緒方洪庵の半生を描く教育映画が洪庵先生百年祭を記念して製作されました
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、木村荘十二監督の『洪庵と1,000人の若ものたち』です。文久3年(1863年)に亡くなった江戸後期の蘭学者緒方洪庵の没後百年を記念して製作された教育映画で、上映時間53分という中編・モノクロ作品として封切られました。洪庵を演じた南原宏冶が時代が平成に変わった頃に「時代が利あらずで20年数年早過ぎた。後世に遺る名作なので私が死んだ後でアンコール上映をやってほしい」とコメントするほど高く評価していたのが本作でした。
【ご覧になる前に】映画製作費は田辺製薬株式会社から全額寄付されました
文久3年江戸の医学所では喀血による窒息で急死した緒方洪庵を妻の八重が静かに見守っています。蘭学に親しみ医学の道に入った洪庵は医業を開き、患者の治療にあたっていました。薬の原材料の仕入れは妻八重が質入れして賄っていましたが、やがて洪庵は自らの知識と経験を後進たちに伝えるため適塾を創設。全国各地から集まった塾生たちは、しのぎを削って勉学に励むようになりました。適塾にやってきた新人の門下生がまず挨拶したのは、福澤という名の塾頭でした…。
備中の足守藩に生まれた緒方洪庵は牛痘種痘法による「除痘館」を開設して、猛烈な反対や迷信に抗いながら種痘の有効性を訴え続けて日本の医療制度の礎を築いた歴史に残る偉人のひとり。洪庵が大坂北浜に開いた適塾には全国から蘭学を学ぼうという志を持つ有能な若者たちが集まり、1000名を超える卒業生たちは全国各地で西洋医療を普及させるとともに、近代日本の国家形成に寄与することになりました。慶応義塾を開いた福澤諭吉、日本陸軍の祖となる大村益次郎、日本赤十字社の創設者佐野常民など適塾は明治の偉人たちを多く輩出しています。
昭和38年は緒方洪庵没後百年にあたり、「洪庵先生百年祭」として大阪大学を中心に記念講演会や展示会が開催されました。その百年祭に合わせて製作されたのが本作で、毎日国際サロンでの「第16回日本医学会総会」のあとで初上映されたという記録が残っています。百年祭の翌年には適塾の建物が国の重要文化財に指定され、現在でも洪庵の亡くなった6月10日にちなんで毎年6月第1月曜日を「洪庵忌」として洪庵の偉業を振り返り適塾の学問的精神を思い起こす一日とされています。
映画を作るといっても製作するにはそれなりのお金が必要になります。その資金を全額寄付したのが田辺製薬株式会社(現在は田辺ファーマ株式会社)で、適塾は薬の町として栄えた道修町の近くにあり、日本の医薬品業界発祥の地である道修町に店を構えていたのが田辺製薬でした。洪庵先生百年祭の昭和38年は田辺製薬創業285周年にあたり、田辺製薬としても文化貢献・社会還元活動の一環として映画の製作費を丸ごと引き受けることになったんだそうです。
田辺製薬の出資によって製作を担ったのがMOMプロダクションで、持永只仁らが創設したMOMプロダクションは人形アニメ映画を中心として児童映画や教育映画を製作していました。前年の昭和37年にMOMプロで『僕たちはギャングじゃない』という児童映画を監督した木村荘十二が本作でも監督に起用され、手堅い演出力で中編をまとめています。
「協力」としてクレジットされた劇団俳優座が出演者を提供していて、永井智雄、稲葉義男、松本克平、矢野宣といった男優たちが脇を固め、山本清が福澤諭吉を、市原悦子が妻八重を演じています。主人公の洪庵役をやるのは南原宏冶で、大映で映画界に入り東映に移籍してニューフェース1期生として中原ひとみや山本麟一らとともに活躍した人。昭和32年に独立プロダクションの作品に出演したことが五社協定に抵触したとみなされて東映を離れて文芸プロダクションにんじんくらぶに所属して、昭和35年に南原伸二から南原宏冶に改名しました。本作はその当時の出演作ですが、南原本人が後年になっても「商業主義から離れていたから評判にはならなかったが、非常に名作だったのでぜひ再上映して見てもらいたい」と話すほど思い入れのある作品でした。
