あの旗を撃て(昭和19年)

戦時下に製作された国威発揚映画で日本軍のフィリピンでの戦いが舞台です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、阿部豊監督の『あの旗を撃て』です。太平洋戦争における日本軍のフィリピン攻略でのコレヒドールの戦いを描いていて、フィリピン占領後に製作されたこともあって捕虜になったアメリカ人や現地のフィリピン人が多く出演している珍しい作品です。国威発揚映画にも関わらず戦闘シーン一辺倒ではなくドラマとしても成立していて、登場人物に感情移入させる映画作法が、確かに軍部によるプロパガンダとしての有効性を再確認できる作品でもあります。ちなみにいろんな映画データベースでは題名に続いて「コレヒドールの最後」というサブタイトルがつけられていますが、本編のクレジットには一切サブタイトル表示は出てこないので、大船シネマでは『あの旗を撃て』のみの表記にしています。

【ご覧になる前に】監督の阿部豊はハリウッドで俳優として活躍していました

昭和16年12月の太平洋戦争開戦とともにフィリピンを侵攻した日本軍はマニラ市を制圧します。マニラにはアメリカ合衆国に忠誠を誓ってアメリカ軍に従軍するフィリピン人の青年たちがいましたが、トニー少年は兄のガルシア中尉に敵の鉄兜を持ち帰るようせがみます。しかしそのトニー少年はアメリカ軍のトラックに轢かれて車椅子での生活を余儀なくされていました。そこへマニラに進駐した日本軍の池島兵長は、窃盗犯を逮捕したことをきっかけに町の子供たちと仲良くなり、トニー少年を弟のように可愛がります。一方ガルシア中尉とともに日本軍と戦うゴメス大尉は日本軍に捕らえられると速水部隊長から「フィリピン人なら東洋人としての誇りを大切にせよ」と説諭されるのでした…。

日本陸軍によるフィリピン攻略は真珠湾攻撃と同じ昭和16年12月8日に開始されました。ダバオからマニラに日本軍が迫ると、マッカーサー司令官が退却した後にマニラは無防備都市宣言をして、OPEN CITYとなったマニラは日本軍の手に落ちます。さらに日本軍はバターン半島沖合のコレヒドール島に立てこもったアメリカ軍を追い詰め、マッカーサーのあとに指揮をとっていたウェインライト中将が全軍降伏して昭和17年6月に日本軍はフィリピン全土の制圧に成功したのでした。

このコレヒドールの戦いはアメリカ軍にとっては第二次大戦における初めての本格的な戦闘で、早々にシンガポールを日本軍に明け渡したイギリスに比べてマッカーサーによって守られているフィリピンは真珠湾を攻撃されたアメリカにとっては希望の光のような存在だったそうです。なのでフィリピン陥落はアメリカにとってより一層の痛手となり、同時にその数か月後にガダルカナルで反転攻勢に転ずる原動力になったともいわれています。フィリピン最後の戦いとなったコレヒドールは、戦後すぐにジョン・フォード監督の手によって『コレヒドール戦記』として映画にされていますが、原題が「They were Expendable」すなわち「彼ら(兵士)は消耗品だった」とされているようにアメリカにとっては屈辱的な敗戦だったのでした。

日本にとっては「勝った勝ったまた勝った」という太平洋戦争初期の連戦連勝のときの戦いでしたので、その栄光の記憶にいつまでもすがりついていたい気持ちもあったのでしょう。本作は昭和19年2月公開ですので、フィリピン戦終了後2年近くが経過していましたし、東南アジアの戦線で連戦連敗して敗色濃厚となっていった時期です。「後援陸軍省」とクレジットされている通り、国内での戦意発揚のためにいかに日本がフィリピンで勇敢に戦ったかを喧伝したいという意図で作られたことは明白です。

監督の阿部豊は大正時代に単身アメリカに渡り、演劇学校に通ってハリウッドで日本人俳優として活躍した人でした。「ジャック・アベ」の芸名を名乗り早川雪洲に推薦されてセシル・B・デミル監督の『チート』で本格的に俳優としてデビューするかたわら、監督術を学んで日本に帰国。以後、ハリウッド出身の映画人ということで日活から東宝で多くの作品を作り、戦後には新東宝で活動を続けました。この『あの旗を撃て』は国策映画でしたが、戦後に初めて東宝が製作したレビュー映画『歌へ!太陽』を監督したのも阿部豊で、本作を作ったからといってすぐに政治的な傾向を持った人と決めつけることは避けねばなりません。

