壁あつき部屋(昭和31年)

BC級戦犯たちの苦悩を描いた本作は完成後3年してやっと公開されました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、小林正樹監督の『壁あつき部屋』です。巣鴨プリズンに収容されていたBC級戦犯の手記を原作として映画が作られたのはGHQによる日本占領が終了した昭和28年でしたが、松竹は劇場公開を見送ってしまい3年後の昭和31年にやっと日の目を見ることになったいわくつきの作品です。監督の小林正樹は本作のために松竹が用意した新鋭プロで製作を行いますが、公開延期も影響して結局新鋭プロの作品は本作のみで終わってしまいました。日本の戦争犯罪を直視した内容で、戦後日本映画史においても貴重な作品といえるでしょう。

【ご覧になる前に】BC級戦犯の手記を脚色したのは小説家の安部公房でした

巣鴨プリズンでは占領軍のMPたちが6人一部屋の雑居房が並ぶ廊下を歩き回って監視しています。髭面の山下や元通訳の横田がいる房の6人は、重労働では採掘した石をつるはしで割る作業をさせられ、禁止された新聞を持ち込んだことから集団責任で刑務所内の草刈りをさせられたりしています。石割りが苦手な川西は便所で首を吊ろうとしますが、朝鮮人の許にとめられました。許は軍属として運転手をしていただけで裁判にかけられ、横田は捕虜虐待で、山下は原住民を殺した罪でBC級戦犯にさせられたのでしたが…。

BC級戦犯とは第二次大戦の戦勝国である連合国が布告した国際軍事裁判条例によって戦争犯罪人とされた人たちを指します。B級は戦争犯罪類型B項の「通例の戦争犯罪」、C級は同じくC項の「人道に対する罪」に該当し、いわゆる東京裁判で判決が下った東条英機らA級戦犯は「平和に対する罪」によって連合国から裁かれました。BC級戦犯を裁いた軍事法廷はGHQによって横浜やフィリピンのマニラなど49ケ所に設置されて、6000人近い被告人のうち1000人が死刑判決を受けたといわれています。軍事法廷は一審制で、被告人は控訴することもできなかったといいますし、ひとつの証言だけで判決が決まってしまいどう抗っても無駄だったそうで、罪を正当に裁くというよりは日本軍が働いた残虐行為への復讐的な意味合いが強かったようです。

サンフランシスコ講和条約が昭和26年9月に調印され翌年4月に発効されてGHQによる日本占領が終結すると、戦犯釈放運動が始まり日弁連や婦人団体による署名運動が盛り上がるようになりました。海外の刑務所に収監されていたBC級戦犯も日本に帰還するとそのまま巣鴨プリズンに送られていましたが、GHQの撤退と同時に巣鴨プリズンの管理は日本に移され、名称も巣鴨刑務所に変更されます。巣鴨刑務所は昭和33年5月に最後の戦犯18名の釈放とともに閉鎖されて、跡地は東京拘置所として利用されることになりました。昭和46年に東京拘置所が小菅に移転されると、その土地を西武百貨店と日本興業銀行と三菱地所が共同で再開発し、昭和53年には池袋サンシャインシティがオープンしたのでした。

そんな巣鴨プリズンに収容されていたBC級戦犯の手記が刊行されると、松竹で監督に昇進したばかりだった小林正樹がこの手記を映画しようとするのを受けて、松竹は自社製作ではちょっと無理があると感じたようで、あえて外部製作作品のように見せるため新鋭プロという映画製作プロダクションで製作する形をとります。そして手記の脚色を担当したのが安部公房。安部公房は戦後満州から日本に戻り、埴谷雄高の支援を受けて執筆活動をしたもののなかなか売れない日々が続きますが、昭和26年に近代文学誌に掲載された「壁 S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞し、本格的な作家活動に入ります。小林正樹と安部公房がどういう関係だったのかはわかりませんが、木下恵介に師事して自分でホンも書ける小林正樹が安部公房に脚色させたことは確かでしょう。安部公房の脚本は本作以後は昭和37年の『おとし穴』までありませんから、極めて珍しいケースだったようです。

新鋭プロとはいっても実質的には松竹製作と同じですし小林正樹は木下組の助監督出身ですから、スタッフは木下組の常連が起用されています。キャメラマンは楠田浩之、音楽は木下忠司、照明の豊島良三は木下組とまではいえませんがあの『楢山節考』で照明をやった人なので、小林正樹はほぼおなじみの顔ぶれで新鋭プロ初製作作品の仕事が進められました。ただひとり美術の中村公彦だけは松竹出身ですが本作で巣鴨プリズンの完全復元セットを手がけたのちに日活に移籍した人です。