脚本を書いたのは山形雄策と瓜生忠夫の二人で、東宝出身の山形雄策は今井正の『民衆の敵』を書いたのちに東宝争議を経てフリーになり『暴力の街』や『真空地帯』の脚本を残しました。ほとんど脚本作品のない瓜生忠夫は多くの映画評論を書いています。キャメラマンの黒田清己は他の長編作品歴が見当たらないので、教育映画の撮影を専門にしていたのかもしれません。
【ご覧になった後で】きちんとドラマになっていて歴史の勉強になりました
いかがでしたか?緒方洪庵のことも適塾のことも日本史の中でぼんやりとしか認識していませんでしたので、牛痘種痘を採取する場面や塾生たちが褌姿で広間に散らばって勉学に励む場面などからリアルな洪庵像が伝わってきて非常に勉強になりました。江戸時代というと西洋医学を導入すること自体に拒絶感があったでしょうし、病気はお祓いでしか治せないみたいな迷信や熱が出たらネギを巻けみたいな民間療法がまかり通っていたことでしょう。そんな中で西洋の知識を取り入れて多様性を認めながら前例のない治療法を日本国内に普及させた緒方洪庵はまさに偉人だったとしか言いようがないですし、このような人が時代から排除されずに五十二歳という寿命を全うしたことは江戸末期の奇跡のひとつだったかもしれません。
映画は単純な偉人伝になっておらず、緒方洪庵を中心に適塾門下生たちを群像劇として描くドラマになっていました。洪庵が常にフェアで寛容な人物として表現される一方で、門下生たちには真面目に勉強する者もいれば新人に借金をねだる者もいますし女に熱をあげる者も登場します。若者たちが秀才一辺倒というわけでないところにリアリティがあって、全国から集まった多種多様な人材が切磋琢磨しつつ互いの人生観をぶつけ合って人間的に成長していく(あるいは脱落していく)様子は見ごたえがあって、上映時間53分以上の厚みが感じられました。
南原宏冶の緒方洪庵は威厳とともに飄然さが滲み出ていて巧いなと思わされましたし、市原悦子は初対面する場面で十七歳とナレーションが入るところでは吹き出しそうになったものの、柔和な印象で糟糠の妻というよりは影の功労者的な雰囲気が伝わってきました。一方で福澤諭吉を演じる山本清はちょっと体格的に太り過ぎていて、福澤諭吉というよりは西郷隆盛みたいに見えてしまうのは残念な点でした。あと女に入れ込んで破門される塾生は誰が演じていたんでしょうか。大映で悪役をやっていた伊達三郎のようにしか見えなかったんですけど、クレジットに出ていたかどうかがわからずネットでも出演記録は確認できませんでした。
ぶらさげて持ち帰った豚の頭を解剖しようとするところや動物の内臓を引っ張り出して腎臓の現物を確認するところなどは、日本医師会が製作に関わっていただけあって非常にリアリティがありました。また洪庵が借りてきた最新の蘭学書を一晩で書き写すシークエンスは塾生の熱量が画面から溢れるような迫真性があって、ただ単に机に向かって読書するというだけでは表現できない適塾の精神みたいなものが伝わってきました。
洪庵先生百年祭のために製作された本作は一般の配給網には乗せられることはなかったでしょうから、百年祭終了後は映画館の二番館や名画座に回ることもなく上映機会に恵まれなかったと推測されます。映画の冒頭に国立フィルムセンター所蔵作品のクレジットが出るように、たぶんプリントのうちの一本が映像資料としてフィルムセンターに残されたのでしょう。教育映画といっても本作のようにドラマとしてきちんと成立した作品もあるわけですので、保管庫に所蔵されているだけでは惜しいような気がしますね。医学を志す若い学生たちが本作に触れる機会が増えると良いなと思います。(T102226)

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