ハスラー(1961年)

ポール・ニューマンがポケット・ビリヤードの勝負師を熱演した名編です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ロバート・ロッセン監督の『ハスラー』です。「hustler」はやり手・ペテン師・売春婦など様々な意味を持つ単語ですが、本作は「勝負師」という和訳がぴったりのビリヤードプレイヤーのお話です。ポール・ニューマンは当時マーロン・ブランドの再来といわれた有望俳優でしたが、これという出演作にはまだ恵まれていませんでした。そんなときにぴったりとハマったのがこの映画。ポール・ニューマンはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされるなど、本作で大きなステップを踏むことができたのでした。

【ご覧になる前に】ポケットビリヤードを吹き替えなしで演じた二人

エディはポケットビリヤードで客から掛け金を巻き上げるハスラーで、相棒のチャーリーと一緒に町から町へと旅をしています。そんなエディが勝負を挑んだのがプールでは敵なしといわれたミネソタファッツ。ファッツが出入りするビリヤード場で待ち構えていたエディはファッツとの勝負を優勢に進めながらも逆転されて一文無しになってしまいます。傷心のエディは長距離バスの待合室にいたサラと出会うのですが…。

本作はビリヤードを扱った映画ですが、ビリヤードといってもいろいろな競技があって、本作ではポケットビリヤードが主戦場となっています。ポケットビリヤードはビリヤードテーブルの四隅と長辺の中央に合計六つのポケットが切ってあり、手玉を15個の的球に当ててポケットに落としていくゲームです。これとは別にポケットがないテーブルで、手玉を3個の的球に当てて点数を競うゲームをキャロムビリヤードといいます。アメリカではポケットビリヤードのことを「プール」と呼び、「ビリヤード」はキャロムビリヤードのことを指すのだそうです。プールは基本的には二人で争われ、的球をポケットに落とすことができないと手番が変わり相手が手玉を打つことになります。すなわち自分の番のときにポケットに入れ続ければ永遠に相手に手番を渡すことなくゲームを続行できるわけで、その意味では強敵同士が戦うプールでは「ミスをしないこと」が勝負を決する重要なファクターになってくるのです。

エディとミネソタファッツを演じたポール・ニューマンとジャッキー・グリーソンはプールの場面では一部のショットを除いてはすべて吹き替えなしで自ら手球を打っています。ジャッキー・グリーソンはもともとかなりのやり手だったそうですが、ポール・ニューマンはプールをやるのは本作がはじめて。そこで本作のテクニカルアドバイザーについたウィリー・モスコーニというプールプレイヤーに指導を仰ぎました。モスコーニは1941年から1957年までに15回も男子世界チャンピオンに輝いた伝説のプレイヤー。猛特訓のおかげで本作ではエディとファッツのプレーが俳優本人によって高いレベルで争われる本格的なプールゲームになったのでした。

監督のロバート・ロッセンは政治の腐敗を描いた『オール・サ・キングスメン』が有名ですがこれがいわくつきの作品でして、アカデミー賞監督賞が有望視されていた矢先にロバート・ロッセンが元共産党員だということが発覚して受賞を逃してしまいました。さらにはマッカーシーによる赤狩りが始まると、ロバート・ロッセンは非米活動委員会での証言を拒否してハリウッドを一時的に追放されるのです。その後、元党員を名前を証言して転向したロッセンはハリウッド以外で映画の仕事を続けていたのですが、ウォルター・デヴィスの原作に出会って自ら脚本を書き、自らプロデュースして本作を完成させました。実はロバート・ロッセン自身が元プールハスラーで、映画界に入る前は「コーナーポケット」という題名で舞台の脚本を書くほどプールには詳しかったのです。

企画段階では主人公エディ役はトニー・カーティスを起用する予定だったそうですが、別の映画に出演していたため断られたのだそうです。そこでポール・ニューマンにオファーが行き、ニューマンは脚本が半分しかできていなかった段階であるにも関わらず即決で出演を受諾しました。ポール・ニューマンはこのプロジェクトが自分にとってのエポックになるという直感があったのでしょうか。パイパー・ローリーがやったサラ役も最初はキム・ノヴァクに話が行ったのだそうですが、結果的にはパイパー・ローリーがやって正解だったようです。

また本作ではジャズが効果的に使われていまして、音楽を担当したのはケニヨン・ホプキンス。『十一人の怒れる男』のスコアを書いた人で、本作でも場面に合わせてグルーヴィーな曲と気だるい曲をうまく書き分けて、プールのゲーム場面を盛り上げています。

