乙女ごころ三人姉妹(昭和10年)

松竹蒲田からP.C.L.に移った成瀬巳喜男の移籍第一作で初のトーキー作品です

こんばんは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『乙女ごころ三人姉妹』です。松竹蒲田撮影所に小道具係として入社した成瀬巳喜男は長い下積みの末に監督昇格を果たしましたが、なかなか思うような映画を撮らせてもらえず、ましてやトーキーで作品を作ることも許されませんでした。そんな成瀬が独自のトーキー技術を開発したPCLに移籍して初めて監督したのが本作で、松竹ではサイレント映画しか作れなかった成瀬巳喜男はやっとのことでトーキーを手に入れることができたのでした。

【ご覧になる前に】川端康成の短編小説「浅草の姉妹」を成瀬巳喜男が脚色

浅草寺や浅草六区が大勢の人出で賑わっている中を三味線をもった門付けの女たちがショーウィンドウを覗き込みながら歩いています。門付女のお染が下駄の鼻緒が切れて困っていると通りがかりの旦那風の男がハンカチを差し出しますが、お染はそれを断って下駄の穴に小石を詰めて家に帰ります。家では母親が同居している娘の三味線を厳しく指導していて、母親は次女のお染を含めて数人の娘たちに門付けをさせて生計を立てています。そんな商売を嫌ってダンスホールで踊り子をしている末妹の千枝子が夜遅くに帰宅すると、お染と千枝子は家を出て行った姉おれんは今どうしているだろうかと話し合うのでした…。

原作となった川端康成の小説「浅草の姉妹」は新潮文庫では「浅草日記」の中に収められている短編のうちのひとつで、クレジットタイトルにも出てくるように昭和7年に週刊誌のサンデー毎日に発表されました。昭和初期にもうサンデー毎日のような週刊誌があったのかと驚いてしまうのですが、サンデー毎日と週刊朝日が競い合うようにして創刊されたのは大正11年のこと。大阪毎日新聞の新社屋落成を記念して発売された創刊号はなんと20万部以上も売れたんだそうです。

その原作を脚色し自ら監督(クレジット上は「演出」)したのが成瀬巳喜男で、松竹蒲田撮影所に小道具係として入社した成瀬巳喜男は、その後に入社してきた小津安二郎や清水宏が次々に監督に昇進するのを眺めるばかりで長い下積み生活を送っていました。監督昇格後も他の監督が拒否した脚本の映画化を担当させられるなど思い通りに映画を撮らせてもらえず、昭和6年に松竹が日本映画界初のトーキー作品『マダムと女房』を発表した後で島津保次郎ら大御所監督が順番にトーキーを製作していくにも関わらず、成瀬だけが相変わらずサイレント作品ばかりを作らされていました。

そんな成瀬に移籍のオファーを出したのがPCLで、フィルムの現像と光学録音の研究のために昭和6年に設立された写真科学研究所の子会社としてスタートしたPCLは、国産のPCL式トーキーを開発して録音可能な映画撮影専用の貸しスタジオを建設しました。昭和8年にはPCL映画製作所によって映画製作が開始され、後に東宝副社長となる森岩雄が製作部長に就任します。成瀬巳喜男の松竹蒲田での最後の作品は昭和9年の『限りなき舗道』で、退社を申し出た成瀬は蒲田撮影所長だった城戸四郎の「去る者は追わず」のポリシーから引き留められることもなくPCLに移籍を果たします。翌10年、成瀬は松竹ではかなわなかったトーキー作品をPCL映画製作所の10番目の映画となる本作で実現することができたのでした。

主人公お染の商売である門付け(かどつけ)とは人家や商店の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして歩くこと、または、その人のことを言います。古くは厄払いやお祝い、御祓いなどの目的で芸をしてみせて報酬を得ていた門付け芸人は、時代と共に「ハレ」ではなく「ケ」のときにも芸を披露しては小銭稼ぎをするようになります。お染が三味線を弾きながら歌を唄うのもそうした門付け芸のひとつ。酒場の酔客相手に歌を披露してチップをもらう職業が成立したのは、昭和初期までの酒場にはまだBGMを流すシステムが存在していなかったためで、最新の蓄音機を導入していなければ三味線をもった芸人が客の求めに応じて歌を唄うことが酒場の賑わいづくりにも役立っていたのでしょう。戦後になると三味線をギターに持ち替えてバーやキャバレーを回る「流し」が登場しますが、その源流が門付けだったわけですね。

