シベールの日曜日(1962年)

戦争で記憶を失くした男と親に捨てられた少女の交流を描いたフランス映画

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、セルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』です。原作はベルナール・エシャスリオが書いた「ヴィル・ダヴレイの日曜日」で、インドシナ戦争での負傷で記憶喪失に陥った男が父親に捨てられ修道院に預けられた少女との出会いを描いた物語でした。ヴェネツィア国際映画祭に出品されると特別賞を受賞し、翌年春に行われたアカデミー賞では外国語映画賞を獲得。日本でも1963年に公開されるとキネマ旬報外国映画ベストテンで第3位に選出されました。

【ご覧になる前に】少女を演じたパトリシア・ゴッジは撮影時十二歳でした

森と田んぼに囲まれた村を爆撃している男は目の前に悲鳴をあげる少女を見ると固まってしまいます。その男が駅のベンチに座っていると少女を連れた父親から修道院への道を尋ねられ、男が少女にガラス玉を差し出すと父娘は夜の道を歩き出します。修道院の鉄扉を開けた父親は修道女に預けた娘から「日曜日に面会に来て」と頼まれますが、扉に鞄を置いたまま走って最終列車に乗り込んでしまいました。父親を追いかけた男は駅員からピエールと呼ばれ、家では看護師のマドレーヌから記憶を取り戻すよう励まされるのでした…。

1924年生まれのベルナール・エシャスリオは作家でもあり演劇教師・俳優でもあった人で、1958年に「ヴィル・ダヴレイの日曜日」を発表しました。映画化にあたってセルジュ・ブールギニョンの脚本にセリフを提供したエシャスリオには本作以外では目立った著作はなく、2010年に八十五歳で亡くなっています。監督のセルジュ・ブールギニョンは二十歳の時に『恐るべき子供たち』でジャン・ピエール・メルヴィルの助監督をつとめた経験があり、短編映画の監督をしたのちに本作で初めて長編映画を監督することになりました。セルジュ・ブールギニョンもエシャスリオ同様にほかにあまり知られた作品はなく、1967年のブリジット・バルドー主演『セシルの歓び』がある程度です。

一方でスタッフは有名になる人たちが揃っていてキャメラマンのアンリ・ドカエはジャン・ピエール・メルヴィル監督の『海と沈黙』でデビューすると、『死刑台のエレベーター』『恋人たち』『いとこ同志』『大人は判ってくれない』『太陽がいっぱい』などヌーヴェル・ヴァーグ旋風が吹き荒れた当時のフランス映画の傑作で次々にキャメラを回しました。『恐るべき子供たち』もアンリ・ドカエが撮影していましたからセルジュ・ブールギニョンとはその頃から知り合いだったのかもしれません。

また音楽を担当したのはモーリス・ジャール。『顔のない眼』で知られるジョルジュ・フランジュ監督作品に楽曲を提供していたモーリス・ジャールは本作と同じ1962年に『史上最大の作戦』と『アラビアのロレンス』の音楽を手掛けて大きく飛躍していき、デヴィッド・リーン監督作品はほとんどモーリス・ジャールが担当することになっていきます。

主演のハーディ・クリューガーはベルリンに生まれアドルフ・ヒトラー・シューレ在学中に召集されて、上官命令に背いた経験の持ち主。『脱走4万キロ』でドイツ空軍パイロットを演じたりハワード・ホークス監督の『ハタリ!』にドイツ人ハンター役で出演したりとドイツ人としての映画出演が目立ちますが、代表作はなんといってもこの『シベールの日曜日』でしょう。

少女を演じたパトリシア・ゴッジは1950年生まれですから本作出演時はまだ十二歳で、映画の中の少女の年齢と同じでした。子役として数本の映画に出た経験があり、本作以降は1965年にジョン・ギラーミン監督の『かもめの城』がある程度で、映画女優としての活動は途絶えてしまいました。

