日本初の本格的トーキー映画は土橋式松竹フォーンによって製作されました
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、五所平之助監督の『マダムと女房』です。アメリカで長編トーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開されたのは1927年(昭和2年)のこと。日本でもトーキーの技術研究が開発されて、サウンド・オン・フィルム方式による初の本格的トーキー映画が松竹で製作されました。「土橋式松竹フォーン」と名付けられた同時録音方式で撮影された本作は56分の中編ものでしたが、技術革新が評価されたのか第8回キネマ旬報ベストテンの第1位を獲得したのでした。
【ご覧になる前に】松竹蒲田のトップ女優だった田中絹代が歌を披露します
郊外の洋館を写生している画家の絵を覗き込むのは劇作家の新作。新作が注目したのは洋館の隣に建つ平屋の貸家でしたが、絵を馬鹿にされたと思った画家は絵具を新作の顔に塗りつけ、二人は杖やイーゼルを奪い合います。銭湯の女湯から出てきた洋装の女性になだめられた新作は、貸家に引っ越しをするのに友人たちの手を借り、妻の絹代は御礼にそばを振る舞います。引っ越しが終わっても新作と友人たちは深夜まで麻雀で遊び惚け、絹代は娘と幼い赤子を寝かしつけながら新作を睨みつけるのでしたが…。
日本映画で初めてトーキーに挑戦した小山内薫の『黎明』は昭和2年にフォノフィルム方式を使って製作されたものの技術的な問題から公開には至りませんでした。日活が昭和4年に公開した『大尉の妻』と『藤原義江のふるさと』は音声を光の信号に変換してフィルムに焼き付ける「サウンド・オン・フィルム方式」を採用しましたが、部分的に音が出るだけのパートトーキーでしたので、一本の映画に音声がまるごとつけられたのは、この『マダムと女房』が日本で初めてでしたので、日本映画史においては本作が日本初のトーキー映画と認められることになりました。
サウンド・オン・フィルム方式はフィルムのコマとパーフォレーションの間にある細い帯状スペースに音声を光の信号に変換して直接記録する技術で、この音声記録部分をサウンド・トラックと呼びます。『ジャズ・シンガー』以降アメリカではサイレントからトーキーへの移行が一気に進んだのですが、日本でトーキーを作ろうとするとアメリカのウェスタン・エレクトリック社に多額の特許料を支払わなければならないため、国産でオリジナルのサウンド・トラック技術を開発する必要がありました。
松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎は国産トーキーの導入に熱心で、大阪松竹座の楽士から音響技術者に転身した土橋武夫と晴夫の兄弟に独自のトーキー方式を開発させます。映像と音声が完全にシンクロして、かつ安価で安定したトーキーの製作体制が整うと城戸はその同時録音方式を「土橋式松竹フォーン」(「どばし」ではなく「つちはし」と読みます)と命名して、日本初の本格的トーキー映画の製作に乗り出しました。
当時の松竹蒲田を代表する監督は島津保次郎で、サラリーマンや庶民の日常を描く小市民映画である蒲田調を確立した人でした。松竹が初めてトーキーを製作するということで、当然蒲田撮影所の筆頭である島津保次郎は自分が日本初のトーキー監督となるつもりでいたのですが、城戸が監督に指名したのは五所平之助。島津より五歳年下の五所は、島津の口利きで松竹の入社し島津の助監督をつとめていた人物でしたから、島津保次郎としては口惜しいことこのうえなかったでしょう。島津は本作の翌年に『上陸第一歩』でトーキーを製作することになります。
トーキー黎明期においてはいかに音声をクリアに録音できるかが撮影現場での最優先事項になったことは間違いありません。当時はアフレコ方式は存在しませんでしたので、音は映像と同時に採録せねばならず、よってキャメラの回る音さえも邪魔もの扱いされました。スタジオの中に電話ボックスのような小部屋にキャメラを閉じ込めて回転音をマイクで拾わないようにしたため、キャメラマンが酸欠状態で仕事をする羽目になったという逸話も残っていて、要するにトーキー作品の撮影現場で一番発言権があったのは土橋武夫と晴夫の二人だったわけです。
城戸が五所平之助に松竹初のトーキー映画を任せた理由ははっきりとはしませんけど、たぶん大御所監督の島津保次郎が土橋兄弟の指示に黙って従うかどうか不安だったんではないでしょうか。まずは若手の五所平之助にどう転ぶかわからない音声優先の撮影をやらせてみて、こなれた頃にトーキーを島津に取らせようと考えたのかもしれません。実際にその後の松竹蒲田撮影所では土橋武夫が監督の演出を無視して録音のことしか考えないような指示出しをするため現場が混乱してしまったそうで、一計を案じた城戸は時代劇のトーキー化という名目で土橋武夫を京都撮影所専属にして、比較的融通が利く晴夫を蒲田に残して現場の不満を収めたそうです。
松竹初のトーキー作品の主演に選ばれたのは田中絹代で、昭和4年に松竹幹部に昇進すると小津安二郎監督の『大学は出たけれど』で学生たちの憧れとなるカフェの女給を演じて、蒲田のトップ女優だった栗島すみ子を凌ぐ人気者になっていました。アメリカでもサイレント映画時代の人気女優たちが声質の悪さや滑舌の悪さでトーキー作品に呼ばれなくなった例がたくさんあったようですが、田中絹代は少女っぽさが残る声が可憐な外見とマッチしていて、そのうえセリフ覚えも勘も良いため映画のトーキー化によって、さらに人気が高まることになります。本作では田中絹代がその可愛い歌声を披露する場面もしっかり用意されています。