スタッフとは違って出演俳優は松竹専属の主演級を使うわけにはいかなかったようで、劇団関係の俳優やまだ撮影所でもあまり出演歴のない俳優を起用することになりました。髭面の山下を演じた浜田寅彦と腺病質の川西役の信欣三、そして元上官をやる小沢栄は俳優座出身ですし、横田役の三島耕は東映から松竹に移ってきて間もない時期、下元勉はこの頃は劇団民藝に所属していました。なので映画界出身は伊藤雄之助と三井弘次くらいかもしれません。

【ご覧になった後で】戦後の視点から戦争を省みる重厚な人間ドラマでした

いかがでしたか?戦争映画というのは日本映画でも外国映画でもメジャーなジャンルのひとつですが、本作のように戦後の戦争犯罪人の視点ら戦争そのものを自省の思いを込めて振り返る作品は数少ないのではないかと思います。外国映画であればイエジー・カワレロヴィッチの『戦争の真の終わり』やアンリ・コルピの『かくも長き不在』などが思い浮かびますけど、日本映画ではそのような視点をもつ作品はほとんどないような気もします。その点でもまだ監督歴の浅かった小林正樹が松竹に製作プロダクションまで立ち上げさせて本作を完成したというのは、本当に強い意思と勇気があったのだと思われます。

雑居房で相部屋になった6人のBC級戦犯を軸にして物語が展開しますが、壁に穴があく幻影を見る信欣三が自殺する場面でのシュールレアリスティックな映像表現は不気味な怖さがありましたし、三島耕が処刑された捕虜の遺体を焼きにいく隠亡場での岸恵子が出てくる場面はリリカルな味わいが感じられて、小林正樹の演出力の幅広さが反映されていました。そして浜田寅彦が母の葬儀のために一時帰宅を許可されるシークエンスは、元上官の小沢栄の家を訪問する場面での光と影を効果的に使った映像が切迫した山下の心情を見事に表現していました。小沢栄と原住民の顔が瞬間カットバックされて殺すのか殺さないのかが映像的にも盛り上がり、巣鴨プリズンの仲間のところに戻るエンディングは思わずグッと来てしまうくらいにエモーションが伝わってきました。脚本もしっかり練られていて6人のキャラクターが浮かび上がっていましたし、巣鴨プリズンのセットが非常にリアリティがあったのも本作に重厚感を与えていました。

独立プロダクション製作だとするとあまり予算は潤沢ではなかったと思われますが、中村公彦の手による巣鴨プリズンの雑居房のセットは非常にリアルですし、講堂で集まった戦犯たちが壇上で偉そうに「我々は平和に対する罪だけど、君たちは戦争犯罪で囚われているのだ」とのたまうA級戦犯(この中に加藤武がいるのも注目でした)を追い返すところなんかはエキストラの数も半端ないのでしっかりした製作態度が画面上からも感じられました。外国人捕虜を鞭打つ場面や南の島の森をさまよう場面もしっかり作り込んでありましたね。

というわけで緊張度の高い作品であったことは認めるのですが、面白く見られるかというと決してそうではなく、あまりに重た過ぎて疲労感のほうが勝ってしまうような読後感を味わされるのも事実です。昭和28年10月に完成すると「新鋭プロが解散して配給できず松竹にフィルムがわたったものの戦犯問題に配慮して公開が延期された」という事情を理由にして、実際に劇場公開されたのは3年後の昭和31年10月になってからでした。あまりに暗い内容だったので松竹の城戸四郎が一旦お蔵入りさせたとも言われていますが、結果的には新鋭プロは本作を作っただけで解散してしまったんだそうです。なぜ公開延期にしたのかといえば、GHQの占領は終了したものの在日米軍としてアメリカ軍の基地が日本各地に残される中で、米軍基地を批判的に取り上げた他社作品が在日アメリカ人から非難されたことから、この『壁あつき部屋』も日本で駐留を続けるアメリカ人の逆鱗に触れるのではないかと臆病風を吹かせたからではないかといわれています。そんなこと全然気にする必要はない内容だと思いますけどね。

ともあれ3年後に公開されたので本作は昭和31年の日本映画として記録されることになりました。なので関係者のフィルモグラフィを見ると、本作の位置づけがちょっとおかしくなっているんですよね。小林正樹は昭和28年にぽっかり空白期間があって、昭和31年10月には『黒い河』と本作が二週続けて公開されていることになっています。本作が3年間放置されただけなんですが、結果的には毎週二本立てで入れ替わるプログラムピクチャーの一本としてしか扱われなかったわけで、戦後から見た戦争映画として映画史的に価値のある作品にもかかわらず興行的にも批評的にも非常に冷遇されてしまいました。なんとも不運な映画と言わざるを得ませんね。(U072923)

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