真昼の決闘(1952年)

ゲーリー・クーパーが町民から見放される保安官を演じた西部劇の傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』です。原題の「High Noon」の通り、映画は壁時計が10時35分を指す結婚式の場面から始まり、正午過ぎに行われるガンファイトまで、ほとんどリアルタイムで進んでいきます。その中で極悪人の復讐に対抗するため協力をもとめる保安官が町民から見放されて、孤立無援のまま4対1の対決にのぞまなければならなくなる物語が1時間半で語られる構成になっています。保安官を演じたゲーリー・クーパーは本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得し、映画も全米興行収入4位の大ヒットを記録しました。

【ご覧になる前に】脚本のカール・フォアマンは赤狩りリストの一人でした

町外れの丘から三人の男たちがハドリーヴィルの町を通り抜けて正午に着く汽車を待つために駅に向かいます。町の住民たちが三人のことを噂するところへ電報が届き、五年前にこの町で逮捕された極悪人フランク・ミラーが釈放されたという知らせが入りました。ミラーを逮捕した保安官のウィルは新妻エレンとの結婚式を挙げたところでしたが、町長や判事はすぐに町を出るように勧められ妻とともに馬車で出発します。しかし町を離れたとしてもミラーはどこまでも追いかけてくるに違いないと考えたウィルは、町に戻るならひとりでセントルイスに行くというエレンを駅に置いて保安官事務所に戻り、町の人々に加勢を頼みに行くのでしたが…。

原作はジョン・カニンガムの「ブリキの星」となっていますが、実際はカール・フォアマンが書いたオリジナル脚本のほうが先に出来上がり、無法者と保安官が対決するという展開が似ていて後になって盗作騒ぎにならないように念を入れて、プロデューサーのスタンリー・クレイマーがカニンガムの原作の映画化権を入手したという経緯のようです。それくらいにカール・フォアマンの書いたシナリオは完成されていて、監督のフレッド・ジンネマンははじめてフォアマンの脚本のドラフトを読んだときに、「傑作で華麗で刺激的で斬新だ」と感想をもらしたそうです。

スタンリー・クレイマーは『渚にて』や『ニュールンベルグ裁判』などの社会派映画の監督として有名ですが、これらの作品はすべて製作兼監督作品で、もとはスタンリー・クレイマー・プロダクションズという自らの映画製作会社でプロデューサーをしていた人でした。ハリウッドのメジャースタジオからあれこれ言われないように自分で映画を製作して、メジャーに配給してもらうというビジネススタイルをとっていて、本作も完成作品をコロンビアピクチャーズに配給させようとしたら内容を酷評されて断られたんだそうです。結果的にはユナイテッド・アーティスツが配給を引き受けて、大ヒットした映画は予想以上の利益をもたらすことになりました。

スタンリー・クレイマーは主人公のウィル・ケイン保安官にグレゴリー・ペックをあてるつもりでしたが断られてしまい、その他にもチャールトン・ヘストン、マーロン・ブランド、バート・ランカスターなどにもオファーを受けてもらえませんでした。そこで起用されたのがゲーリー・クーパーで、クーパーは1941年に『ヨーク軍曹』でアカデミー賞を獲得してキャリアのピークを迎えていましたが、戦後は自らのプロダクションの失敗やパトリシア・ニールとの不倫などで人気を落としていた時期でした。さらにはクーパーは五十歳を超えていて、ウィルの年齢設定が三十歳程度だったのと新妻役のグレース・ケリーとは親子ほどの年齢差になってしまうことから、歳を取り過ぎているのではないかという懸念もありました。しかし町民から見放されるという設定やクーパーの顔のしわ自体が憔悴しきった主人公を表現するのにぴったりだということで、出演が決定。ゲーリー・クーパーは本作で見事にアカデミー賞主演男優賞を獲得してカムバックを果たすことになったのでした。

当時は上院議員ジョセフ・マッカーシーによる非米活動委員会が共産主義者やそのシンパを弾圧する「赤狩り」が吹き荒れた時代で、ハリウッドでもそのような傾向をもつ映画人が次々に追放されていました。脚本を書いたカール・フォアマンは学生時代に共産党員だった過去をもっていて、本作完成後にイギリスに逃亡することになります。実質的にはスタンリー・クレイマーとともにプロデューサーとしても仕事をしていたカール・フォアマンでしたが、完成したフィルムのクレジットでは脚本だけの扱いになっていて、本作以降カール・フォアマンは二度とスタンリー・クレイマーとは仕事をしなくなったそうです。脚本家としてのカール・フォアマンは、イギリスとアメリカが合作した大作でシナリオを任され、『戦場にかける橋』や『ナバロンの要塞』などの脚本を書くことになります。

【ご覧になった後で】フレッド・ジンネマンの演出が教科書のようでした

いかがでしたか?この映画は子供の頃の地方都市で名画座にかかっていた大昔に見たことがあり、映画を見る原体験となった映画のひとつなのですが、かなり長い間再見する機会がなく、本当に何十年ぶりに見たところ、こんなすごい傑作だったのかとあらためて感心してしまうほどでした。もちろんリアルタイムで進行する脚本もよいのですが、なにがすごいかといえばまさに映画の教科書を見るようなフレッド・ジンネマンの完璧な映像演出が本当にすごいです。それを確認する一番良い方法は、この映画の音声を消して無音で字幕なしで見てみることです。間違いなく音なし字幕なしでも、物語の展開や登場人物の心情などが手に取るように理解できるでしょう。それはフレッド・ジンネマンの演出が非常にサイレント映画的手法で押しまくっているからで、セリフではなく映像だけでこの保安官の追い詰められた状況を描き切ることに成功しています。

たぶんそれがあまりに完成し過ぎているためにわかりやす過ぎるというか過剰な表現になり過ぎているという、ちょっと変な評価を下されているのかもしれません。映画の冒頭に登場する悪党三人のクローズアップの挿入や教会で保安官が逃げればいいと結論づけたときの町民たちのうなだれた表情などは、伝えたいことそのまんまの映像なので、確かにクサいというかもうちょっと技を利かせてくれというふうに受け取られるかもしれません。しかし文学や音楽などと違って動く映像を持っていることが映画の最大の特徴なわけですから、映像を見てわかるということが一番重要なことなのです。たぶん英語もわからず映画を見たこともない世界のどこかの国の子供たちにこの映画の映像だけを見せても100%『真昼の決闘』がどんな映画なのかを理解するでしょう。そんな純粋映画という側面があるんだということを何十年ぶりかで再認識したのでした。

それじゃあ音は何の意味もないのねというとそうではなく、効果音と音楽の使い方も同時に完璧なんですよね。町民の誰一人協力してくれないと悟ったゲーリー・クーパーが事務所で遺書を書き始める場面。紙にペンが走るサラサラという音が拡大して聞こえてきて、そのペンの音に覆いかぶさるように汽車の車輪と汽笛の音がインサートされ、死の決意すら極悪人の登場によってかき消されてしまうというクライマックスを音で盛り上げています。そして音楽はディミトリー・ティオムキンの「Do not forsake me, Oh my darling」のメインモティーフが繰り返されて、それがリリカルに響くときと暴力的にかき鳴らされるときのメリハリをつけて挿入されます。

そんな中でこの『真昼の決闘』のベストショットは、誰一人援軍のいないウィルが町のメインストリートにひとりきりで立ちすくむのをググーッと引いて撮ったクレーンショットでした。ゲーリー・クーパーのバストショットからキャメラがクレーンで上昇して超ロングショットになる見事な移動撮影で、町の中で孤立するウィルの心情が痛いほどに伝わる名場面になっていましたね。このクレーンは隣にあったワーナーブラザーズのスタジオにジョージ・スティーヴンソンがいて、フレッド・ジンネマンにクレーン機材を貸してあげたんだそうです。確かにスタンリー・クレイマー・プロダクションズではそんな滅多に使わない大きな機材は持っていなかったでしょうから、隣に知り合いの大物監督がいてくれてよかったですね。

ゲーリー・クーパーは特に馬小屋でのハーヴェイ(ブリッジズ兄弟のお父さんのロイド・ブリッジズ)との殴り合いの場面で、かなり老けた感じが出てしまっていました。けれど、悪に立ち向かう勇気がありながらヒーロー然としていなくて、最終的には町民が逃げろという理屈もわからなくはない中で、でも逃げてもまた追われることになる個人的な逃げ場のなさからひとりで戦わざるを得なくなる保安官というキャラクターを見事に表現していたと思います。グレース・ケリーがまだ幼さが残るくらいの若々しい美しさなのは当然だとして、メキシコ女ヘレンを演じていたケティ・フラドが真逆の色香を出していました。ちなみにウィルとヘレンがメキシコ語で交わす会話は「私は一年会うのを我慢していたわ」「わかってる」というような意味らしいです。

カール・フォアマンは赤狩りが始まってから、自分はかつては共産党員だったけれども現在はシンパではないということを正当に主張したようですが、周囲の仲間たちはそんなフォアマンのことを誰一人助けようとしてくれなかったそうです。みんな自分のことだけを考えていて、誰かのために危険を冒そうとしなかったのでしょう。フォアマンは『真昼の決闘』に書いた町民のセリフはすべて自分が言われたことをそのまま書いただけだというようなコメントを残していて、まさに大衆というものの裏に隠された自己保身の卑怯さというか矮小さを『真昼の決闘』は暴くことになりました。保安官が勇気あるヒーローだったのではなく、町民が長い物には巻かれろ的な事なかれ主義の愚衆に成り下がり、普通の人を孤立させてしまう恐ろしさが本作のテーマでもあったんですね。

ハワード・ホークスはウィルのように怖気づいて町民に応援を頼む保安官を全否定して『リオ・ブラボー』でジョン・ウェインに保安官チームだけで悪党退治させていますし、そのジョン・ウェインは1970年代はじめの雑誌のインタビューでウィルがバッジを投げ捨てたことを猛烈に批判しました。確かにゲーリー・クーパーのウィルは西部劇のヒーローではないかもしれませんが、このようなシチュエーションに追い込まれた人間としてやるべきことをやり抜いたという点において英雄的ではあったといえるでしょう。その点でも本作はハリウッドにおける英雄像を上書きすることになった画期的な傑作西部劇なのではないでしょうか。(A091122)

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