手錠につながれた黒人と白人の脱獄囚を描いた公民権運動勃興期の作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、スタンリー・クレイマー監督の『手錠のままの脱獄』です。「公民権運動」が盛んになり始めたのは1950年代後半のことで、黒人と白人が手錠でつながれたまま脱獄囚として警察の追跡から逃走するという設定の本作は、ハリウッドで人種差別反対を訴えつつ、その設定をうまくサスペンスあふれるアクション映画として成立させたことで話題となりました。アカデミー賞に多くノミネートされたもののオスカーを獲得したのは、ネイサン・E・ダグラスとハロルド・ジェイコブ・スミスのオリジナル脚本賞とサー・リーヴィットの撮影<白黒>賞の二部門にとどまりました・
【ご覧になる前に】シドニー・ポワティエが黒人初の主演男優賞候補に選定
雨の中、夜の道路を走るトラックの後ろには手錠につながれた囚人たちが乗っていて、黒人の歌がうるさいと喧嘩が始まったとき、対向車を避けようとしたトラックは横転してしまいます。囚人2名が逃走したことが判明し、保安官は犬を連れて追跡隊を組織します。手錠でつながれた白人ジョーカーは黒人カレンと罵り合いながらも急流の川を渡って逃走を続けるのですが、通りすがりの馬車に発見されそうになって採掘現場の穴の中に落下してしまうのでした…。
「ジム・クロウ法」によって黒人差別が合法化されていたアメリカにおいて、反人種差別運動が高まりを見せ始めたのは1950年代後半のことでした。「ジム・クロウ法」とは1876年からアメリカ南部諸州で制定された黒人隔離を認める法律で、交通機関や病院などの公共施設で区画が白人とそれ以外の人種で分けられたり、白人と黒人の婚姻が禁止されたりしたもの。人種差別の対象は、一滴でも黒人の血が混合していればすべて黒人というとみなすという「ワン・ドロップ・ルール」に基づいていました。
1955年12月アラバマ州モンゴメリーでバスに乗っていた黒人女性が「黒人専用席」に座っていたにも関わらず、白人に席を譲らなかったという理由で逮捕される事件が発生。マーティン・ルーサー・キング牧師の呼びかけで始まったバスボイコット運動は全米に広がりを見せます。やがて公立校で白人と黒人が学校に通う融合教育化が進められた1957年、アーカンソー州リトルロックで登校しようとした黒人を高校側が拒絶しフォーバス知事が州兵を送る事態に発展。こうした事件がきっかけとなって全米に反人種差別運動が広がり、1950年代後半に法律上の平等を目指す「公民権運動」のうねりになっていったのです。
この社会問題に真正面から挑んだのがスタンリー・クレイマーでした。プロデューサーとして『真昼の決闘』や『ケイン号の叛乱』を世に送り出したクレイマーは、オリヴィア・デ・ハヴィランド主演の『見知らぬ人でなく』で初めて製作・監督を兼ねた以降、自分の製作作品を自ら監督するようになりました。倹約家で予算の制約の中で良い仕事をすることが評価されてユナイテッド・アーティスツ社と契約を結んだことで資金面での苦労がなくなったからかもしれませんが、本作以降も社会派監督として『渚にて』『ニュールンベルグ裁判』などを送り出しました。
オリジナル脚本を書いたネイサン・E・ダグラスはネドリック・ヤングの変名で、非米活動委員会で証言を拒んだヤングは1950年代に本名で仕事をすることができませんでした。変名の事情を承知していたアカデミー理事会は、脚本賞のノミネーション発表の6週間前に非米活動委員会による追放を問題にしないことを決め、結果的にネドリック・ヤングはネイサン・E・ダグラスとしてオスカーを授与されます。なおネイサン・E・ダグラスとハロルド・ジェイコブ・スミスはスタンリー・クレイマー監督の次作『風の遺産』の脚色も担当しています。