1962年のヴェネツィア国際映画祭でのプレミア上映の際には観客から数分間スタンディングオベーションされるほど成功を収め、アメリカで「Sundays and Cybele」のタイトルで公開されると大ヒットを記録。日本では翌年に第3回フランス映画祭の出品作に選ばれ『突然炎のごとく』『地下室のメロディー』とともに上映されました。ブルーリボン賞最優秀外国映画賞を授与されるなど日本でも高い評価を受けたのですが、実はフランスでは完成直後にこの映画を配給しようという会社が現れず「知識人には感傷的過ぎるし一般人には知的過ぎる」と評されたそうです。

しかしアメリカでの大ヒットが伝えられるとやっとパリで上映が始まり、最終的には180万人の観客動員数を記録することに。フランスでの公開後にル・フィガロ・ルテーレ紙で原作者のエシャスリオと監督のブールギニョンの対談が掲載されると、二人の間で激しい論争が繰り広げられたそうで、エシャスリオはブールギニョンが自分の作品を「裏切った」と非難したという逸話が残っています。

【ご覧になった後で】戦傷病者を描いていながらテーマはもっと複雑でした

いかがでしたか?学生の時に映画館で見て以来の再見で、当時は悲恋ものという印象をもった記憶があります。心に傷を負った帰還兵が少年のような気持ちになって不幸な境遇の少女と恋をするのですが、周囲の人々のちょっとした誤解によって破綻してしまうというストーリーが記憶に焼き付いているのと同時に、露出オーバーのモノクロ画面に爆撃音がかぶさる不気味なオープニングも妙に忘れがたいイメージとなって残っていました。

当時は世界史的な位置づけを確かめることもしませんでしたけど、原作が1958年に発表されていることを考えると主人公ピエールはフランスインドシナ戦争から帰還した戦傷病者という設定になります。第二次世界大戦で日本軍が降伏してベトナムが独立を宣言したものの、旧宗主国フランスはインドシナを再び支配しようと再度進駐を始めます。近代装備をもつフランス軍に対してベトナムはゲリラ戦で対抗して結局7年以上続いた戦争は1954年のジュネーヴ協定で休戦となり、ベトナムは北緯17度線で南北に分割されることになりました。

パイロットのピエールが爆撃機から見下ろした少女のストップモーションで不気味なオープニングは終わります。しかしこの少女がピエールの心に深い傷跡を残し、PTSDや強いトラウマが引き起こした記憶の障害を抱えたピエールは看護師マドレーヌの庇護のもとでダヴレイ村で暮らしているという序盤に引き継がれます。駅で修道院に連れていかれた少女を見送った後のアパートメントの場面では、寝間着に着替えたマドレーヌがピエールとベッドで抱擁するところでカットとなりますので、二人が深い関係にあることが示されていました。

父親の手紙を届けたことがきっかけとなって毎週日曜日に少女とピエールは池のある公園で会うことになります。少女は修道院で本当の名前があるのにフランソワーズにさせられたとピエールに告げ、教会の風見鶏をもってきてくれれば教えてあげると言います。ここらへんの伏線が実は本作の重要なテーマにつながっていくのが脚本の巧いところでした。

ピエールとフランソワーズが日曜日を公園で過ごす場面が何度が繰り返されますが、この公園の二人を写したアンリ・ドカエのキャメラが非常に美しく、特に木立の中を霧に包まれたようなぼんやりした画面でとらえたシーンは『シベールの日曜日』の印象そのものを代弁していたのではないでしょうか。公園のシーンははじめはクリアに撮られているのにこのような霞がかった絵になったり暖炉のあるカフェでの室内シーンになったり朽ちた小屋でのクリスマスの夜になったりして映画の進行とともに転調していきます。舞台は同じ公園なのにそのイメージが次第に非現実的というか幻想的な雰囲気に移ろっていくんですよね。アンリ・ドカエのキャメラは構図の取り方とか移動ショットの使い方とかよりも、このような光の加減とか空気感とかを露出の変化によって見事に映像化していたと思います。

この公園でいくつかの重要なやりとりが描かれていきます。フランソワーズはピエールとの年齢差を計算して自分が十七歳になったら結婚できると言い、記憶を失くしたピエールに対して母親のような態度で接します。そのフランソワーズが子供たちの集団と出会い遊んでいるときにピエールはフランソワーズの身体に触れた男の子を殴ってしまい、暴力は嫌だというフランソワーズから「嫉妬したの?」と言われます。また結婚式の後で寄ったレストランの窓越しにピエールは馬に乗った男の連れがフランソワーズではないかと疑い、町の噂で二人の関係を知ったマドレーヌが公園でじゃれるようにして遊ぶ二人をそっと微笑むように見守る姿が描かれます。

