恋文(昭和28年)

丹羽文雄の原作を映画界の巨匠の後押しで映画化した田中絹代の初監督作品

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、田中絹代監督の『恋文』です。朝日新聞に連載されていた丹羽文雄の新聞小説を田中絹代監督で映画化しようという話が持ち上がります。丹羽文雄本人が言い出したという説もありますし、出演者のひとりである香川京子の叔父でプロデューサーの永島一朗が丹羽文雄の了解をとったという説もあるようです。いずれにしても、田中絹代が映画にするならということで、タイトルも女性らしく『恋文』に変更して、木下恵介が脚本を書き、田中絹代の初監督作品が完成したのでした。

【ご覧になる前に】溝口の反対と成瀬・木下・小津のバックアップ

戦後復員した礼吉は、弟の洋と一緒に暮らしていますが、古書販売の仲介をして精力的に働く洋とは反対に兄の礼吉は家で細々と翻訳の仕事で日銭を稼いでいます。兵学校を卒業して戦場に赴く前、礼吉は幼馴染の道子と相思相愛の仲でしたが、道子は両親が勧める別の男と結婚してしまいました。道子のことをあきらめきれない礼吉は、今日も道子との再会を願って東京の街をさまようのですが…。

田中絹代は1909年(明治42年)生まれですから終戦時には三十六歳になっていました。女優は桜の花のようなものと教えられてきた田中は映画界でどのように自分のキャリアを継続するかを考える時期にさしかかっていました。田中絹代は、ドイツでレニ・リーフェンシュタールが女性監督として活躍していることを知っていましたが、戦後アメリカに渡ったとき女優が監督業に進出することがあるという話を聞いたとき、それまで考えもしなかった映画監督というステップを思い描くようになります。かつて溝口健二監督作品に出演していたときに、助監督として溝口を支えていたのが坂根田鶴子。坂根は日本初の女性映画監督として作品を作っていますから、田中絹代はアメリカで女性が活躍する現場を実際に目撃した経験をもとに、坂根に続く女性映画監督になる決意を固めたのではないでしょうか。

それを後押ししたのが成瀬巳喜男。成瀬は自作の『あにいもうと』で田中絹代に修業として監督見習いをさせます。そして『恋文』が新東宝で映画化されることが決まると、木下恵介が脚色してシナリオを完成させました。成瀬は木下の脚本にさらに手を入れて田中絹代に渡し、田中絹代の現場には成瀬組のスタッフを配して田中を全面的に支援するように指示したのでした。こうした田中絹代監督誕生の動きについては、溝口健二は大反対の立場をとりました。失敗して田中絹代にみじめな思いをさせたくないという親心だったのか、あるいは自分が使っていた女優が自分と同じ立場の監督になるのを許せなかったのか、本当の心境はわかりませんが、「田中の頭で監督なんかできるわけがない」とまで言い放ったそうです。それを知った小津安二郎は逆に成瀬・木下とタッグを組んで「俺たちで溝口のオヤジの鼻をあかしてやろうじゃないか」と、次回作『月は上りぬ』で脚本を提供し、日活で撮影できるように取り計らうことになりました。

大スターの田中絹代が監督をするというので『恋文』にはたくさんの俳優たちがカメオ出演して田中の監督デビューを祝福しています。古本屋の女主人は沢村貞子、洋妾のひとりには月丘夢路、道子の下宿の大家は入江たか子、道子の勤め先の客が笠智衆と、錚々たる顔ぶれが揃っています。そして主役の礼吉には森雅之、相手役の道子は久我美子、礼吉の旧友山路は宇野重吉。昭和28年は東宝争議で最も激しかった第三次争議の年。多くの俳優たちが東宝を離れて映画製作に取り組んでいたことも、プラスに働いたのかもしれません。そして前年秋のサンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復され、GHQの占領も終結した直後の時期。新宿の場面ではPXではなくなった新宿伊勢丹がちらりと画面に映り、そのショーウィンドウには七五三の着物がディスプレイされています。

