日本映画

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肉弾(昭和43年)

日本アート・シアター・ギルド(ATG)独立プロダクションと製作費を折半することで低予算映画を製作するようになりました。本作はその初期の一本で岡本喜八の脚本を映画化しようとみね子夫人が自宅を抵当に入れて捻出したお金が製作費に費やされました。
昭和二十年代

泥だらけの青春(昭和29年)

菅井一郎は溝口健二や小津安二郎の監督作品に多く出演した名脇役のひとりですが、本作で初めて監督に挑戦しました。脚本は新藤兼人が書いていて、新藤とコンビを組んでいた吉村公三郎が演出補佐としてクレジットされています。
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血は渇いてる(昭和35年)

『ろくでなし』で監督昇格を果たした吉田喜重はマスコミが「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と名付けた勢いに乗って監督第二作を公開しました。企業の宣伝広告やマスコミを揶揄する風刺的な社会劇になっていて、マスコミに反転攻勢するような姿勢を示しました。
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古都(昭和38年)

川端康成は昭和36年から取材のため京都を頻繁に訪れるようになり、同年10月週刊朝日誌に「古都」の連載を開始します。京都を舞台にして姉妹の出会いを描いたこの小説を監督したのは中村登で、松竹では文芸作品を多く発表していました。
昭和二十年以前

兄とその妹(昭和14年)

島津保次郎は松竹蒲田撮影所で「小市民映画」スタイルを確立して松竹を代表する名監督でしたが、本作はその島津保次郎の代表作とされる作品です。兄夫婦宅に妹が同居している三人家族を主人公にしていて、兄を佐分利信、妹を桑野通子が演じています。
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蜂の巣の子供たち(昭和23年)

監督の清水宏は戦時中に松竹を離れ、戦後になると戦災孤児十数人を引き取って熱海の山中で育てていました。その子供たちを出演させて映画を作ることを考えた清水宏は同人たちを集めて「蜂の巣プロダクション」を設立し、本作を自主製作します。
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日本の悲劇 自由の声(昭和21年)

亀井文夫は昭和14年に陸軍の後援を得て中国戦線を描いたドキュメンタリー『戦ふ兵隊』を東宝で作っていますが、本作は終戦の翌年に戦時中の記録映画を再編集したもので、軍部や財閥のことを支配階級と呼び、戦時中の戦争責任をつまびらかにする内容になっています。
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猟銃(昭和36年)

井上靖の原作を松竹蒲田時代からのベテラン監督だった五所平之助が映画化して、主人公となる従姉妹に山本富士子と岡田茉莉子という当時の二大女優を配し、佐分利信と佐田啓二がからむという豪華な配役となっています。
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雪国(昭和40年)

東宝版では池部良と岸恵子の主演でしたが、この松竹版では、島村を木村功が、そして駒子を岩下志麻が演じていると同時に、本作はフジカラーで撮影されていて、温泉街や雪景色が色鮮やかな映像で映しとられています。
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火の鳥(昭和31年)

昭和29年に映画製作を再開した日活は俳優やスタッフを他社から引き抜いて人材を集めている途中でしたが、松竹から移籍したばかりの月丘夢路が主演し、新東宝から移籍してきた井上梅次が監督して伊藤整原作の本作が完成しました。
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五番町夕霧楼(昭和38年)

時代劇からやくざ映画に移行しつつあった東映が映画化し、東映東京撮影所の所長だった岡田茂が佐久間良子を口説いて大胆な濡れ場を演じさせたことが大いに話題を呼んで年度配給収入第8位に入る大ヒットを記録しました。
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激突!殺人拳(昭和49年)

ブルース・リーの『燃えよドラゴン』の大ヒットに乗って東映が創り出したのがこの「殺人拳シリーズ」で、主演の千葉真一が空手使いの達人として敵をバッタバッタと倒していく肉体派のアクション映画となっています。
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銭形平次捕物控 人肌蜘蛛(昭和31年)

野村胡堂が書いた時代劇小説「銭形平次」は雑誌連載時から映画化されましたが、長谷川一夫が銭形平次を演じた「銭形平次捕物控シリーズ」が最も多くの作品を残していまして、本作はその第10作にあたります。
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雪国(昭和32年)

ノーベル文学賞を受賞した世界的作家である川端康成の代表的な小説「雪国」は二度映画化されていまして、本作はその最初の映画化作品です。小説を映画化した文芸作品を多く残している豊田四郎監督作品の中でも本作は特に傑出しています。
昭和二十年代

黒い潮(昭和29年)

東京大学文学部卒業の山村聰は俳優業だけに飽き足らず、独立プロ「現代ぷろだくしょん」を立ち上げて『蟹工船』で監督業に進出。本作はその翌年に日活で製作された山村聰の監督第二作にあたり、『蟹工船』に続いて監督兼主演をつとめています。
昭和二十年以前

続 姿三四郎(昭和20年)

『姿三四郎』がヒットして内務省の検閲にも通りやすい続編を作るのが安パイでもあり、黒澤明も会社に命じられるままに監督するしかなかったのでしょう。藤田進と月形龍之介のライバル同士を含めてほとんど同じ顔触れで続編が作られました。
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殿さま弥次喜多 怪談道中(昭和33年)

本作は歌舞伎出身で東映の若きスターだった中村錦之助と中村賀津雄(後に中村嘉葎雄と改名)の実の兄弟が共演した弥次喜多もので、お殿様が町民に姿を変えて活躍するという遠山の金さんパターンで東海道の旅を描いています。
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女が階段を上る時(昭和35年)

高峰秀子は『秀子の車掌さん』で成瀬巳喜男監督作品に初出演して以来、生涯で17本の成瀬作品に出演してきましたが、その10本目の本作は銀座のバーで働く女たちを主人公にした一種の風俗もので、女性の夜の職業がつぶさに描かれています。
昭和二十年代

地獄門(昭和28年)

永田雅一社長の指示の結果採用されたのは室内での露光でも撮影が可能なコダック社のイーストマンカラーシステムで、大映初のカラー作品は平安時代を描いた『地獄門』に決まり、アメリカ産ネガフィルムによって撮影されることになったのでした。
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処刑の部屋(昭和31年)

『太陽の季節』が公開されると無軌道でインモラルな若者たちは「太陽族」と呼ばれて流行語になっていきます。そのブームを察知した大映はすぐに石原慎太郎の短編小説の映画化に着手し、日活から大映に移籍したばかりの市川崑に監督を任せたのでした。
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