イエズス会の司教を主人公にした遠藤周作の小説を篠田正浩が映画化しました
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、篠田正浩監督の『沈黙 SILENCE』です。昭和41年に新潮社から書き下ろしで出版された遠藤周作の「沈黙」は、キリシタンが弾圧されていた江戸初期の日本に渡来するイエズス会の司教を主人公とした小説。神と信仰という重たいテーマを取り扱っていて、第二回谷崎潤一郎賞を受賞するなど、戦後日本文学の代表作のひとつとして現在でも読み継がれています。本作は出版の五年後に篠田正浩が監督したもので、昭和46年度キネマ旬報ベストテンでは大島渚の『儀式』に次いで第二位にランクされました。2016年にはマーティン・スコセッシ監督の手によってアメリカでも映画化されています。
【ご覧になる前に】脚本は原作者遠藤周作と監督篠田正浩が共同で書きました
幕府がキリスト教を弾圧する日本で熱心に布教につとめていたフェレイラ司教が拷問を受けて棄教したという噂がローマに伝わり、イエズス会は二人のパードレを日本に送り込むことにしました。夜の海を小舟で渡ってきた男たちが岸にあがると、一人だけ別の方向に逃げ去っていきます。残った数人は山の中の洞窟に二人の外国人を案内します。彼らはポルトガルからマカオを経由して長崎に辿り着いたフェレイラ司教の弟子ロドリゴとガルペで、村の長とモキチ、イチゾーからキリシタンが弾圧される中でも村民だけで信仰を続けていると聞かされます。やがてマカオから二人を案内したとキチジローに聞いた島民が訪れ、島に来てほしいと頼むのでしたが…。
遠藤周作は昭和30年に「白い人」で芥川賞を受賞して、いわゆる「第三の新人」のひとりとして注目を浴びるようになりました。十一歳のときにカトリック教会で受洗した遠藤周作はキリスト教を主題とした作品を多く執筆していて、「沈黙」はその代表的な作品として世界十三ヶ国語に翻訳されました。イギリスの作家グレアム・グリーンから「遠藤周作は二十世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と評されるほどグローバルに認められる作品となっていました。
キリシタン弾圧という非常に重いテーマの小説を映画化した製作会社は表現社とマコ・インターナショナルで、東宝が配給のみ担当しました。表現社は松竹を退社した篠田正浩が自ら立ち上げた独立プロダクションで、『あかね雲』に続いてATGと共同製作した『心中天網島』が高く評価されていた頃。一方のマコ・インターナショナルは、本作でキチジロー役を演じたマコ岩松のプロダクションだと思われますが、製作作品は本作しか記録されていません。ロバート・ワイズ監督の『砲艦サンパブロ』でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたマコ岩松がキチジロー役を熱望して、共同製作の形をとったのかもしれません。
小説が映画化される場合、原作者が脚本を書くのは珍しいことですが、本作では遠藤周作が監督の篠田正浩と共同で脚本化していて、クレジットではさらに「台詞 遠藤周作」と表示しています。『第三の男』のグレアム・グリーンや『ゴッドファーザー』のマリオ・プーヅオなど自作を脚色して成功した作家もいるものの、遠藤周作にとっては映画の脚本ははじめての経験でしたので、自作へのこだわりがあったのかもしれません。しかし自ら脚色まで行ったのは本作のみで、『海と毒薬』や『深い河』など他の映画化作品で脚本を書くことは二度とありませんでした。
主人公のロドリゴを演じたデヴィッド・ランプソンはイギリスの俳優で本作以外には『ヨーガ伯爵の復活』というホラー映画とTVシリーズが数本といったキャリアしかありません。またガルペ役のドン・ケニーは高林陽一監督の『金閣寺』に出演したという記録があるものの、目立った出演作はないようです。一方の日本人俳優は、岡田英治、丹波哲郎、加藤嘉といったベテランが顔を揃えていますし、女優では岩下志麻と三田佳子が色を添えています。
【ご覧になった後で】小説の完成度には及ばず宮川一夫の撮影が印象的でした
いかがでしたか?原作の「沈黙」は戦後日本文学の代表作のひとつと言ってよいほど完成度の高い小説でして、ドキュメンタリー風の説明から始まり、ロドリゴの手紙で長崎上陸後の苦難が描かれ、後半は三人称で突き放すように客観的な描写が続きます。その中でロドリゴは数知れぬ試練に対して神が何もなされないことに疑問を感じ、ついにはパードレフェレイラと同じ道を辿ることになります。そしてその物語を裏から支えるのがキチジローの存在で、すぐに踏み絵に応じてしまう自分のことを蔑みつつ「弱か者はどうしたらええ?」という疑問をロドリゴに投げかけます。ロドリゴとキチジローの二人がキリストとユダの関係に模されていて、テーマ・キャラクター・ストーリーが見事に調和した重厚な小説は、遠藤周作がノーベル文学賞候補にもなっていたことを十分すぎるほど証明する傑作なのでした。
