殿さま弥次喜多 怪談道中(昭和33年)

中村錦之助・中村賀津雄兄弟が弥次喜多に身をやつして旅をする時代劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、沢島忠監督の『殿さま弥次喜多 怪談道中』です。弥次郎兵衛と喜多八の町民コンビが東海道を旅する「東海道中膝栗毛」は十返舎一九が書いた滑稽本ですが、映画界ではこの弥次喜多ものが繰り返し映画化されてきました。本作は歌舞伎出身で東映の若きスターだった中村錦之助と中村賀津雄(後に中村嘉葎雄と改名)の実の兄弟が共演した弥次喜多もので、お殿様が町民に姿を変えて活躍するという遠山の金さんパターンで東海道の旅を描いています。ちなみにクレジットタイトルでは「弥次㐂多」と出てきますが、大船シネマでは一般的な「弥次喜多」の表記を採用させていただきます。

【ご覧になる前に】大画面サイズの東映スコープで撮影されたカラー作品です

江戸の町で二つの大名行列が鉢合わせをして「道を譲れ」と言い合いになりますが、駕籠から出てきた尾州六十万石の徳川宗長と紀州五十五万石の徳川義忠は大の仲良し。並んで東海道に向うことになった二人の殿様は町人の弥次郎兵衛と喜多八と知り合い、互いに身分を入れ違えて旅を続けることにします。弥次喜多に身をやつした宗長と義忠は娘歌舞伎の旅芸人たちの荷車に乗せてもらいながら箱根の手前で宿をとりますが、泊まったのが若い娘が首を吊って死んだ部屋で、怖くなった二人は宿を飛び出して真夜中に箱根の山越えをするのでしたが…。

本作が公開された昭和33年は日本映画界で観客動員数が過去最大を記録した年。国民全員が毎月必ず映画館に行く計算になる12億人という観客動員があったのですが、翌年に皇太子殿下のご成婚パレードという一大イベントが行われると大衆はこぞってTVを購入することになり、映画館に映画を見に行く人は昭和33年をピークにして下り坂となっていきます。既にTVの影響を受けていたアメリカではカラー化や立体映像、画面の大型化などTVでは実現できない手法を使って、映画の生き残りを模索していました。

日本映画界でもカラー化は昭和28年に大映が公開した『地獄門』によりローコストで撮影・上映できるイーストマンカラーが採用されて普及していましたが、ハリウッドでは初の大画面映画は20世紀フォックス社が製作した『聖衣』で、シネマスコープで作られました。このシネマスコープサイズは2.35:1という横長サイズで、現在ではビスタビジョンサイズが一般的になって廃れてしまったものの、当時としては映画各社がこのシネスコ画面の採用を競い合っていたのです。そして日本で初めてシネスコサイズで製作されたのが東映の『鳳城の花嫁』で、「東映スコープ」というネーミングを冠して昭和32年4月に公開されました。以後、東映がヒットを狙って作る作品は「総天然色・東映スコープ」で製作されることになり、この『殿さま弥次喜多 怪談道中』もそうした大画面化作品のひとつとして昭和33年7月の夏休み直前に公開されています。

昭和31年から東映は映画会社六社の中で配給収入トップの座を突っ走ることになるのですが、戦時統制によって三社に統合された松竹、東宝、大映に比べると実はスタートが一歩遅れた映画会社でした。昭和25年に経営危機に陥っていた東京映配・東横映画・大泉映画が合体して東映が設立され東急から大川博が社長として送り込まれたものの、東宝との提携を模索した末に断られてしまいます。しかし製作から配給、興行までを垂直統合する路線を選んだ昭和27年にはGHQの撤退に伴い時代劇が自由に作れるようになり、大映に嫌気がさして移籍してきた片岡千恵蔵と市川右太衛門の二大スターを擁することになった東映は時代劇路線に活路を見い出していきます。さらには昭和29年にはアメリカで先行していた二本立て興行スタイルを取り入れ、観客は同じ料金で二本見られるのならということで東映の映画館に集まり、そこで見た映画がシリーズものだったりすると、そのまま東映の映画のリピーターとなっていったのでした。