【ご覧になった後で】モロクロ画面で冴えわたる撮影と照明が影の主役ですね

いかがでしたか?まさしく勝負師の映画で、何ひとつ溌溂としたところのない暗くジメジメした粘度の高い空気が充満したような重たい作品でしたね。ジャズを使っていてもクールとはいえず、どんよりとして希望や展望のない刹那的なお話がずっしりと腹に響いてくるようでした。その中心にあるのがエディとサラの奇妙な恋愛関係。特にサラの描き方は本作を特徴づける大きな要素で、どちらかといえばエディはよくあるタイプの野心家で自信家で孤高のプールプレイヤーですが、サラはアル中でありつつ真面目で純真な愛情を求める優しく孤独な女性というキャラクターで、アメリカ映画ではなかなか珍しいメンヘラ的な設定でした。

それはともかくとしても本作の影の主役はモノクロ画面の撮影と照明。基本的に室内シーンがほとんどの本作においては暗い画面が連続するのですが、そこでいかに陰影のある絵をシャープに切り取るかが二時間以上の長尺を見せられるポイントでもあります。日本映画では撮影と照明は現場における役割が明確に分かれていて、クレジットには必ず照明の名前が出てきますが、アメリカ映画においては撮影監督が照明まで管轄しています。照明は撮影に付属するひとつの技術的要素としてみなされていて、クレジットで表記されるのは照明助手(Gaffer)という職種のみです。なので本作の撮影と照明はキャメラマンのユージン・シャフトンによるものといえるわけでして、シャフトンは本作で見事にアカデミー賞撮影賞(白黒)を受賞しています。ユージン・シャフトンは元はオイゲン・シュフタンの名前でドイツで活躍していましたが、ナチスの台頭によりフランスに渡りイギリスを経由してアメリカに移住しました。彼は光学特殊効果のシュフタンプロセスの発明者でもあったのですが、ASC(全米撮影監督協会)に所属していなかったため作品で撮影を担当しても適切なクレジットを与えられなかったといいます。そんな不運な背景は別にしても、本作では暗い室内でポール・ニューマンとジョージ・C・スコットの顔だけを浮かび上がらせたり、ポール・ニューマンとパイパー・ローリーが出会う待合室の空虚で寂しい空間をあえて平板に見せたりと、キャメラマンのテクニックが登場人物の心象表現にも影響するくらいに印象的で、シャフトンは明暗を自在に操ってモノクロ映像を作り上げたのでした。

俳優も全員個性的で映画のキャラクターになりきっていましたね。またまたアカデミー賞の話で恐縮ですが、本作はこの年のアカデミー賞各部門で多数ノミネートされていて、ポール・ニューマンは主演男優賞、パイパー・ローリーは主演女優賞、ジャッキー・グリーソンとジョージ・C・スコットは助演男優賞の候補になっていました。ところがこの年はあの『ウエスト・サイド物語』が出た年度。あらかたの賞は『ウエスト・サイド』がかっさらって行きましたから、全員がノミネートのみで終わってしまい、特に主演男優賞を逃したポール・ニューマンの妻ジョアン・ウッドワードは大変に残念がり、受賞したマクシミリアン・シェル(『ニュールンベルク裁判』で受賞)とは話もしたくないくらい悔しがったのだとか。ちなみに本作は作品賞・監督賞・脚色賞でもノミネートだけで終わっています。

サラが悲惨な最期を迎える前、パーティでサラの耳元に口を寄せたバートが何かをつぶやき、サラはグラスの酒をバートの顔に浴びせかけ泣き崩れます。あのときバートは何と言ったのでしょうか。たぶん「今夜、俺の部屋に来い」と伝えたのでしょう。そしてそれに抗おうとしたはずのサラは、バートが帰ってくるのを待っていたかのようにベッドに腰かけ、バートが開けた扉に入っていってしまうのです。バートとの交情を終えたサラが浴室の鏡に書いた言葉は「perverted、twisted、crippled」。あえて性的な意味で訳すと「変態的な、倒錯した、拘束された」となり、特に「crippled」は手足の障がいの意味も含んでいます。サラの自死は一時的で発作的なものではないでしょうから、バートとの行為がそのようなものだったからという理由では当然ないはず。だとするとこの鏡に書かれた三つの言葉は、プールというギャンブルにからめとられたエディのことを言い表したキーワードだったのではないでしょうか。恋人にこのような言葉を遺して死なれてしまったエディの悔恨はいかほどだったでしょうか。

本作で唯一といって良いほど平穏な恋人たちの時間を表現したのが屋外でのピクニックの場面でした。そこでサラはエディがプールをプレイしているときに境界を越えたような気持ちになることを知ります。いわゆるランナーズハイのような感じでしょうか。それはエディが抜きんでた才能をもつ無敵のハスラーであることを表すとともに、サラとは決して結ばれることのない遠い存在であることを示していました。そうして恋人を失ったエディは最後には同じく境界線を越えたミネソタファッツとの勝負を勝つのですが、それよりもエディとファッツがともに互いの実力を認め合う姿が心に残ります。夢も希望もない本作ではあるものの、天才にしかわからないレベルのゲームを楽しんだ同士がほんの少し共鳴し合うラストのみがわずかな救いのように感じられるのでした。(V010522)

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