小説で完成され尽くしてしまうと、その映画化はなかなかうまくは行かないようです。遠藤周作が脚本に参加しているとはいっても、映画はセリフ劇ではありませんので文学としての「沈黙」の世界を映像で表現することは極めて難しかったのかもしれません。穴吊りされた信者たちの呻き声を呑気な鼾と聞き間違えたロドリゴは、ついにキリストが彫られた銅板を踏む決意をするわけですが、小説ではその場面が心に迫るほどの筆力で描写されていて、まさにクライマックスにふさわしい感動を呼びます。ところが映画では表面だけをなぞるようにサラサラとしたショットが流れていくだけで、踏み絵を踏みしめる足のクローズアップが映されるだけでは、ロドリゴの苦悩や踏まれるためのキリストの存在などが全く伝わってきませんでした。遠藤周作の原作をそのまま映画にしようとしたのは、ちょっと無理があったのではないでしょうか。
映画では余計なシークエンスが加えられていて、それは岩下志麻を出演させるための方策だったのかもしれませんが、岡田三右衛門という武士とその妻が生き埋めにされるなどの拷問を受ける場面はほとんど本線に関係がないものでした。ラストでロドリゴがその罪人の名前をもらうという顛末に結び付けたかったのでしょうけど、ロドリゴに焦点が当たっていたのに映画の途中でそれがズレてしまったような印象になってしまいました。また製作に加わっていたこともあってマコ岩松の登場シーンに多くの時間が割かれていて、三田佳子演じる女郎に泣きついたり牢獄屋敷門番に何度も拝み込んだりといった描写も中だるみの要因になるだけで、映画のリズムを狂わせていたように感じました。
重厚な小説の映画化は難しいと感じさせるものの、宮川一夫のキャメラだけは映像で重厚さを語ることに成功していて、望遠レンズを多用した圧縮された構図と色彩が見事でした。特に赤い着物を着たロドリゴがキチジローとともに海岸線をさまよう場面では、黄色い砂浜と打ち寄せる白い波しぶきと二人の人物のコントラストが素晴らしい効果を上げていて、しかも入江の形状をうまく使って波が手前からも奥からも迫ってくるショットは非常に印象深かったです。断崖絶壁の上を歩くショットや遠くの山の頂上に二人の漁民が見えるショットなど、特に超ロングショットはどれも映画のあちらこちらに鮮烈なイメージを残す効果があったと思います。これらの映像に、武満徹による宗教音楽と現代音楽を合体させたようなアンバランスな音楽が効果音的な音響演出を付与していて、本作の雰囲気づくりに貢献していました。
昭和46年に日本映画で外国人を起用した作品を製作するのはかなりのチャレンジだったと想像されますが、いくら英国人俳優を起用したからと言ってポルトガルから来た司祭がいきなり英語を話し出すというのは非常に違和感がありました。また日本に到着したばかりのロドリゴがある程度の日本語を話せるのも設定としてはちょっと疑問が残りますし、一番の失敗はフェレイラ役に丹波哲郎をあてたことでしょう。フェレイラは作品の終盤に登場する極めて重要なキャラクターであって、ロドリゴたちが尊敬してやまないイエズス会の大先輩という設定です。そのフェレイラになぜ日本人俳優をあてる必要があったのか全く理解できません。もちろん丹波哲郎は存在感抜群ですし、英語も巧く話せます。それでも額をせり出したような特殊メイクまでさせて日本人が演じるよりも、それなりの威厳のありそうな外国人を持ってきたほうがよほどリアリティがあったことでしょう。沢野忠庵という名前になったからと言ってもフェレイラは日本人になったわけではないので、丹波哲郎のフェレイラ役はどう見てもミスキャストにしか思えませんでした。
信者の島民たちの顔がみんな同じように見えてしまったり、ロドリゴの日本語のセリフも聞き取りづらいのも本作のマイナス点になっていました。また、岡田英治演じる御奉行の井上筑後守は、小説で描かれたような温和な表情と拷問方法を編み出す残酷さとのギャップが魅力につながっていたはずですが、登場場面が少なすぎて二面的なキャラクターがうまく伝わってきませんでした。逆に登場回数の多いマコ岩松は、キチジローの卑屈でありつつ信心は捨てていなくてすぐに転んでしまうけれどもパードレにすがろうという強い気持ちがある複雑な人物像を表現しきれていませんでした。いつも哀れな表情で泣きわめているだけでは、キチジローの内面を伝えるのは難しかったようです。あと脇役の中では、大映時代劇の悪役でおなじみの伊達三郎がいつもの悪者っぽい表情で演じた代官が良かったですね。
ロドリゴが岩下志麻の帯を解くラストの場面は篠田正浩の発案らしく、小説ではもちろんそんな場面もありませんし、岡田三右衛門の名前と共に娶った妻のことも記録文書としか出てきませんので、遠藤周作はこのラストシーンには反対していたようです。遠藤周作はこのラストシーンだけでなく、この映画化された作品全体をどう捉えていたんでしょうか。決して思う通りに行かなかったのではないかなと邪推するばかりの出来栄えだったのは、なんとも残念なことです。(U041925)
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