原爆の子(昭和27年)

少年少女の手記「原爆の子」を新藤兼人が近代映画協会で自主製作しました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、新藤兼人監督の『原爆の子』です。広島で原爆に遭った少年少女たちによる手記を集めた「原爆の子」を近代映画協会と日教組が映画化に取り組んだのですが、新藤兼人が書いた脚本に文句をつけた日教組が離脱して、近代映画協会が劇団民藝と共同で自主製作することになりました。大映に所属していた乙羽信子は会社の反対を押し切って本作に出演し、本作完成後には大映を退社して近代映画協会の同人に加わりました。

【ご覧になる前に】カンヌ国際映画祭への出品を外務省が阻止したらしいです

瀬戸内海に浮かぶ島で体操を終えた生徒たちに挨拶した教師の孝子は同僚たちに夏休みには故郷の広島に帰ると話しています。おじさんとおばさんの元を離れて渡し船で広島の街に着いた孝子は、原爆投下後の焼け野原に立ち並んだ家々の中で瓦礫がちらばったままの空き地に花をたむけます。そこは孝子の家があった場所で昭和20年8月6日の朝、孝子は妹と父親が出かけた後に母親に見送られ職場である幼稚園に向いました。時計が8時15分を指して空に閃光が走った次の瞬間、広島の人々は業火の中で死に絶えていったのでした…。

大学で働いていたときに被爆した教育学者の長田新は原爆が少年少女たちにどのような影響をもたらしたのかを研究するため、広島市内の小学校から大学までを巡回し1200通近い作文を集めました。その中から選ばれた105編が岩波書店から「原爆の子」として出版されたのが昭和26年10月のことで、日本国内で大いに反響を呼び、海外からも続々と翻訳の申し入れがくるようになりました。

サンフランシスコ平和条約が発効された昭和27年4月にGHQが日本から撤退するまで、広島と長崎に落とされた原爆の被害についてはGHQが情報統制をしいていたため、日本国内ではほとんど知られることはありませんでした。現在では広島平和記念資料館(本作には建築中の原爆資料館でロケ撮影した場面が出てきます)に行けば原爆被害の全貌を知ることができますが、日本ではじめて原爆に関する展覧会が開催されたのは昭和26年5月の「京大原爆展」だったと言われています。GHQがいなくなった昭和27年8月には写真誌アサヒグラフが原爆特集号を刊行して、アメリカによって秘匿されていた原爆投下の実態が日本国民の目に触れるようになったのでした。

アサヒグラフの刊行と同じ昭和27年8月に本作も劇場公開されていますが、岩波書店から出た「原爆の子」を映画化しようという動きは、当初は近代映画協会と日教組による共同企画として進められていました。近代映画協会は昭和25年に松竹を退社した吉村公三郎と新藤兼人が中心になって設立され、その第一回製作作品は『戦火の果て』でした。その作品を配給した大映とはその後も出資者になってもらって映画製作の提携を継続するようになり、新藤兼人の第一回監督作品である『愛妻物語』も大映京都で作られています。

しかしこの「原爆の子」は政治的な影響を及ぼすリスクがあるということで大映は製作直前に本作から降りてしまいます。また全国の組合員から募金を集めて製作費を出そうとしていた日教組は、新藤兼人が書き上げた脚本を見ると原爆の悲惨さを明らかにせず、後日談的なドラマだけに矮小化していると非難して、日教組独自で原爆をテーマとした映画を製作する方針を固めます。日教組の製作作品は関川秀雄監督の『ひろしま』として本作の一年後に完成することになるのですが、配給先が見つからずに公会堂などで自主上映という形で公開されています。

大映と日教組に逃げられた近代映画協会は劇団民藝と組むことにしたのですが、近代映画協会内部でも本作のような題材で製作費を回収できるかどうか懸念の声があがったそうです。しかし広島県出身で自分こそが原爆の映画を撮るべきだと言う使命感を持ち、映画化に執念を燃やしていた新藤兼人が自費で製作費を工面すると宣言して、新藤兼人と近代映画協会と劇団民藝とが3分の1ずつ製作費を出し合うことで本作が完成したんだとか。新藤兼人にとっては3本目の監督作品で、脚本は喜劇からギャングものまでオールジャンルで書いていた新藤兼人は、自分で監督する作品は暗くて重いテーマのものにあえて挑戦するんだという方針をもっていましたから、観客に受けるかどうかなんて最初から気にしていなかったのかもしれません。

