許されざる者(1960年)

バート・ランカスターの主演でオードリー・ヘプバーンの唯一の西部劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ジョン・ヒューストン監督の『許されざる者』です。アラン・ル・メイの原作の映画化で「ヘクト・ヒル・ランカスター・プロダクション」を主宰するバート・ランカスターが主演しています。主人公の妹役をオードリー・ヘプバーンが演じていて、彼女にとってキャリア唯一の西部劇出演作となりました。バート・ランカスターは1960年度アカデミー賞主演男優賞を受賞していますが、対象となったのは本作ではなくリチャード・ブルックスが監督した『エルマー・ガントリー』でした。

【ご覧になる前に】原作を書いたアラン・ル・メイは『捜索者』の作者です

荒野の平原に坂を利用して建てられた一軒屋があり、草地とつながっている屋根に数頭の牛が登っているのをこの家の娘レイチェルが追い払っています。「父ウィリアム・ザカリーはここで殺された」という墓標が立つ家で母親がパンを焼いていると、馬に乗りサーベルを持った老人が家の様子を伺っていました。そこへカウボーイたちとともに帰ってきたのは兄ベン。ベンは近隣に住む亡父の友人ゼブとともに牛を売却先に移送する計画を立てていますが、サーベルの老人が現れたという話を聞くとベンは深夜に弟キャッシュとともに捜索に出掛けるのでした…。

インディアナ州出身のアラン・ル・メイはフロリダ州で大学を卒業すると第一次世界大戦に陸軍少尉として従軍、シカゴ大学で哲学を学び直すと三十歳になる前に騎兵隊とシャイアン族を題材にした小説を発表し多くの西部小説を書き続けました。その代表作が1954年の「捜索者」と1957年の「許されざる者」で、前者は1956年にジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演で映画化されることになりました。ル・メイは映画脚本も書いていて『北西騎馬警官隊』や『海賊黒ひげ』のシナリオは彼の手によるものです。

1946年に『殺人者』で映画デビューを果たしたバート・ランカスターは早くからハリウッドのスタジオ主導型製作方式に疑問を抱き、1948年にハロルド・ヘクトと組んで「ヘクト・ランカスター・プロ」を設立します。ユナイテッド・アーティスツと契約を結んで『地上より永遠に』『ヴェラクルス』などをヒットさせたランカスターは、プロデューサーのジェームス・ヒルを迎え入れて製作会社も「ヘクト・ヒル・ランカスター」の三人の名義に変更。『空中ぶらんこ』『成功の甘き香り』そして本作と1962年に倒産するまでヒット作を世に出し続けたプロダクションとなりました。

オードリー・ヘプバーンは夫メル・ファーラー監督の『緑の館』に出演して休暇をとる予定にしていましたが、本作の脚本を読んで西部劇という設定に惹かれて出演オファーを受けることにしました。しかし本作撮影時の落馬事故で背骨を骨折して6週間の入院を余儀なくされ、撮影終了後には二度目の流産をしてしまいます。ジョン・ヒューストンは自分の監督作品の中でも本作を嫌っていたという話もあり、オードリーの事故を自分の責任だと考えてたことにその一因があったようです。

母親役を演じたリリアン・ギッシュは『散り行く花』などサイレント映画時代の大スターで本作出演時には六十六歳になっていましたが、サイレント期に出ていた西部劇のガンマン役かた射撃を教わっていたため、本作では誰よりも正確かつ迅速に射撃ができたんだそうです。また弟のキャッシュ役にはカーク・ダグラスやトニー・カーティス、リチャード・バートンが候補に上がりましたが、結果的に選ばれたのはオーディ・マーフィ。第二次大戦で名誉勲章をはじめ多くの勲章を授与されたマーフィはLIFE誌にその功績が掲載されたのを契機にハリウッドに招待されて俳優になったという経歴の持ち主で、自伝を映画化した『地獄の戦線』で自ら主役を演じてユニバーサル映画始まって以来のメガヒットを飛ばし、ユニバーサルでその記録は『ジョーズ』まで破られれることはありませんでした。

【ご覧になった後で】カイオワ族皆殺しの展開にはついていけませんでした

いかがでしたか?この映画は子供の頃にTVの洋画劇場で見て以来の超久しぶりの再見だったので楽しみにしていたのですが、期待に反してあまり面白くない出来栄えでややがっかりしたというのが正直な気持ちです。序盤がグタグタしていてなかなか映画に入っていかれなかったのは、バート・ランカスターが帰還してカウボーイたちの中にインディアンのジョニーがいて近隣牧場主ゼブ一家とのやりとりがあってという伏線張りのための段取りに手間取ったためでしょう。もう少しトントンと話を進めてほしいですし、インディアンのジョニーに至ってはサーベル老人をつかまえるところだけが見せ場でその後は姿を消してしまい、カウボーイの中にインディアン出身者がいるという設定が全く効果を発揮しないままに終わってしまっていました。

そしてサーベル老人の告白通り、リリアン・ギッシュによってレイチェルがインディアンの娘だということが明らかになると、ザカリー一家はバート・ランカスター指揮の元でカイオワ族と単独で決闘する道を選びます。カイオワ族は「優れし者たち」という意味なんだそうですけど、バッファローの革に自分たちの年代記を記す習慣が引用されて「女の赤ん坊が奪われた」ということがわかった時点で、レイチェルのことを連れ戻そうとするカイオワ族の要望は少なくとも真っ当なものであることを観客は理解します。そのうえカイオワ族を統率する若者が「妹を返せ」と申し出ているわけなので、父ウィリアム・ザカリーが勝手にさらってきたレイチェルをカイオワ族に返すことが一番自然な解決策であると思うのが普通ではないでしょうか。