中村錦之助は歌舞伎界の大名跡のひとつである三代目中村時蔵の四男として生まれ、当然のことながら歌舞伎の舞台に立つようになります。しかし長兄が歌昇、次兄が時蔵の名を継ぐことになると、四男は将来があまり望めない立場でした。ちょうどそんなときに美空ひばりが主演する東映の「ひばりもの」の相手役として映画出演の依頼があり、錦之助は父の時蔵に相談します。父の返事は「映画界に行くなら二度と歌舞伎の舞台に戻るな」というもので、錦之助は弟の賀津雄とともに映画界に骨を埋める覚悟で梨園の世界と縁を切ることになったのでした。

錦之助二十二歳の昭和29年、『笛吹童子』が公開されると「錦ちゃんブーム」が巻き起こり、中村錦之助は東映の若きスターとしての地位を確立します。本作は東映で60本以上の時代劇に出演したうえでの主演作で、それらはすべて太秦にある東映京都撮影所で製作されていました。一方で監督の沢島忠は本作の前年に初めての監督作品を世に出したばかりのころ。舞台の演出助手だった沢島忠は東横映画から東映京都撮影所に入り、この「殿さま弥次喜多」シリーズをはじめ「一心太助」シリーズなどの時代劇を数多く監督した後には、東映のやくざ映画路線の嚆矢ともなる『人生劇場 飛車角』を手がけることになります。

【ご覧になった後で】全く怖くない怪談ですが駆け抜ける爽快さがありました

いかがでしたか?「怪談道中」というわりには、のっぺらぼうの鬼のようなキャラが出てくるだけで怪談といえるようなエピソードもないので全く怖い感はありませんでしたね。脚本は小川正という人が書いていて、経歴を見ると主に東映が週替わりで上映していた東映娯楽版のシナリオを書いていたようです。なのでそんなに緻密な伏線があるわけでもなく、逆に幽霊扱いされる大川恵子がなぜ弥次喜多に扮したお殿様の跡をつけていたのかもあまりよくわからないような展開でした。最後の方になると要するに進藤英太郎演じる坂崎大膳がお家乗っ取りを企んでいて宗長と大殿を暗殺しようとしていたというお話だったことがわかり、よくあるパターンでおしまいという程度のお話なのでした。

それでもそれなりに面白く見られてしまうのは、勢いよく転がりながら駆け抜ける爽快さが本作にあるからで、その爽快さの大元はやっぱり中村錦之助その人の魅力にほかならないのです。男前で上品な殿さまが切符の良い町人に化けて、山賊に慕われたり女中に追いかけられたりと常に走り回っているような元気さで映画全体を引っ張っていくその活力は、錦之助以外にはなかなか出せるものではありません。弟の賀津雄も悪くはないのですが、顔や立ち姿やセリフ回しなどを総合的に見ると、やっぱり錦之助が持つ華やかさにはかないません。本作出演時の錦之助は二十四歳。後年に『子連れ狼』などのTVシリーズで萬屋錦之介として活躍するものの、その顔貌にはもう華やかさを感じることはできずにどことなく疲れ切った無残さが漂っていました。労働争議を収拾できずに東映を辞めてからいろんな苦労があったんでしょうけど、本作はそんなネガティブさは想像もできないくらいの爽快感が満ち溢れていました。

脇役では元の弥次喜多を演じる益田キートン(本作では喜屯ではなくカタカナのクレジットでした)と星十郎が軽演劇のコメディアン調の軽い笑いを伝えていました。この星十郎も東映京都撮影所でコメディリリーフとして長く活躍した俳優さんです。また鉄砲撃ちの浪人を演じる田中春男は、小津安二郎、溝口健二、黒澤明という日本を代表する三大映画監督から同じように重用された俳優で、日活から新興キネマ、新東宝、東宝と映画会社を渡り歩いた人です。本作のクレジットでも「田中春男(東宝)」という表記での出演で、五社協定があった当時においてなぜか田中春男だけは他社作品にわりと自由に出演していたような印象があります。脇役だからあまり気にもされなかったのかもしれませんが、本作の汚い身なりをした浪人も最後には仕官がかなうという儲け役でしたね。

あと珍しいのはダークダックスの四人が大井川の人足として出演していたこと。ダークダックスは慶應義塾大学ワグネルソサエティ合唱団出身で昭和32年にロシア民謡「ともしび」を歌って男性コーラスを大流行させたグループでした。本作に出演した昭和33年には年末の「紅白歌合戦」に初出場していますから、コーラスブームを巻き起こした四人組は当時はそれなりの注目の的だったんでしょう。映画の中でダークダックスが出てくるこの部分だけはちょっとミュージカル風な感じがして、本作のスパイスになっていました。(U101723)

コメント

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました