8 1/2(1963年)

フェデリコ・フェリーニが映画監督グイドに自分自身を反映した最高傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★★★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』です。フェデリコ・フェリーニの監督デビュー作『寄席の脚光』はアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督でして、それを半分として数えると本作が監督作品の8 1/2本目だということからこのタイトルがつけられました。そもそも次作の映画作りに悩んでいたフェリーニはプロデューサーのアンジェロ・リッツォーリに製作中止を申し出ようとしたときに、自分自身を反映した映画監督を主人公にすることを思いついたといいます。映画監督グイドの内面に迫るこの『8 1/2』はフェリーニの最高傑作となったのでした。

【ご覧になる前に】温泉治療に来たグイドを映画関係者が追いかけまわして…

渋滞の車の中に閉じ込められた後に空中から海に落下する夢を見た映画監督グイドは、医者から鉱泉を飲む温泉治療を勧められます。上流階級の人々が集まる温泉地に来たグイドは彼の脚本を批判する映画評論家カリーニや新妻を連れたマリオら映画関係者に囲まれて仕事から逃れられません。白いヴェールをまとった妖精のようなクラウディアの幻を見たグイドは、子供の頃に兄弟と一緒にワイン風呂に入れられ大きな白布にくるまれて寝室に運ばれたときのことを思い返すのでしたが…。

フェリーニとともに原案を書いたエンニオ・フライアーノは『カビリアの夜』や『甘い生活』でも共同脚本に名を連ねていまして、フェリーニが『8 1/2』の次に撮った『魂のジュリエッタ』でも脚本に参加しています。そこに加わったトゥリオ・ピネッリとブルネッロ・ロンディの四人が共同脚本としてクレジットされていますが、フェリーニは脚本が完成していなくても撮影に入ってしまうことが多かったらしいですし、すべてのセリフがアフレコで採録されたので後からセリフを変えてしまうこともよくありました。『甘い生活』とまったく同じ四人組のシナリオチームですが、誰がどこまで完成台本に貢献しているのかはよくわかりませんし、もしかしたらフェリーニ以外の三人はフェリーニにいろいろなアイデアを提供する壁打ち相手だったのかもしれません。

プロデューサーのアンジェロ・リッツォーリは『甘い生活』に続いて製作を担当していて、撮影のジャンニ・ディ・ヴェナンツオは『太陽はひとりぼっち』などイタリア映画で実績のあるキャメラマンでした。音楽はフェリーニ映画には欠かせないニーノ・ロータで、『道』『カビリアの夜』『甘い生活』に続いて映像に完全一致した楽曲を提供しています。

主演のマルチェロ・マストロヤンニは『甘い生活』に続いての主演ですが、黒い帽子を被って黒メガネをかけた姿にはフェリーニ自身が色濃く投影されています。クラウディア・カルディナーレは本作の直前にはルキノ・ヴィスコンティの『山猫』に出演していましてイタリア映画の巨匠の作品に連続して起用されることになりました。『甘い生活』ではエピソードの登場人物のひとりだったアヌーク・エーメは、グイドの妻のルイーズ役で登場して圧倒的な美貌を見せてくれます。

本作は日本では1965年に公開されてその年のキネマ旬報ベストテンで第1位に選出されています。映画評論家の双葉十三郎氏は本作にほぼ最高点の「☆☆☆☆★」をつけていまして「構成も含めて映画の表現の一つの極限を示した作品といっても過言ではないと思う」と評して「フェリーニの華麗なる私小説」と大絶賛しています。アメリカではレナード・マルティンがやっぱり「****」の最高点で高評価しており「フェリーニのユニークな自己分析映画」と表現しつつ「頻繁なビジョンと数え切れないほどのサブプロット。創造的で技術的な魔法に満ちた、長くて難しいが魅力的な映画」だと言っています。このほかにも多くの有名映画監督が本作を最も好きな映画にあげていて、映画監督を扱ったバックステージものだからか映画人に深く愛される作品でもあります。

【ご覧になった後で】私的告白型自己分析映画の史上最高傑作に決定ですね

いかがでしたか?この映画は絶対に生涯ベストテンに入る作品でして、学生時代に初見して以来その考えを変えたことは一度もありません。何が良いかっていえば、あのラストシーンのすばらしさに尽きます。それまでのグイドのあわただしい現実と懐かしい回想とがゴチャマゼになって、自分を取り巻くすべての人々といっしょにカーニバルを始めるような祝祭劇に収斂する流れが、身体の内部から喜びがほとばしるような感動を呼ぶんですよね。そしてこの場面に欠かせないのがニーノ・ロータの音楽。コミカルでありつつ哀愁を漂わせるメロディとリズムでこのカーニバルをサーカスのようにも見せますし、リリカルな風景にも変えてしまうのです。ニーノ・ロータの音楽にのって幕が開いて、発射台の階段から一斉に映画の登場人物たちが降りてくるショットは心底身震いがするようでした。映画を見ていてこのような感じを身体全体で体感することは滅多にはありませんけど、この『8 1/2』の大団円だけはすべての観客に貴重な映画体験を味わわせてくれます。

そしてこの映画を見ていると観客は「映画で自分のことを語ってもいいんだ」ということを発見するのです。たぶん本作が作られるまで映画というのは虚構の世界であり、虚構でなければ記録映画というジャンルに区分けされていたでしょう。しかしフェリーニは映画を使って自己分析を行って極めてプライベートな告白をしています。もちろんフェリーニ本人をそのままというわけではなく、グイドというキャラクターを通じて架空のスタッフやキャストを絡ませていくのですが、描かれているのは紛れもないフェリーニ自身の内なる姿なのです。文学の世界では一人称で表現することが可能なので私小説というジャンルが早くから確立されていました。けれども映画はもともと演技者を撮影して見せる形態からスタートしたので、自分自身を語るということには使われませんでした。その既成概念を打破したのがこの『8 1/2』で、映画をプライベートな告白をするメディアに変えたという点でも本作は革命的な映画だったといえるでしょう。

映画監督が主人公であるということ自体が私小説的なのですが、子供の頃に母親から愛されて育った甘い記憶が忘れられないという思いが大きな湯舟に浸かったあとにサラサラの布に包まれてベッドまで運ばれる至福の映像に表現されていましたし、妻には従順でいてほしくて同時に若い女性にはいつまでも囲まれていたいという男性ならではの身勝手なハーレム志向が冬の夜に帰ってくる大広間の場面に表わされていました。これを見てなんて勝手な男なんだろうと感じてしまう方もいらっしゃるのかもしれませんが、男性視線で見ると誰もが夢見ながら口にすることがないハーレムをここまであからさまに映画にしてしまうフェリーニの大胆さというか正直さに参ってしまうのですよ。

さらにフェリーニはその告白映画をジメジメした四畳半的閉じこもり世界ではなく、晴れやかな温泉地を舞台にして流麗で計算された映像として構築していきます。本作が映像的にすばらしいのはひとつの画面の構図がどれひとつとっても破綻なく完璧に完成されているからで、序盤の温泉地に切り替わった場面のショットを見れば完成度が一目瞭然で理解できます。横移動するキャメラに次々に映り込む療養に来た客たち。半分はキャメラ目線で、半分はキャメラの存在すら気づかない様子で、その客の顔がアップになったり、バストショットになったり、後ろ姿になったりして、どんどん画面内の構成員を変えて横移動ショットが続きます。このワンショットの中に何人が登場したかわかりませんが、構図は十数種類にわたって決めポーズを切り取っています。これはもう映画にしかできない語り方で、映画のあちらこちらでこの移動ショット内の構図変化をフェリーニは自由に使い分けていきます。もうひとつはフィックスショットでの構図の切り替えで、こちらはすべて俳優を動かして映像の見え方を変化させていくやり方。グイドのアップの画面が、グイドがはけると奥にルイーズがいるといった按配で、クローズアップショットが俳優の動きだけでフルショットに変わってしまうのです。

そんなわけで映像が圧倒的なのでグイドのセリフはいつも言い訳だらけですが、そんな中で「私は過去を葬ることに失敗した」とか「人生はお祭りだ。さあ共に生きよう」とか印象に残る名セリフも散りばめられていました。それと同時に映画自体のことを「虚飾だ」といいながら、その「虚飾」をうまく利用して「真実」を語ろうとするフェリーニの映像作家としての真摯な姿勢が立ち上ってきていました。なんでも『甘い生活』以降次回作に悩んでいたフェリーニがその悩み自体を映画にすればいいんだというアイデアを思いつき、次回作を中止にして自殺してしまう映画監督の話を撮り始めたのだそうです。なので最初の構想ではラストシーンは監督を取り巻くスタッフやキャストによる葬列を撮影する予定になっていたところ、まず予告編を作成する必要があって予告編用に宇宙船発射台の周りで出演者たちが手をつないで回るという場面を撮ることになりました。するとフェリーニはそのフィルムこそが映画のラストにふさわしいと方向転換して、あの希望を感じさせて祝祭感にあふれた大団円に変わったのだそうです。だとするとテーブルの下で銃を撃ったことでグイドはかつての自分の過去を葬って、新しく再生したというふうに解釈すればいいんでしょうか。まあ、この『8 1/2』はどの場面がああだこうだと言葉で言い表すこと自体を受け付けない、純粋な映像作品であることには間違いないのですが。

ニーノ・ロータの音楽だけでなく、フェリーニはワーグナーの「ワルキューレの騎行」やロッシーニの「セルビアの理髪師序曲」などクラシック音楽をうまく挿入曲として使っています。そういうセンスを受け継いだのがフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』やリチャード・レスターの『ヘルプ!4人はアイドル』だったのかもしれません。あと誰かが言っていましたが、幼年時代の呪文のように出てくる「ASA NISI MASA」というのは言葉遊びの一種で、ひとつの単語の語尾に「SA」や「SI」をつけて呪文化するんだそうです。なのでそれを省くと「ANIMA」になってイタリア語で「魂」になるんだとか。これもまあ深い意味はないかもですけどね。

ちなみにこの映画のタイトルを日本語で発音するときには「ハッカニブンノイチ」でよろしいんでしょうか。小学生のときに算数の教師が分数の言い方を「これまではハッカとかいっていたが、今はハチトというようになったのだ」と言っていて、そんなのおかしいよねと内心思った記憶があります。現在的に「ハッカニブンノイチ」という「カ」方式が使われていないとすると、この映画の日本語読みにおいてだけ「カ」がレガシー的に残ってしまったということになります。もちろんフェリーニの名作をいきなり「ハイトニブンノイチと呼べ」といわれても誰も従う人はいないでしょうけどね。(T092322)

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