白人脱獄囚を演じるトニー・カーティスは『空中ぶらんこ』や『成功の甘き香り』で実力を示していたものの美男子俳優としてのポジショニングからの脱却を考えていました。エルヴィス・プレスリーやカーク・ダグラス。バート・ランカスターらが候補にあがる中、熱意を見せていたトニー・カーティスに対して当初は懸念視していたスタンリー・クレイマーも最終的には承諾し、トニー・カーティスは妻ジャネット・リーと設立した共同会社で本作の製作費100万ドルを負担したんだそうです。
シドニー・ポワティエは1955年の『暴力教室』で黒人俳優として注目を浴び、本作ではアカデミー賞主演男優賞に黒人として初めてノミネートされました。シドニー・ポワティエはスタンリー・クレイマーのことを「自分を危険にさらすことを厭わない人物」として敬意と賞賛を抱いていたようで、『野のユリ』でオスカーに輝いた後に『招かれざる客』で再びスタンリー・クレイマーと仕事をすることになります。
【ご覧になった後で】シリアスな設定よりもスリリングな逃亡劇で魅せます
いかがでしたか?ゴールデン洋画劇場でTV放映された(1972年)とき以来の再見でして、子供心にめちゃくちゃ感動した覚えがあり、どんなすばらしい映画だったんだろうかと遠い記憶を呼び起こしながらの懐かしい鑑賞体験となりました。途中でカーラ・ウィリアムズ演じる夫に逃げられた人妻とのからみのシークエンスなんかはそっくりそのまま忘れていましたし、二人をつなぐ手錠はレールを通過する列車で切断すると勘違いしていたので大半は曖昧でしかなかったものの、ラストで列車に飛び乗ったシドニー・ポワティエがトニー・カーティスに手を伸ばすところや殴り合う二人が山肌の坂をブッシュに向って転げ落ちるショットなんかは「あー!これだったような」と記憶が蘇るのが感じられて、それくらいに印象深い作品だったんだなとあらためて感心してしまいました。
公民権運動という時代背景はともかくとして、相容れない二人が手錠の鎖でつながれ反目しながらも友情を芽生えさせるという基本設定は実に秀逸ですし、あれだけ切り離したかったはずの手錠が解かれたあとになって二人が精神的な鎖で結びついていたことに気づくという浄化作用には今さらながら尊いヒューマニズムが感じられます。それはトニー・カーティスとシドニー・ポワティエの演技が真に迫っているからで、リオに行って金持ち(そんな人を「チャーリー・ポテト」と表現するらしいですね)になる夢を持つトニー・カーティスと白人におもねる宿命から逃れたいシドニー・ポワティエの双方がどうにもならない現実に対する反逆者(The Defiant Ones)だったことが二人の演技によって伝わってくるのでした。
当時のハリウッド映画で黒人がヒロイズム的な役を演じること自体、大変に勇気がいることだったと思われます。当時の慣習ではトニー・カーティスがトップビリングでシドニー・ポワティエは助演という位置づけになりそうなところをトニー・カーティスがシドニー・ポワティエも一緒にクレジットタイトルに出すべきだと主張して、主演二人の名前が表記されることになったんだとか。結果的にトニー・カーティスとシドニー・ポワティエの二人が同じ作品でアカデミー賞主演男優賞候補になったのですから、名実ともに主演者が二人だったことが証明されたのだと思います。
シドニー・ポワティエの歌声で始まるオープニングがなかなかクールで、事故で転落したトラックのタイヤのクローズアップでいつのまにか朝になるという時制の省略と保安官と州警察警部が微妙に対立する人間関係の描写あたりまでは「これはやっぱり傑作だね」と感じさせました。けれどもトニー・カーティスとシドニー・ポワティエの二人に視点が変わってからがちょっと調子が狂ってきます。川の急流にのまれるシーンや採掘場の穴からはいあがろうとするシーンは手に汗握らせるサスペンス演出が巧くてスリリングなアクションで魅せますが、そもそも互いに憎しみ合っているはずの黒人と白人が手錠でつながれているために一緒に逃げなければいけないことへの苛立ちや動作が制限されてしまうストレスなどが描かれず、二人とも意外にあっさりと現状を受け入れてしまうところはストーリー展開を優先したがためにキャラクターの内部への掘り込みが浅くなってしまった印象でした。
