日本映画

処刑の島(昭和41年)

松竹に入社して『恋の片道切符』で監督に昇進した篠田正浩はその5年後の昭和40年に松竹を退社しました。本作は退社後初となる監督作品で、武田泰淳の原作を石原慎太郎が脚色したシナリオを映画化しています。
外国映画

十戒(1956年)

1923年製作のサイレント映画『十誡』を大ヒットさせて「史劇の巨匠」とも呼ばれていたセシル・B・デミルが七十五歳のときに自らのプロダクションによりリメイクした3時間40分に及ぶ大作で、製作費は当時の金額で1300万ドルに達しました。
1940年代

紳士協定(1947年)

ハリウッドではアメリカ社会の背後に潜む反ユダヤ主義(Anti-Semitism)を取り上げることはタブーとされていましたが、20世紀フォックスのダリル・F・ザナックは初めてこのテーマを真正面から取り上げた映画を製作しました。
1940年代

十字砲火(1947年)

原作は後に『熱いトタン屋根の猫』や『プロフェッショナル』の脚本・監督を務めることになるリチャード・ブルックスが書いた小説で、RKOラジオピクチャーズのエイドリアン・スコットがプロデューサーとなって映画化されました。
日本映画

新幹線大爆破(昭和50年)

新幹線を爆破するという犯人を主人公にした本作は、日本国内では不入りに終わったものの、海外のバイヤーたちから注目を集め、本編を3分の1カットした100分の短縮版はフランスをはじめ世界各国でヒットを記録しました。
日本映画

白い巨塔(昭和41年)

小説「白い巨塔」は大学病院や医学界の内幕を赤裸々に描いて評判を呼び、昭和40年には新潮社から単行本も刊行されました。翌年その小説を映画化したのが経営危機に瀕していた大映で、山本薩夫監督にとっても代表作となりました。
日本映画

地獄門(昭和28年)

永田雅一社長の指示の結果採用されたのは室内での露光でも撮影が可能なコダック社のイーストマンカラーシステムで、大映初のカラー作品は平安時代を描いた『地獄門』に決まり、アメリカ産ネガフィルムによって撮影されることになったのでした。
日本映画

処刑の部屋(昭和31年)

『太陽の季節』が公開されると無軌道でインモラルな若者たちは「太陽族」と呼ばれて流行語になっていきます。そのブームを察知した大映はすぐに石原慎太郎の短編小説の映画化に着手し、日活から大映に移籍したばかりの市川崑に監督を任せたのでした。
日本映画

修羅雪姫(昭和48年)

もとになったのは小池一夫作・上村一夫画のマンガで、東宝系の映画製作会社である東京映画によって製作されました。監督の藤田敏八は日活出身、主演の梶芽衣子は日活から東映に活躍の場所を移していて、各界寄せ集め作品になっています。
1940年代

死刑執行人もまた死す(1943年)

第二次大戦当時チェコスロバキアはナチスドイツ占領下にあり、首都プラハではナチス高官が暗殺される事件が起きていました。本作はその事件を題材にしていて、脚本には演劇家として有名なブレヒトが参加しています。
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