ゼブ家の一族もカウボーイたちも弟のキャッシュもレイチェル引き渡しに賛成しますし、レイチェル本人も覚悟を決めてカイオワ族の元に行こうとしますが、それをとどめるのがバート・ランカスター演ずるベンでした。なぜベンがレイチェルを渡すことを拒否するかと言えば、兄という立場なのにレイチェルを女として愛しているからで、言ってみれば個人的な恋情を最優先してそれまでの経緯を客観視することができず判断が感情的になってしまいます。結果的に平和的な話し合いに来たカイオワ族の代表団の一人を弟アンディに撃ち殺させるのですが、話し合おうとしている相手を撃ったこととその残酷な仕打ちを自分ではなく弟にやらせていることの二点においてベンは非常に卑怯なキャラクターに堕ちてしまいました。

そもそも実の弟アンディはベンに何か言われると「Sir!」と返事をしてすぐに実行します。日本語に置き換えると「承知いたしました、旦那様!」みたいなニュアンスの返事を平気でさせているところに旧来的な家父長のような絶対君主性が観客にとっては不愉快に感じられますよね。レイチェルを妻にすることを目的とするベンとカイオワ族との戦いは、最終的にはベンの勝利に終わります。すなわちカイオワ族は全滅させられるのですし、首領の若い男はベンではなくレイチェルの銃弾によって打倒されます。ここでもベンは自分の手ではなくレイチェルにその残酷な役回りをさせることになるのですし、最愛の存在であるはずの母親は銃撃戦の負傷で死んでしまいます。映画のラストではファーストシーンのリピートとなる空を飛ぶ雁の群れが映ってそれを見上げるザカリー一家のショットになりますが、将来の希望を示す意図をもって作られたはずの家族の姿は希望どころか殺戮者にしか見えません。残念ながら本作の脚本はほんの少しも支持できないストーリー展開になっていました。

ジョン・ル・メイが『捜索者』の作者でもあるということからジョン・ヒューストンは本作をジョン・フォード監督の『捜索者』へのアンサームービーであると考えていたようです。確かに『捜索者』は妹をインディアンにさらわれるお話で、本作はインディアンから妹をさらってきた設定なので相似形になっているのは間違いありません。しかしながら両作ともにさらわれた本人の視点が欠落していて、『捜索者』ではインディアンの暮らしに馴染んでしまっていたナタリー・ウッドがジョン・ウェインによって連れ戻されますし、本作でも自らカイオワ族に元に行こうとするオードリー・ヘプバーンの気持ちはバート・ランカスターに無視され、オードリーは実の兄とも言えるインディアンの首領を自らの銃で殺すことになります。確かにアンサー的な位置づけにあるんでしょうけど、『捜索者』の何とも言えない無常感に対して本作はただ単に残虐なだけで終わっていたのが残念でした。

オードリー・ヘプバーンは元来が明るいキャラクターが似合う女優なので、本作のような白人とインディアンの間で引き裂かれるような役は向いていなかったような気もしますね。そもそも『ローマの休日』でアン王女を演じたオードリーは『麗しのサブリナ』以降主役でありヒロインであり続けました。『戦争と平和』のナターシャ、『パリの恋人』の本屋の娘、『昼下がりの情事』のアリアーヌ、『緑おの館』の妖精、『尼僧物語』のシスタールーク。そんなオードリーがなぜレイチェルをやらなければならなかったんでしょうか。レイチェルはヒロインではありますが決して主役ではありません。本作の主役はバート・ランカスターただ一人であって、オードリーはランカスターの添え物的な位置づけです。オードリーは出演作を徹底的に吟味して選び抜く人でしたけど、そのキャリアにおいて本作だけは選択を誤ったとしか思えませんでした。

しかしながら全くダメな映画かといえばそうでもなく、ジョン・ヒューストンの演出はかなり考えられていて見応えがありました。ジョン・ヒューストンは基本的にキャラクター描写を最優先させていて、映像のスタイルや統一感はほとんど無視したうえでキャラクターの心情に寄り添ったショットを積み重ねていました。馬に乗ったり銃を撃ったりというアクションシーンが多いので動い回る登場人物を捉えるためにキャメラはほとんどフィックスにならず移動やパンやティルトをフル活用します。構図の美しさや画面構成の意味付けなどは一切されず、映像はひたすら人物を映し出すことだけのためにありました。

唯一見事だなと思わせたのはサーベル老人をインディアンのカウボーイが追跡するのを崖のてっぺんから見下ろすように撮った超俯瞰ショット。これも右から左へとパンするのですが大平原の中で馬を駆る男たちを米粒のように捉えたショットにだけはキャメラマンのこだわりのようなものが感じられました。キャメラマンはユダヤ系出身でナチスドイツの侵略を恐れてオーストリアからハリウッドに渡ったフランツ・プラナー。『ケイン号の叛乱』や『大いなる西部』などの大作を撮っていますし、『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』『噂の二人』でオードリーを撮り続けた人でもありました。

1960年という製作年度を考慮するとインディアンの人種問題を正面から取り上げた姿勢は評価すべきことなのかもしれませんし、カウボーイの中にインディアンがいるという設定も当時としては珍しいことだったんでしょう。しかしカイオワ族を皆殺しにして晴れやかなラストを迎えるというストーリーはあまりに旧来型であったと思わざるを得ません。そもそもインディアンカウボーイを演じたジョン・サクソンはブルックリン出身の白人で『燃えよドラゴン』でブルース・リーと共演した武道家役が有名なくらいですから、本当に人種問題に向き合うつもりがあったかどうか。いろんな面でモヤモヤが残る作品でした。(T050626)

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