つまり黒人と白人が友情で結ばれるという結論ありきの展開になってしまっていて、本来なら手錠の鎖が切れないのなら殴り合いをして相手が気絶している間に手首を切り落とすくらいのことをやっても不自然ではない囚人同士なのです。そんな考えも全く浮かばないのか、割と早く協力関係になり、過去をしんみりと話したりして互いに自己開示して関係構築してしまいます。そんなの現実的じゃないですよね。もっとトニー・カーティスとシドニー・ポワティエがイライラしながら一刻も早く離れたいのに一緒にいなきゃいけないことへの不平不満をぶちまけ合い、それを相手のせいにするみたいな人間関係の相克に時間を費やしてほしかったです。
なのでマックという元囚人の男の善意で無事に雑貨店の村から脱出した後で急に口論し始めるのもなんだか不自然で、それは少年と遭遇させるための話の運びを優先しているからでしたし、カーラ・ウィリアムズの人妻の家で手錠を壊すことができて、二人をつなぐものがなくなったのにいつまでもその家に留まり続けるのも納得がいきませんでした。鎖があったからこそ協力していたわけで、早くおさらばして単独で逃走したほうが助かる可能性が高いはずです。トニー・カーティスは人妻とよろしくやり始めているのだったらなおさらで、シドニー・ポワティエが単独行動に移らないところに男同士の友情のヒューマンドラマ路線があらかじめ用意されているのを感じさせました。
ジョーカー役を最初にオファーされたのはロバート・ミッチャムだったそうで、南部で強制労働に従事した経験があったミッチャムは黒人と白人が鎖でつながれるという設定自体あり得ないと言って出演を断ったんだとか。ジム・クロウ法でバスの中でも黒人は「黒人専用席」にしか座れなかった時代に、いくら囚人といえども黒人と白人が同じトラックで搬送されるのはいかにもおかしいですし、ましてや黒人と手錠でつながれることを白人が受け入れるはずがない時代でしたから、基本設定そのものからして疑義が生じていたのかもしれません。
ラストで列車に飛び乗ることができなかったシドニー・ポワティエはトニー・カーティスを自分の胸に抱いてタバコをくわえさせてやりますが、そこにはどこかしら同性愛的な雰囲気が漂っていました。つまり基本的設定に無理があったからこそ、二人のつながりをそっち方面に寄せる必要が出てきたしまったのではないでしょうか。実際に2000年代になってインタビューを受けたトニー・カーティスは『手錠のままの脱獄』における同性愛的の含意を否定していません。
スタンリー・クレイマーの演出はアクションシーンでこそキレがあり、うまく二人が逃げられるかどうかのサスペンスを盛り上げていましたが、冒頭のトラックのタイヤで時間の経過を表現する手法をリンチされそうになった焚火が消えて朝になるという村のシークエンスと窓の外の風景が夜から朝に変わるという人妻の家のシークエンスで繰り返し使っています。これがなんだか過剰というか安っぽい感じになってしまって、クローズアップやトラックバックなどのショットが効果を生んでいないあたりも含めて、ドラマ部分での演出にやや難ありだったように思えます。
全体的には1958年という時代を鑑みるとケネディが大統領に就任して公民権運動が一般化する前に反人種差別を明確に主張する作品を製作したことに本作の価値があったのでしょう。アカデミー賞を獲得するまではいかなかったにしても作品賞・監督賞・主演男優賞(トニー・カーティスとシドニー・ポワティエ)・助演男優賞(保安官をやったセオドア・ピケル)・助演女優賞(人妻役のカーラ・ウィリアムズ)などがノミネーションされたことやネドリック・ヤングが脚本賞を受賞したことを想うと、ハリウッドが非米活動委員会の呪縛から解放されて、リベラルな立場を取り始めるスプリング・ボード的な作品であったのも事実でしょう。そういう意味ではやっぱりスタンリー・クレイマーが製作・監督した本作にはそれなりの評価をするべきなのかなと思い直すのでありました。(U061326)

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