砂糖菓子が壊れるとき(昭和42年)

マリリン・モンローをモデルにした曾野綾子の小説を若尾文子主演で映画化

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、今井正監督の『砂糖菓子が壊れるとき』です。原作となった曾野綾子の小説はマリリン・モンローの半生をモデルにしていて、主人公の映画スター千坂京子を若尾文子が演じています。マリリン・モンローは三十六歳のときに睡眠薬の多量摂取で亡くなっていますが、本作出演時の若尾文子は三十三歳と女ざかりの時期。マリリン・モンローの不幸な生涯を知っているとより楽しめる作品になっています。

【ご覧になる前に】脚色したのはのちにTV界の大御所となる橋田壽賀子でした

深夜に写真スタジオを訪れた千坂京子はミンクの毛皮を脱いでヌード撮影に応じます。映画会社との契約が打ち切られてしまいお金に困った末のことでしたが、そこへあるパーティで知り合った工藤老人から映画監督を紹介するという連絡が入ります。工藤を撮影所で待っていた京子は石黒監督から声をかけられセリフのテストを受けることになり、映画の脇役に抜擢された京子は新たな出演契約を獲得することができました。工藤と温泉に出かけた京子でしたが、ヌード写真がスクープされ映画会社から謝罪会見を開くためすぐ帰京するよう指示されます。心臓発作を起こして倒れた工藤から真実を語れと励まされた京子は会見の席にのぞむのでしたが…。

本作は昭和42年6月に大映配給で封切られていまして、曽野綾子の小説が発表されたのはその前の年の昭和41年のことでした。マリリン・モンローが死んだのが1962年(昭和37年)8月5日で、マリリンの死後にはフランク・A・カペルという作家が「マリリン・モンローの奇妙な死」という本でマリリンが謀殺されたのだと主張するなど、様々な流言飛語が飛び交いました。たぶん曾野綾子はそういうゴシップ本などにも取材しつつ、結婚と離婚を繰り返したマリリンの孤独な生涯に深い興味を持ったのでしょう。現在では曽野綾子は右翼系論客というイメージが強く、過去の著作が顧みられることは少ないのですが、まさかマリリン・モンローをモデルにした小説を書いていたなんて思いもしなかったので、映画化されたことで曾野綾子の小説もついでに思い返されることになっているのでした。

そして注目なのは脚色したのが橋田壽賀子だということで、令和3年(2021年)に九十五歳で亡くなった橋田壽賀子は、昭和24年に松竹脚本部に初の女性社員として入社しました。昭和25年に『新妻の性典』『長崎の鐘』に共同脚本のひとりとして参加したのち、昭和27年の『郷愁』ではじめて単独脚本家としてクレジットされました。松竹では十数本の脚本を書いたものの、秘書部へ異動が言い渡されたのをきっかけに昭和34年に松竹を退社。以後数年は鳴かず飛ばずの状態が続きましたが、TVドラマの「東芝日曜劇場」でその仕事が注目され、徐々にTV界でのシナリオライターの地位を築いていきます。本作の脚色はそんな時期に大映から依頼された仕事で、映画のシナリオを書くのは9年ぶりのことでした。当初は原作を忠実に映画化するために2時間を超える文芸大作だったそうですが、大映側が90分にまとめろと要求したため、大幅にカットすることになったようです。

監督の今井正はJOスタヂオから映画界に入った人で、戦後東宝で『青い山脈』を大ヒットさせるとフリーの立場になって山本薩夫や亀井文夫らとともに独立プロダクションでの映画製作に乗り出します。その合間にメジャー映画会社で撮った『また逢う日まで』や『ひめゆりの塔』などがヒットを記録し、一方で『にごりえ』『真昼の暗黒』などの独立プロ作品も高く評価されることになりました。しかし昭和30年代後半になるとやや監督業も停滞気味になり、本作は今井正にとっては東映で撮った『仇討』以来二年半ぶりの映画作品でした。本作以降もTVに進出して「今井正アワー」を手がけたり、自ら代表となって設立したほるぷ映画で『橋のない川』を製作したりしますが、今井正のキャリアにおいては本作以降が晩年期に位置づけられるのかもしれません。

主演は大映映画ですのでもちろん若尾文子が演じています。大映でマリリン・モンロー的な主人公をやれるのは京マチ子は山本富士子か若尾文子くらいだったでしょうけど、京マチ子は当時四十三歳なのでちょっと無理ですし、山本富士子は昭和38年に五社協定に反対したことによって大映を解雇されていますから、残るは若尾文子しかいませんでした。マリリン・モンローが映画女優として売れない時期にピンナップガールのモデルをやっていたことは有名ですが、もちろん本作でもそのエピソードは取り入れられており、若尾文子が全裸になる場面も出てきます。とはいうもののもちろんその後ろ姿は吹き替えでしょうし、正面を向いたポスターは合成でしょうね。