【ご覧になった後で】次女お染が健気というより損な役回りで可哀想でしたね

いかがでしたか?一説によると本作は後の成瀬映画のエッセンスとなる原点的なポジショニングにあると言われているそうですが、次女お染を見ていると、姉と妹を気遣う健気な娘というよりはなんでこんなに損な役回りばかりが巡ってきてしまうんだろうかと思わせるほど可哀想に思われてしまい、なんとも救いのないどんよりした印象しか残らない映画でした。原作はどうなのか知りませんけど、映画においては母親は守銭奴としか思えない毒親のままで終盤にはまったく画面から消えてしまい悪役キャラだけの存在になっていますし、姉のおれんが病身の夫の言いつけを守らずに昔の仲間の手引きをしてしまうのも、今さらそんな悪事に手を染めるならもっと早くから悪の道を利用して夫の病気の治療費稼ぎをしていればよかったじゃんかと思ってしまいます。

妹の千枝子が「良い人ができたら母親が縁を切ってもいいと言ってくれている」と恋人に話すのも、母親の「男でもできて出て行ってしまうんじゃないだろうね」という認識と正反対に食い違っていて、それがなぜそうなってしまったのかの説明もありません。そんなわけで脚本の出来栄えは今ひとつ共感性に欠けてしまっており、なのでお染が姉と妹の身代わりになってすべての不幸を背負い込む境遇に追いやられた可哀想な娘さんとしか思えませんでした。

お染を演じた堤真佐子はPCLスタート時から活躍した女優さんということですが主演作は本作くらいしかないようです。姉おれんをやった細川ちか子は築地小劇場出身の新劇女優で、桜隊で原爆に遭い死亡した劇団仲間の丸山定夫とは愛人関係にあったんだそうで、成瀬映画には『桃中軒雲右衛門』や『晩菊』『女が階段を上る時』など長く起用されていますので信頼が厚かったのかもしれません。妹千枝子の梅園竜子は本作が映画デビューで、PCLから東宝で映画出演を続けますが戦時中には引退したようです。三人を比較すると確かに細川ちか子が一番女優っぽい雰囲気が出ていて、映画界で長くキャリアを積んでいくのもわかるような気がします。残念ながら主人公をやった堤真佐子は本作のお染であれば貧しさが顔に出ているところがぴったりではあったものの、女優としての華がないので短命に終わったのは仕方ないというところでしょうか。

成瀬巳喜男の演出は、並んで歩く二人を斜め前からの移動ショットで追ったり、シーン終わりに必ずフェイドアウトを使ったりして、後年の成瀬映画の特徴がそのまま出ていました。また冒頭のまだ雷門が建てられる前の浅草寺や幟にエノケンの文字が見える浅草六区の光景がしっかりと映像化されていたのは、当時の風俗をそのままとらえた貴重な映像アーカイブになっていました。

そうした映像面よりも成瀬巳喜男初のトーキー映画として音に注意を向けてみると、セリフが実に明瞭に録音されているのに驚かされてしまいました。当時はまだアフレコ技術は開発されていないので撮影時に同時録音する方式しかなかったのですが、松竹で開発された土橋式トーキーではセリフを拾うことを優先するためにフィルムを回す音が出るキャメラをスタジオの一角にこしらえた小屋のような密室に閉じ込めたという逸話があるほどです。それに比べると本作では、お染と千枝子の会話を比較的アップショットで映すときにかすかにフィルムを回すキャメラの音が入っているだけで、松竹の土橋式よりもはるかに高い採音技術を持っていたではないでしょうか。でもPCLが東宝になって、東宝の黒澤明の初期作品などでは特に音の良さは感じられませんので、本作の良質な音はたまたま録音技師の腕が良かっただけなのかもしれません。

姉のおれんがよく浅草の街を眺めていた場所として浅草松屋の屋上が出てきますが、昭和6年に建てられた浅草雷門駅のターミナルビルにメインテナントとして出店したのが松屋浅草支店でした。7階と屋上には「スポーツランド」として日本初のゲームセンターが開設され、屋上には遊園地やペットショップがあったそうです。屋上にいるお染の背景にほんのちょっとロープウェイのゴンドラのような乗り物が映りますが、あれは遊園地のアトラクションのひとつだったんでしょうか。梅園竜子がヘンリー大川こと大川平八郎と一緒にボートに乗る場面では遠くに浅草松屋の建物が見えていて、関東大震災で浅草凌雲閣が倒壊した後では松屋の7階建てのビルが浅草の新しいシンボルになっていたことがわかります。(Y011023)

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