あにいもうと(昭和28年)

室生犀星が書いた短編小説を成瀬巳喜男が映画化した家族ドラマです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』です。室生犀星の原作はすでに昭和11年に木村荘十二監督によって『兄いもうと』として映画化されていまして、本作は戦後における大映でのリメイクということになります。成瀬巳喜男にしては珍しく大映で撮った作品で、ほかには『稲妻』しかありませんが、おかげで大映専属の京マチ子が唯一成瀬映画に出演することになりました。兄役は森雅之で、京マチ子とは同じ昭和28年に溝口健二監督の『雨月物語』でも共演しています。

【ご覧になる前に】東京とは川を隔てたすぐ隣の田舎町が舞台になっています

川の氾濫を防ぐ川師の親方だった父親は今ではかつての舎弟相手に怒鳴り散らすのが関の山になっていますが、母親は川べりに茶屋を開いてのんびりと商売に勤しんでいます。そこへ東京で看護婦の学校に通う次女が帰ってきました。次女はバス停前の製麺所の養子に気軽に声をかけますが、製麺所の両親は養子に向ってあの家族とは付き合うのをやめるように言い渡します。それは次女の姉が奉公先の学生と関係し妊娠して実家に戻ってきたための陰口でした。一方で次女の兄伊之吉は働かずに遊び歩いているところを父親に見つかり、こっぴどく怒られるのでしたが…。

本作の舞台は「東京が川のすぐ向こう側にある田舎町」という設定になっていて、「菅間町」という新宿行の電車の停車駅からバス便に乗らなければならない程度に離れた場所にあります。そのような名称の駅は実在しませんので、地理的には多摩川を西方面に超えた川崎市や稲城市のあたりを想定しているのでしょうか。現在からすると首都圏の一部であって東京とあまり変わらない地域ですが、戦後まもない時期では多摩川を越えるだけで大きく環境や街並みは違っていたようで、明らかに都会ではない田舎町として描かれています。

成瀬巳喜男は松竹から東宝の前身のPCLに移籍した監督で、そのまま東宝で映画の仕事を続けていましたが、戦後まもない昭和21年に東宝争議が勃発して撮影所が機能しなくなり映画が撮れなくなってしまいました。成瀬はフリーの立場になって映画会社の枠に縛られずに映画を作る道を選びましたが、本作以降の作品はすべて東宝製作となっていて、やっぱり成瀬組には慣れ親しんだ東宝撮影所の社員たちがスタッフとして必要だったようです。そんな中でも音楽だけは本作でも斎藤一郎が担当していて、成瀬作品には斎藤一郎の音楽が必ずくっついてくるというコンビだったのかもしれません。

兄妹を演じる森雅之、京マチ子、久我美子の三人以外では、父親役の山本礼三郎と母親役の浦辺粂子に注目したいところです。山本礼三郎はサイレント期からの俳優でマキノプロダクションに所属していましたが、マキノ雅弘と決闘まがいのケンカをして飛び出し、自分の映画製作プロダクションを立ち上げるなどの経歴をもっています。戦後はなんといっても黒澤明の『酔いどれ天使』でのヤクザの親分役が有名で、昭和39年に六十一歳で亡くなっていますので、ずいぶんと短い生涯だったんですね。一方の浦辺粂子(クレジットでは「浦邊」と表記されています)は老け役として出演した映画が300本以上という職人的女優で、特に成瀬作品ではちょっと抜けているのに慈愛に溢れた母親役として重用されていました。晩年はTVタレントとしても人気があったのですが、コンロの火が着物に引火して全身火傷で亡くなったのだとか。一人暮らしを貫いた末の出来事だったそうです。

【ご覧になった後で】東京を見せないまま田舎町の狭さを表現していました

うーん、終幕はなんとも尻切れトンボな終わり方でしたね。お盆で京マチ子と久我美子の姉妹が帰省し、兄と大喧嘩をしたうえで東京にまた戻っていく、ただそれだけで「おわり」と出てくるので、「物語性を否定する物語」を意図した作品なのかと勘違いしてしまいそうでした。室生犀星の原作がどうなのかは知りませんが、家族5人の暮らしが点描されただけで、特段なんのドラマチックさもないところが良いのでしょうか。そうだとしたら、逆に京マチ子と森雅之の取っ組み合いの喧嘩など見せずに、微妙な気持ちのすれ違い程度の、感情表現を抑制した映画にしたほうが良かったような気もします。

そんなストーリーラインとは別に映画全体にまとわりつくような閉塞感の出し方が非常に成瀬作品らしいところだったのではないでしょうか。「川の向こうはすぐ東京だもの」というセリフがありますが、土手や川砂利や水遊びする子供は映すものの、川の向こうにあるはずの東京の景色は一度も映画の中に登場しません。また京マチ子や久我美子がバス停を降りて実家に帰る経路は、いつも両側に雑木林が迫っているような細道になっています。空の高さは感じられるのに、姉妹たちは周りから押しつぶされるかのように狭い空間に閉じ込められていて、東京の暮らしは先が見えないし、実家に戻ってみても周囲から常に監視されているという八方塞がりな感じが描かれていました。そんな閉塞感の描き方が成瀬巳喜男らしい映像演出によって成立しているところが本作のポイントだったと思います。

主演の中では森雅之がいつもの高貴な、あるいはけだるい男性像からは真逆の、ひねくれたチンピラ風兄貴を演じていて、巧いなあとは思わされますけれども、本当に妹のもんのことを大切に思っているのかが今ひとつ伝わらない感じで、ややもどかしさが残りました。森雅之はやっぱりアンニュイ系中年男のほうが柄に合っているのかもしれません。かたや京マチ子はすれからしになってからの身振り手振りが変容ぶりなどの表現が巧く、序盤のしおらしさとの対比が効果を上げていましたね。

あと、川べりの茶屋で山本礼三郎がかき氷を作って出す場面。スプーンがないという仕草をして、山本礼三郎が差し出したスプーンをもう一度自分のハンカチで拭ってからかき氷を頬張るおじさん役が高品格でした。高品格は日活のアクション映画で脇役というか傍役でよく出ていた俳優でしたので、日活のイメージが強いのですが、戦後復員後は少しの間大映に所属していたらしいです。そんなところも苦労人っぽくて捨てがたい役者さんでしたね。(Y053022)

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