クライマックスは芸術家カルロスの家からツリーを盗んだピエールが公園の小屋でフランソワーズとシャンパンで乾杯し、本当の名前がシベールであると打ち明けてもらったピエールが教会の風見鶏を取り外すクリスマスの夜に収斂していきます。マドレーヌが公園にピエールを探しに行かずに医者のベルナールを呼び出す流れはやや不自然ではありますが、警察に連絡する人が必要なのでそれをベルナールにやらせるしかないので仕方ありません。占い小屋でピエールがナイフを拝借したときから観客はあのナイフが悲劇につながるんだろうなと予測しているので、部屋にかかってきた電話に「殺した!?」とマドレーヌが叫ぶので、一瞬ピエールがフランソワーズを刺したのかと感じてしまいます。

でもここがセルジュ・ブールギニョンの演出の冴えたところで、観客を困惑させておいてカットが切り替わると夜の公園を逃げるフランソワーズが押さえつけられる移動ショットになり、再現シーンなのかと思ったらそうではなくて、警察から逃げようとしたフランソワーズが取り押さえられただけで実はピエールが殺したのではなく警察がピエールを撃ったのだとわかります。血を流して目を開けたまま仰向けに倒れているピエールを見下ろすショットは悲劇の象徴のような鮮烈なイメージを残しますが、ナイフで襲いかかるところだったと警官が語るセリフは観客にはむなしく聞こえるだけです。そして「君の名前は?」と聞かれたフランソワーズは「私にはもう名前なんかない」と涙を流して叫ぶクローズアップがそのままラストショットになってエンドタイトルが浮かび上がってくる終幕は思わず観客のほうも涙が滲んでくるような哀切さがありました。

オープニングから不吉感満載で始まった本作には観客を不安にさせる映像が散りばめられていました。水面に映るピエールとフランソワーズの姿が揺れて消えて行ったり、マドレーヌのアパートメントのエレベーターが暗い穴の中を上ってきたり、ワイングラスの底を通してベルナールや友人たちの顔を異世界の人のように見せたりと、この映画は悲劇で終わるんですよということを予告しているような描き方がしてありました。モーリス・ジャールの音楽も高音の弦と低音のピアノの繰り返しで、ピエールとフランソワーズの交流が長くは続かないものなのだということを表現していました。

学生のときに見た印象は、戦争で傷ついた男が子供のような気持ちに戻って少女と淡い恋をするというロマンスが周囲の人たちの誤解で破滅させられるというものでした。それから数十年経過して見直してみると、その見方はちょっとズレていたような気がしていまして、それは少女の側のとらえ方が違っていたのだと気づいたのでした。つまり少女は単なる少女ではなかったのではないかということです。

少女はピエールのことを結婚相手とか婚約者とか呼び、自分のことをピエールにとっての母親のような存在だとも言います。子供の遊び仲間に入ったとき男の子を殴ってしまうピエールは大人としてではなく子供同士の取っ組み合いのような感じで手を出すのですが、少女はそれを暴力だと非難しピエールの嫉妬心の現れだと感じます。ピエールを高級そうなカフェに誘い込みホットカクテルを注文し、クリスマスの夜には泡が好きだとシャンパンにさえ口をつけます。こうした言動はもう少女のものとはいえず、ひとりの大人の女性のものだといっても違和感はありません。ピエールが子供のような気持ちで少女に接したのとは反対に少女は大人の立場でピエールに甘えさせていたといっても良いかもしれません。

となると修道院でフランソワーズという名前にさせられたというのはもしかしたら少女の虚言だったのかもしれません。つまり元から少女はフランソワーズであって「シベール」という名前はフランソワーズがなってみたい別の人格の象徴だったのではないでしょうか。だとすると「シベール」にどんな意味があるかが非常に重要になってきます。