脚本は小国英雄と八木隆一郎の二人。小国英雄は黒澤映画を例に引くまでもなく日本映画界の脚本家の重鎮のひとりで、八木隆一郎はプロレタリア演劇出身の人で戦後は新派や新国劇の脚本を書くことになります。まあそんな左翼系の人でも戦時中は本作のような仕事で食いつないでいたわけですね。

【ご覧になった後で】アメリカとフィリピンの俳優の自然な演技に驚きました

いかがでしたか?戦時中の国策映画にも関わらず、フィリピン人が準主役級で活躍しますし、アメリカ軍の士官や兵士もすべてアメリカ人が演じていて、その自然な演技に驚いてしまいますね。しかも序盤はほとんど日本人が登場せず、すべて現地語での芝居が日本語字幕表示されて進みますので、なかなかインターナショナルな雰囲気になっています。現地の子供と仲良くなる池島兵長は「敵国語」である英語を流暢に扱いますし、人種差別や植民地差別的な態度は一切見られません。そして最初はなぜフィリピン人がアメリカ軍兵士として戦っているのか現在的に見てもおかしいなと思えるような設定なので、日本軍の部隊長が「なぜ東洋人のお前がアメリカ合衆国のために戦わなければならんのだ」と疑問を呈するのもなんだか自然に受け止めてしまいました。

というのがプロパガンダ映画のコワイところでもあるのですが、本作の中でアメリカ軍によって日本兵が鬼であるかのようにフィリピン人に教宣していることを「アメリカのプロパガンダなんだ」というのと同じように、本作も「東洋人のために戦っている日本軍」というイメージを植え付けようとするプロパガンダなのです。それがトニー少年や母親などのフィリピン人に自然な演技をさせて池島兵長との交流を描くドラマによって、やさしい日本軍兵士がフィリピン人のことをアメリカから救い出しているという大義名分を正当化させているのです。観客に無意識のうちに日本軍の侵攻を肯定させるような気持ちにさせるわけなので、プロパガンダ映画としてはなかなか精巧にできていて、それが数多くの作品で映画作法を磨いてきた阿部豊や小国英雄のような職業的映画人の手によってなされたものであることを考えると、軍部によるメディア統制の影響力は恐ろしいものなんだなとあらためて認識させられます。

多くのアメリカ人やフィリピン人が登場するのは、占領下にあったフィリピンの現地ロケで撮影されているからだそうで、終盤に大量のアメリカ兵が投降する映像が出てきますがあれも現地で捕虜になった米兵を大量動員して撮影したものなんだとか。一方でフィリピン人のゴメス大尉やトニー少年を演じた人はどんな人だったんでしょうか。現地のプロの俳優を使ったとしか思えないような演技力で、こういう人たちを強制的に映画に出演させられてしまうのもある意味ではコワイことではありますね。

それにしても池島兵長は普通にいい人で、それをごく自然に演じたのは大川兵八郎という俳優です。この人も阿部豊と同じく早くにアメリカに渡り、パラマウント映画の俳優学校ではゲーリー・クーパーと同期だったという驚異的キャリアを持った人のようで、帰国後はPCL経由で東宝で俳優業を続けることになりました。デヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』にも出ていたらしく、本作で英語が流暢なのにも納得ですよね。そして部隊長役の大河内傳次郎。独特のセリフ回しが変わっていなくて思わず笑ってしまいそうになりますが、やっぱり部隊長としての威厳というか格上の感じは抜群でした。そしてトニー少年の手術をやる医者が田中春男だったというのもちょっと驚きの配役でしたね。

それにしても昭和19年に入ったところで、映画館で本作を見た観客はどう感じたんでしょうか。戦時中の本土空襲は昭和19年6月の八幡製鉄所を狙った八幡空襲と言われていますので、2月ならまだ直接的に一般市民が戦死するという状況ではなかったのかもしれませんが、2年近く前のフィリピンでの戦勝記録を見せられても「今頃になってなぜ」という思いもあったのではないでしょうか。メディアを統制しても当時は映画製作を企画してから実際に公開されるまではそれなりの期間が必要だったわけで、現在的にみるとヨーロッパで起きている爆撃の様子が瞬時にインターネットで拡散されるというような同時性は当時のメディアは持ち得ないのでした。逆に言えば同時性がない分、より統制しやすかったということかもしれませんね。(Y111622)

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