日本映画

不良少年(昭和36年)

羽仁進が設立に加わった岩波映画製作所は記録映画を専門に作っていましたが、本作は岩波映画製作所にとっても羽仁進にとっても初めての劇映画です。登場するのは非行経験のある少年たちでもちろん演技経験のない素人ばかりです。
日本映画

銀嶺の果て(昭和22年)

学生時代から登山が趣味だった谷口千吉のために黒澤明が冬の北アルプスを銀行強盗三人組が逃走する脚本を書き上げ、谷口千吉にとっての実質的な監督デビュー作となりました。同時に東宝ニューフェイスの一期生として東宝に入社した三船敏郎の初出演作にもなっています。
日本映画

原爆の子(昭和27年)

広島で原爆に遭った少年少女たちによる手記を集めた「原爆の子」を近代映画協会と日教組が映画化に取り組んだのですが、新藤兼人が書いた脚本に文句をつけた日教組が離脱して、近代映画協会が劇団民藝と共同で自主製作することになりました。
昭和二十年以前

乙女ごころ三人姉妹(昭和10年)

成瀬巳喜男が独自のトーキー技術を開発したPCLに移籍して初めて監督したのが本作で、松竹ではサイレント映画しか作れなかった成瀬巳喜男はやっとのことでトーキーを手に入れることができたのでした。
日本映画

肉弾(昭和43年)

日本アート・シアター・ギルド(ATG)独立プロダクションと製作費を折半することで低予算映画を製作するようになりました。本作はその初期の一本で岡本喜八の脚本を映画化しようとみね子夫人が自宅を抵当に入れて捻出したお金が製作費に費やされました。
日本映画

泥だらけの青春(昭和29年)

菅井一郎は溝口健二や小津安二郎の監督作品に多く出演した名脇役のひとりですが、本作で初めて監督に挑戦しました。脚本は新藤兼人が書いていて、新藤とコンビを組んでいた吉村公三郎が演出補佐としてクレジットされています。
外国映画

突撃(1957年)

ハンフリー・コッブという人が書いた小説が原作で、第一次大戦の独仏戦における第二次エーヌの戦いを描いています。原題の「Paths of Glory」は「栄光の道は墓に続いている」という詩の一節からとられているそうです。
日本映画

血は渇いてる(昭和35年)

『ろくでなし』で監督昇格を果たした吉田喜重はマスコミが「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と名付けた勢いに乗って監督第二作を公開しました。企業の宣伝広告やマスコミを揶揄する風刺的な社会劇になっていて、マスコミに反転攻勢するような姿勢を示しました。
外国映画

地下室のメロディー(1963年)

第二次大戦の前からギャング映画に主演していたジャン・ギャバンと1960年代にフランス映画界のトップスターのひとりとなったアラン・ドロンの二人が初めて共演した犯罪映画で、カンヌのカジノから10億フランの現金を強奪するお話です。
日本映画

古都(昭和38年)

川端康成は昭和36年から取材のため京都を頻繁に訪れるようになり、同年10月週刊朝日誌に「古都」の連載を開始します。京都を舞台にして姉妹の出会いを描いたこの小説を監督したのは中村登で、松竹では文芸作品を多く発表していました。
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