【ご覧になった後で】田中絹代の綿密な準備によって実現された映像に注目

いかがでしたか?戦後の混乱期、貧しい日本において女性が生き残るためにはアメリカ兵を相手に身体で稼ぐしか方法がなかった時代の話なので、現在からするとなかなか理解しにくい展開だったかもしれません。なので礼吉と道子が互いに愛し合いながらも素直に一緒になれない、複雑にすれ違う気持ちには、じれったさを感じてしまうところもあるでしょう。しかしひとりの女性を思い続ける純粋さや、生活のためとはいえアメリカ兵に身体を許してしまった過去をひきずる罪悪感を取り上げた本作は、恋愛ドラマの枠を超えて戦争の傷跡や社会問題の不条理を訴えかける力を持っていると思います。初監督作品でこのような重いテーマを描き切っていることは、田中絹代の真の実力を証明しているように感じられます。

田中絹代の監督としての実力は、まじめで綿密な撮影準備にあるのではないしょうか。本作の中でも特に印象深く、映像としての美しさを持ったショットがいくつかありました。まず渋谷の駅で礼吉と道子が出会う場面。混雑する人ごみを押しのけて向き合う礼吉と道子を、キャメラが電車の中からとらえるとプシューという音とともにドアが閉まるあのショット。また明治神宮で道子は礼吉に罵倒され、ひとり淋しく去っていきます。画面右に座る礼吉と画面左に徐々に遠のいていく道子の後ろ姿をとらえたあのショット。さらには弟の洋にまで過去の過ちに疑いをかけられ絶望する道子を映したあのショット。これらはすべてロケハンで勝負が決したといってもよい映像でした。例えば明治神宮の森の道。深く暗い森の緑に佇む礼吉と白い靄に消えていく道子の対比。自らの疑念の闇から逃れられない礼吉と、今では心から浄化されたいと願う道子の二人の心境を光と影で見事に表現していました。ちなみにこの場面は靄が明るく照らされるのが大変に効果的なのですが、照明を担当したのは藤林甲。のちに日活で石原裕次郎を照らし続ける照明マンです。道子が交通事故にあう前の神宮外苑のショットでは、金網を背にした道子の後ろに高層の建物が暗闇にそびえ立っています。まるでどこにも逃げ場のない、牢屋に閉じ込められたような構図になっていて、追い詰められた道子の感情そのものを象徴する映像でした。こうした撮影場所は、たぶん田中絹代自らあちらこちらを歩いてロケハンして探し当てたものだったに違いありません。あるいは将来自分が監督になるときのことを想定して、印象的な場所を記憶していたのではないでしょうか。そんなまじめで綿密な準備をしたうえで、田中絹代は本作にとりかかったのだと思います。

田中絹代自身が勉強熱心で自らの演技を練り込んでいくタイプだったので、本作でも現場では俳優たちに各自の演技をそれぞれに研ぎ澄ませることを望んだようです。森雅之と宇野重吉は文学座と劇団民藝の重鎮ですから、任せておけば大丈夫。特に煮え切らない礼吉に山路が殴りかかるところなどは、演技のつばぜり合いを見ているような迫真の場面でした。一方で弟の洋をやったのが道三重三。のちに国方伝(くにかたつたえ)と名前を変えるのですが、道三重三という元の名前も苗字は「みちさん」と読むらしいです。それはともかくこの道三重三は俳優座出身でオーディションで選ばれたようなのですが、田中絹代はその演技が気に入らなかったらしく、執拗にテイクを重ねたのだとか。まあ田中絹代も俳優業においては努力家であると同時に天才でもあったので、やれと言ってできない人のことはわからなかったのでしょうね。演技指導においてはある意味で長嶋茂雄タイプだったのかもしれません。

そんなわけで戦後の渋谷の風俗も堪能できて、なかなかの佳作なのではありますが、いかんせんラストはもうちょっとなんとかなりませんでしたでしょうかね。確かに病室で目覚める道子とタクシーで不安げな表情をする礼吉で終わるのもアリで、たぶん丹羽文雄の原作もそのような暗示的なラストなのかもしれませんし、二人の邂逅を描かずとも結末はわかりきっているということかもしれません。けれどもこの陰鬱なテーマを扱った本作においては、ぜひ明るい希望を感じさせるエンディングが欲しかったと思います。やりきれなさばかりでは映画は成り立ちませんので。(T112321)

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