮ればあとは好きなものを作らせてやると約束したので引き受けたという経緯のようです。
主演の忍節子は当時十九歳の新人で、スター女優だった伏見のぶ子に似ているということで電話交換手をしていたところをスカウトされて女優として映画初出演することになりました。しかし成瀬巳喜男からすると「芝居ができるはずがない」というレベルだったようで、本作を完成させた成瀬は約束通りに次は好きなものをやらせてもらうつもりで林芙美子の短編を池田実三といっしょに脚本にして準備を進めました。
そこに来たのがPCL(写真化学研究所)からの移籍話。実はこの1年ほど前にもPCLから誘われていたのを城戸所長が一本作ってからと断りを入れていました。末席なのでいつトーキーを撮らせてもらえるかわからないと考えた成瀬はPCLへの移籍を決意。松竹では95円と薄給だったのがPCLでは300円に、松竹では「撮らせてやる」だったのがPCLでは「撮ってください」に変わったと成瀬巳喜男は回顧しています。
小市民を描く作品を得意としていた成瀬巳喜男に対して「小津は二人いらない」と伝えていた城戸所長は「しじゅうシナリオを書いて持ってくるのは成瀬と木下。そんな成瀬をPCLの森岩雄から正式にくださいと言われてどうぞと渡した。成瀬の方で不満があるなら言えばいいのに、いきなりPCLと話をつけて表門から云わせてきたのでカチっと来て未練らしいものを見せまいとした。成瀬に将来の期待を持っていたが、僕に恥をかかさないようにPCLで働いてくれと送り出した」と振り返っています。PCLに移籍した成瀬は翌年すぐに初トーキー作品『乙女ごころ三人姉妹』を撮り、続いて『妻よ薔薇のやうに』を発表してPCLの主戦監督になっていくのでした。
【ご覧になった後で】ショット数が多過ぎて無声ですが飽きずに見られます
いかがでしたか?伴奏なども入っていない完全無声状態で1時間半見たのですが、飽きることなく面白く見られたのには驚きました。よくあるストーリーではあるものの華族と平民の階層格差や恋愛感情のすれ違い、華やかな芸能界と市井の暮らしの違いなど現在にも相通じる要素が盛り込まれていて、登場人物たちもそこそこ描き込まれているので鮮明でないモノクロ映像だけでも退屈せずに鑑賞できました。それはひとえに脚本の出来が良かったからでしょうし、観客を物語世界に引き付け続ける演出力のおかげでしょう。
とは言っても成瀬巳喜男の映像演出は後年確立される成瀬調みたいなアダージョではなく、短いショットが次々にカッティングされて切り返しや反復が多用されるアレグロっぽい感じになっていました。喫茶室で忍節子が初登場するときの真正面からのドリーショットや町夫のオフィスの様子を映す横移動ショットなどは成瀬巳喜男らしくないですし、この二人の逢瀬を描く場面では人物のアップに街頭などのスティルショットを短くインサートするのを繰り返していて、会話の雰囲気をブツ切りにするような演出はとても成瀬調には見えませんでした。並んだ二人が歩きながら話をするのを斜め前からドリーバックしながら撮るおなじみの移動ショットも忍節子と香取千代子のルームメイト同士場面で出てきますが、ゆったりと静かな雰囲気には至っておらず、全体的にチャカチャカとしたせわしなさが目立っていたように思います。
それは字幕の多さにもつながっていて、短いショットが連打されるうえに登場人物のセリフが字幕で出てくるので映像+文字の両方で見せる作品になっていました。これはたぶん映画初出演の忍節子が「芝居ができるはずがない」という事情からのものだったかもしれません。それなりの演技ができれば表情や反応で主人公杉子の心情は観客に伝わるはずですが、整った美しい顔でありながら表情による演技までには到底及ばない忍節子を主役にすえたためにいつもより余計に字幕をインサートして杉子の内面をセリフ化せざるを得なかったのではないでしょうか。クライマックスの病室で杉子が姑と小姑に向って「山内家の家名だけを愛していた」みたいに非難する場面も、映画を見ているというよりも小説か戯曲を読んでいるような気分になりました。
しかしながらショットの短さは忍節子が山内光の車に轢かれるところや山内光の車が崖から転落するところでアクションシーンとしてその効果が発揮されていました。そもそもアクションなんて言葉が成瀬巳喜男の作品で出てくるのがちょっと違和感がありますけど、特に転落シーンでは当時はとてつもなく高額だったと思われる輸入車を実際に崖から落として破壊するなんてことはできないわけですので、岩や石ころが滑落して砂煙が上がるみたいな0コンマ数秒の超短いショットを連続してつなぐことで表現していたのが印象的でした。もちろんその輸入車は松竹のものではなく「エンパイヤ自動車商会」が提供したもので、たぶん当時から映画を利用したタイアップみたいな感じで自動車の輸入業者が宣伝の一環で車両を貸し出ししていたのではないかと思われます。ちなみに1913年に設立されたこの会社は現在でもエンパイヤ自動車株式会社として自動車部品の総合卸売を営んでいます。
昭和9年の作品として見ると、銀座の街並みは平和そのものでこの二年後に二二六事件が勃発するような雰囲気は微塵も感じられませんし、ホットケーキに生クリームをつけてフォークとナイフで食べる姿は現在と大して変わらない光景にも見えました。女給目当てに通っている常連客を三井弘次になる前の三井秀男がやっていたのも注目でしたし、笠智衆が自由が丘映画社の社員として忍節子を女優になりませんかと勧めるのも貴重な出演歴でした。映画では「東山すま子」が辞表を出したという新聞記事が出てきますが、これは松竹の看板女優だった栗島すみ子のことかもしれません。栗島すみ子は松竹が撮影所を蒲田から大船に移転させるときに引退を発表して小津安二郎が昭和12年に撮った『淑女は何を忘れたか』を最後に映画界を引退しました。引退発表の時期が整合するかどうか微妙ですけど、もし栗島すみ子のことだったとしたら当時としては一級の楽屋落ちだったことでしょう。
映画は結局ひと回りして忍節子は喫茶室の女給に戻り、女優として成功しなかった香取千代子はやっぱり映画会社美術部をクビになったらしい画家日守新一(抜けた感じで好演でした)と所帯を持つことになって終わります。本当は華族みたいな上流階級に嫁いだり映画界で女優として活躍したりするよりも普通の市井の暮らしにこそ価値があるんだという希望をもたせるラストにしたかったんでしょうけど、忍節子の表情からは希望よりも不安というか後悔というか後ろ向きな感情しか見い出せませんでした。さすがにここでは「明日も希望をもって生きていかう」なんて字幕は出せませんので、やっぱり成瀬巳喜男の予想通りに忍節子の演技力不足が最後まで本作の弱点だったように思われます。それでも忍節子は戦前の松竹で結構な本数の作品に出演を続けましたから、綺麗な女優さんであればそれなりのキャリアを築けた時代でもあったのかもしれません。(Y050926)

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