【ご覧になった後で】つまみ食い的な脚本は残念ですが男優陣はお見事でした

いかがでしたか?マリリン・モンローをモデルにしたということで、これは曽野綾子の小説を読むときにどのようにアレンジされているかを楽しむところでしょうけど、映画でも十分にその翻案を堪能することができます。写真家の根上淳のスタジオでヌード写真を撮影するところからはじまって、睡眠薬の多量摂取で事故死(現在では自殺でも謀殺でもなく、事故死だったという説に落ち着いているようです)するラストまで、マリリン・モンローの半生を復習することができました。けれども本来は2時間以上のホンを96分に縮めたものですから、なんとなくつまみ食いするような展開になっていて、各エピソードがどれも尻切れトンボのようにブツ切りになって終わるため、いかにも物足りない中途半端な脚本になっていましたね。橋田壽賀子が下手というよりは、上映時間をいかようにもコントロールできる映画会社という存在が橋田壽賀子はイヤになって尺が決まっているTV界で生きることを決意したのかもしれません。

一方で、マリリン・モンローすなわち千坂京子に次々に近づいてくる男たちは、男優たちの演技のうまさもあってどれもお見事な出来栄えでした。まず志村喬は老人なのにいきなり結婚を申し込んで、愛人ではなく純愛を求めているという設定が興味深かったです。マリリン・モンローは二十歳のときに四十八歳年上の20世紀フォックス社大幹部ジョセフ・M・シェンクの愛人となって、コロムビア映画への移籍の口利きしてもらっていますし、コロムビア退所後には大手代理人事務所副社長のジョニー・ハイドに囲われて、『イヴの総て』の脇役を勝ち取ったそうです。なので志村喬はその二人を合体させたようなキャラクターなんですね。ハイドさんがマリリンが出演契約が成立した数日後に心臓発作で亡くなったという事実もうまく本作に取り込まれていました。

またジョー・ディマジオに相当する野球選手の土岐役は藤巻潤が暑苦しく演じていて、朴訥で正直者っぽいんだけど古風な結婚観を相手に強要する暴君的な男性をうまく表現していました。本作では千坂京子のワンマンショーでの裸を見せるような衣裳が別離の決定的な原因となりますが、ディマジオは『七年目の浮気』で地下鉄の通風孔から吹き上げる風でスカートがまくれてマリリンが下着を見せる撮影現場を目撃して離婚を決意したといわれています。でも晩年はディマジオがマリリンを陰から支えて葬式を出したり墓所を整えたりしたそうですから、本当はマリリンにとってはディマジオと結婚した時期に一時的に家庭に入った方がよかったのかもしれません。

そして本作の極め付きはアーサー・ミラー=脚本家伍代を演じる田村高廣でしょう。黒縁メガネにパイプというインテリっぽい雰囲気やセリフの話し方、ゆったりとした動作などどれも真心のこもった愛情を感じさせるものでした。アーサー・ミラーは赤狩りの中で非米活動委員会にも召喚さていたので、当時のハリウッドでは左翼系映画人として嫌われていたそうですし、そのミラーと結婚したことでマリリンまでFBIの捜査対象にされてしまったんだとか。アメリカってある意味恐ろしい国ですよね。それはともかくそんな背景まで感じさせるような田村高廣は本作の中で最も存在感があったと思います。

そして若尾文子のマリリン=京子役ですが、ちょっと頭が足りないわりに他者に対する共感力はめちゃくちゃすごくて、お人よしな努力家であると同時に原知佐子がいないと何もできない女という役どころをうまく演じていました。しかしこれは脚本の欠点なのですが、本当のマリリンは決して頭が足りない女性ではなく、自らを演技者として生かす映画を製作するための「マリリン・モンロー・プロダクション」まで設立した事業家の顔ももっていました。その才能に惚れ込んだトルーマン・カポーティが自著の『ティファニーで朝食を』が映画化される際、ホリー役にマリリンを起用するよう独自のロビー活動を進めたほどでしたから、本作の千坂京子はそういうマリリンの才女としての側面を切り捨て過ぎたのかなあと思われます。

今井正の演出はタイトルが出るまでの数分間だけは好調でしたが、本編のほとんどが凡庸で見るべきところはほとんどありませんでした。若尾文子がホテルの部屋で田村高廣が書いた原稿を見る場面でジャンプカットで若尾文子の表情がクローズアップになっていく演出が唯一の注目点でしたけど、それもすぐあとにセリフで言わずもがなの説明が入るので帳消しになっていましたね。キャメラマンの中川芳久は『黒の試走車』や『氷点』など大映のプログラムピクチャー中心に仕事をしてきた人で、カラー映画で張り切っているかと思えば、特に印象的な映像は感じられませんでした。

マリリン・モンローをモデルにした大映映画があったこと自体が驚きでしたので、それなりの満足感はあるものの、やっぱり話の流れをブチ切り過ぎてしまい、映画としての統一感やつながりを欠いた作品だったことは否めません。例えば本作でただ一か所独白が入るのは志村喬の葬式での遺影ショットのところだけで、「これからは僕がお前を見守ってやる」みたいなセリフが入るのでこれは重要なファクターになるのかなと思ったのですが、その後志村喬のことを思い出すみたいな場面は一度もないのですから、あの独白には何の意味もなかったことになっていました。津川雅彦演じる新聞記者も進行の道化役としては物足りませんでしたね。(T071423)

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