【ご覧になった後で】トーキーならではの音の実験が試された軽喜劇でした
いかがでしたか?ストーリーはいかにも単純で、執筆に専念しようとして貸家に引っ越した劇作家が隣家の騒音に悩まされるもマダムと意気投合してしまい妻が嫉妬するという他愛のないもので、なかなか仕事が進まない渡辺篤(黒澤明監督『用心棒』の桶屋)と仕事をさせようとする田中絹代の日常的なやりとりがいかにも軽喜劇といった雰囲気でした。セリフを聞いていてもちっとも古さを感じさせず、田中絹代の「エロ100%ね」というセリフなんか現在的にTVドラマに出てきそうな新しさがありましたし、すぐに「オシッコ」と言い出す娘(蒲田撮影所の名子役だったという市村美津子)とのやりとりもわざとらしさのない自然さが非常に好ましかったです。
そんな中でも初の本格的長編トーキー映画としては「音」を演出の主役にしたいわけで、さまざまなところで音の実験をしているんだなと感じられました。冒頭の渡辺篤と画家役横尾泥海男(この人も黒澤明監督『虎の尾を踏む男たち』で常陸坊をやってます)の言い争いはサイレントではとても実現できないセリフの応酬から始まり、貸家に移ってからは渡辺篤が猫の鳴き真似をしているうちに本物の猫が鳴き始めます。娘が渡辺篤を起そうとして振り回す目覚まし時計や書き損じの原稿用紙を破る音。田中絹代の嫉妬心はミシンを踏む音で表現され、買い物帰りの終幕には空を飛ぶ双翼飛行機の音がアクセントになっていました。
トーキーであれば当然音楽もフィーチャーしたくなるところで、隣家ではジャズ楽団が練習中という設定で、サックスやトロンボーンなど金管が入って伊達里子演じるマダムが軽めのヴォーカルをとります。夫の帰りを待つ田中絹代は「花嫁人形」を短調で歌い、ビールで酔っ払った渡辺篤は長調の「ブロードウェイ・メロディ」を口ずさみながら帰宅。そして二人は「狭いながらも楽しい我が家」というおなじみの「私の青空」を歌ってエンディングとなります。
こうした音や音楽を主役にするための一番簡単な手法は舞台を撮るかのようにして長回しを多用すること。実際にダンスを主体としたミュージカルでは、踊りの芸をたっぷりと見せるためにフルショットで俳優を左右にパンしながら撮り続けるショットが主体となっています。しかし本作で五所平之助が挑戦したのはあえてカットを割ることでした。もともと五所平之助はエルンスト・ルビッチの『結婚哲学』をニ十回以上繰り返し見て、クローズアップを主体にしたカット割りを研究したという人。トーキーのためにマイクを使うとなるとロングショットでぐるぐる回すだけになると思った五所は、同時録音で音が切れないという条件をクリアするためにキャメラを四台使って切り替えるという手法を考えつきます。
五所平之助は音をつなげるためにひとつの場面をさまざまな角度から複数のキャメラで撮影することで、あとでカット割りして編集しても音がひと続きになるようにしたのですが、これは実に画期的な方法で、後に黒澤明が俳優の演技を途切れさせないために導入したマルチカムシステムを先取りしたものだと言えますし、現在的にはほとんどのTVドラマで採用されている撮影手法です。サイレント時代からカットを割ることを得意としていた五所平之助だからこそ、音のための単調な長回しで終わることなく、音がありながら複数のアングルで俳優の演技をとらえた初のトーキー作品が完成したのでした。
もちろん『マダムと女房』の完成度は現在的にはあまりにも普通で見るべきところはほとんどありません。しかしながら昭和6年の段階で、しかも日本初の音の出る映画でこうした試みにチャレンジしていたというのは日本映画史的に見れば特筆すべきことだったといえるでしょう。「私の青空」は宮田東峰というハーモニカ奏者のバンドが演奏するところに渡辺篤と田中絹代の歌声がかぶりますけど、要するに屋外ロケ撮影のマイクに届く範囲で楽団が演奏し、田畑の小径を歩く二人を2台のキャメラが寄りの絵と引きの絵を撮っていたわけで、技術的にここまでのことをやってみようと考えた五所平之助の創造力には驚いてしまいますね。
日本でトーキーの製作が進まなかったのはサウンド・オン・フィルム方式の国産化に時間がかかったこともありますが、実は日本のサイレント上映に特有の「活動弁士」の存在が大きな壁になっていました。本作が日本映画にトーキーへの道を切り拓いたことは間違いないものの、サイレント映画あってこその活動弁士たちにとってトーキーは自らの職業を奪う憎きライバルでしかありませんでした。五所平之助も「弁士が城戸さんの家へ日本刀を抜いて斬り込んできたり、あたしもにらまれて、浅草に来たらたたっ殺してやるなんてこわい話がありました」と振り返っているように、昭和10年には弁士・楽士の全員解雇を通知した松竹に対して弁士の静田錦波が指揮したストライキが行われ、活動家2名が城戸四郎の自宅に日本刀をもって乱入する事件が起きています。新聞記者に「いやがらせにしては度が過ぎます」と城戸四郎は答えていますが、どんな産業でも大きなイノベーションが起きるときにはその反動で消え去るものや切り捨てられる人がいるもんなんですね。(U042626)

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