本作が北星映画社の配給で公開されるとたちまち世間の注目を浴び、簡単に製作費を回収できてしまうほどの配給収入をあげることになりました。文部省特選映画にも選定され、翌年のカンヌ国際映画祭に出品されるまでになったのですが、原爆被害をテーマにした映画が国際映画祭で賞をもらってしまうと原爆を投下したアメリカを批判することになると懸念して口を出してきたのが日本の外務省でした。なにしろ昭和26年のヴェネツィア国際映画祭で黒澤明監督の『羅生門』が金獅子賞を受賞して日本映画への注目度が高まっていた時期ですから、やっと独立したものの安保条約でアメリカに守ってもらわなくてはならない立場の日本としては『原爆の子』が必要以上に目立ってしまうと具合が悪いと考えたのでしょう。

結果的にはカンヌ国際映画祭の運営側が、外務省が介入するとそれがかえって話題を呼んでしまうのですべてを映画祭当局に任せてくれ、という収め方を提案して、実際に出品中止とまではいかなかったようです。カンヌでは受賞はしなかったのですが、昭和29年にはチェコの映画祭、昭和31年には英国アカデミー賞で賞を獲得し、世界的にも高い評価を受けることになりました。

【ご覧になった後で】エピソードを三人の教え子だけに絞るべきだったですね

いかがでしたか?瀬戸内海の穏やかな風景から始まるので、これは原爆が落ちた後のお話なんだなということがわかるのですが、乙羽信子が渡し船で広島に戻って当時の広島の街並みが多数のショットで映し出されていくと、広島には戦後などという区切りはなくまだ原爆被害が続いているんだなと強く感じました。もちろん街はかなり復興していて民家が立ち並んでいますし、大きな看板があちこちに見られて経済も立ち直ってきているように見えます。けれどもこれらのショットは、原爆投下直後にあたり一面焼け野原となって全く何もない焦土だった広島がほんの5~6年前にそこにあったことを思い出させるのです。もちろんそれは様々な写真や映像や資料によって原爆直後の姿を見知っているからなのですが、観客としては復興した街並みの裏に原爆の被害が消えずに残されていることに思いを致さないわけにはいかなくなります。

ストーリーは幼稚園の先生だった乙羽信子が生き残った三人の教え子を訪ねていく展開となり、それがそのまま原爆被害の実状を観客に伝える形となります。最初の子の家では父親が急に調子が悪くなって死んでしまう場面に遭遇し、二番目の娘は教会の一室で静かに死を待っていて、いずれも何年経過しても原爆症が人々を苦しめていることを訴えかけてきます。三番目に訪問した三平一家だけが死からはなんとか逃れていますが、嫁入りする姉の奈良岡朋子は倒壊した家の下敷きになって片足が不自由になっています。三人の教え子を訪ねることで原爆が市井の人たちの普通の暮らしを破壊してしまい、そんな中でも懸命に生きている姿が描写されていて、手記をもとに書いた新藤兼人の脚本からは静かな怒りを感じることができます。

けれども原爆でほとんど視力をなくした滝沢修演じる岩吉さんのエピソードは、乙羽信子と出会って太郎という孫を孤児収容所に訪ねるところまではよかったのですが、終盤で乙羽信子が太郎を引き取ると言い出すあたりからいかにもお涙頂戴のおセンチ物語に映画を変容させてしまいます。太郎が滝沢修の足にすがって「おじいちゃんと一緒にいる」と泣くところは涙を誘われますが、無理に太郎を引き取ることで結局滝沢修は自死を図ることになるわけなので、乙羽信子の余計なおせっかいが貧しいながらもその中で生きようとしていた老人と孫の関係を壊してしまったようにしか見えません。

さすがの滝沢修もケロイドのメイクアップとともにややオーバーアクトな感じになっていて、北林谷栄のおばあさんがなぜ乙羽信子の宿泊先を知っていたのかも不自然で、ドラマを盛り上げるために無理にこのエピソードを押し込んだのではないかと疑ってしまいました。そんな小細工を弄するよりも三人の教え子のお話だけに絞り込んでおけば、もっと余韻が残る清貧な感じの映画になったのになあと惜しまれます。

新藤兼人の演出は短いショットの積み重ねで、ここらへんは製作にクレジットされている吉村公三郎が先輩監督として指導した影響が出ているのではないでしょうか。キャメラマンの伊藤武夫は阪妻プロから松竹下加茂で活躍していたベテランで、成瀬巳喜男の『鶴八鶴次郎』や黒澤明の『酔いどれ天使』『虎の尾を踏む男たち』などを撮った人です。キャリア的には東宝を出て、本作などの独立プロ系の仕事をこなしたあとで東映京都撮影所に腰を落ち着けていますから、争議で東宝を辞めざるを得なくなり、本作あたりではなかなか仕事がなかった時期だったのかもしれないですね。あと音楽は伊福部昭先生で一年後に公開された『ひろしま』でも音楽を引き受けています。『ひろしま』はまさに原爆投下直後の悲惨な惨禍を描いていて、本作とは対照的な作品になっていますけど、音楽の雰囲気だけは伊福部昭っぽさで統一されていたのは面白いところでした。(D011224)

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