「Cybèle」はフランス語では「シベール」ですが英語では「キュベレー」になります。少女が「森と木のギリシャの女神」とピエールに伝えたイメージよりもっとスケールの大きい存在で「大地と自然、生命そのものを生み出す偉大な母」といったような野性的な生命力をキュベレーは表します。そしてキュベレーはアッティスという青年を愛するのですが、アッティスは別の女性と結婚しようとし、激しく嫉妬したキュベレーはそれを妨害しようとします。アッティスは狂乱状態に陥り、自らの性器を切り取って死んでしまいます。このお話は「アッティスの去勢」として知られているそうです。

原作者のベルナール・エシャスリオは少女にわざわざシベール=キュベレーの名前を与えたわけですから、こうしたギリシャ神話をどこかで意識していたのではないでしょうか。フランソワーズは少女の仮面をつけていただけで実はシベールであってキュベレーのような絶対的母性の存在だったという解釈が可能なような気がします。そしてマドレーヌという恋人をもつピエールはキュベレーと愛し合いながら別の女性と結婚しようとしたアッティスであって、去勢されての死は少女と性的関係を結ぶことなく殺されてしまうことに書き換えられたと考えるのはいかがでしょう。

現在的には三十歳の男が十二歳の少女と仲睦まじく公園で戯れる映画だというだけでロリコンとか小児性愛とかのレッテルが貼られてしまいそうです。しかし本作を見ると異常性愛どころか性的なものは一切感じられません。ピエールとフランソワーズはキスこそしませんが頬を合わせたり抱き合ったりするのでかなり身体的接触は多いのですが、町の人が誤解したようにそれは親子の触れ合いのようなもので、男女の性的愛撫を想像させません。しかしこの二人が長くこの関係を続けるならば、いずれはフランソワーズは成熟した女性に成長するわけなのでいつかは間違いなく性的な肉体関係に発展することでしょう。しかしそうなってはこのお話は成立しなくなります。あくまで子供のような気持ちに還った男とその男を母親のような気持ちで包み込む少女の物語でなければ、この純粋性は保てないのです。だからこそ、ピエールは警官に殺されなければならないと読むこともできます。今この段階で殺されることは、キュベレーに対して去勢するアッティスのように少女に対して性的関係に踏み込まないことの証明であったというのが本作の隠れたテーマだったという見方も面白いのではないかなと思います。

とまれ、こうした映画を成立させるには配役がもっとも難易度が高かったでしょうし、俳優も難しい演技が求められたことだったでしょう。ハーディ・クリューガーはまったくわざとらしさがなくごく自然な演技で記憶が失くした人のやりきれなさを醸し出していましたし、フランソワーズに対する態度も男の子が女の子のことを好きになるような雰囲気が感じられました。つまり男性でありながらもっとも性的なものから遠く離れていた存在になりきっていたということで、マドレーヌとの関係も演じなければいけない両面性を考えるとハーディ・クリューガーの演技は称賛に値するものだったと思います。

そしてパトリシア・ゴッジはほとんどほかの出演作がないのが当たり前に思えるくらいにフランソワーズそのものでした。子供っぽさを感じさせながら大人の母性のようなものを演じるのは、ややもすれば「おしゃまな女の子」みたいな感じで終わってしまいがちです。それを単なるおませな感じではなくナチュラルに大人の女性っぽさを演じるのは非常に難しいはずですが、パトリシア・ゴッジには明朗かつ落ち着いた思慮深さのような芯の強さが感じられ、「シベール」の名前の由来を伝えるときには女神のような深みが感じられました。

ラストショットの撮影で涙を流せるかどうかパトリシア・ゴッジは不安だったそうですが、セルジュ・ブールギニョンは準備が整ったと感じたときに即興でそのショットを撮影したそうです。パトリシア・ゴッジは監督の期待に応えて見事なラストショットが完成しました。「私には名前はない」と叫ぶセリフの意味はピエールが殺された今となっては「シベール」でいても仕方がないということだったのでしょうか。いずれにしても本作は戦傷病者と少女の淡い恋を描いたという単純な物語ではなく、いろいろな解釈ができるメタファーを含んだ幻想的な作品であるという見方をしたほうが楽しめるような気がします。ロマンスでもありファンタジーでもあり悲劇でもあるという複雑さが『シベールの日曜日』の魅力なのかもしれません。(T092126)

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