ジョン・チーヴァーの短編小説をバート・ランカスター主演で映画化しました
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フランク・ペリー監督の『泳ぐひと』です。原作の「The Swimmer」はジョン・チーヴァーが書いたわずか12ページの短編小説で、ニューヨーカー誌の1964年7月号に掲載されました。コロンビア映画のロゴが出てきますが、製作したのはホライゾン・ピクチャーズで、当初主演にはウィリアム・ホールデンが予定されていたものの断られ、出演を熱望していたバート・ランカスターが登場する全場面水着のみという姿で主人公を演じることになりました。
【ご覧になる前に】クレジットにないプロデューサーはサム・スピーゲルです
太陽が燦燦と輝く真夏の日曜日に草むらをかき分けて友人サム宅のプールに現れたのはネッド・メリル。水泳用の水着を身に着け裸足のメリルは二日酔いだという友人たちの目の前でプールに飛び込んで泳ぎきると、これから高級住宅地に住む隣人たちのプール伝いに泳いで自分の家まで帰ると宣言します。隣のプールでは最新式の濾過装置を備えて新しく作られたものだとグレアム夫妻に自慢され、その隣のプールでは息子の見舞いに来なかったとハマー夫人から非難されます。さらに林を抜けてたどり着いたプールでメリルは少女だと思っていたジュリアンが美しい女性に成長した姿を見るのでしたが…。
1912年生まれのジョン・チーヴァーは第二次大戦前から短編小説を発表していた人で、戦後になるとサリンジャーやアーウィン・ショーと並んで「ニューヨーカー派」の作家として活躍していました。1957年には初の長編小説「ワップショット家の人びと」を発表して数々の文学賞を受賞するなど高い評価を得ます。本作の原作となった「The Swimmer」は当初は長編小説として構想されそのメモは150ページに及んだそうですが、結果的にニューヨーカー誌に掲載されたのは12ページに圧縮された短編小説でした。ジョン・チーヴァーは1979年にはピューリッツアー賞フィクション部門を受賞するなど作家活動を続け、1982年七十歳で亡くなっています。
その短編小説の映画化はプロデューサーのサム・スピーゲルによって進められました。スピーゲルは『戦場にかける橋』や『アラビアのロレンス』の製作者として有名ですが、そのような大作を手がけたあとでなぜジョン・チーヴァーの短編を映画化しようと思ったのかはわかりません。当初予定していたウィリアム・ホールデンではなくバート・ランカスターが主演になり、監督のフランク・ペリーは撮影の途中で方向性の違いからサム・スピーゲルによって解雇されていますので、本作は決して快心の作品とはならなかったようです。製作会社のホライゾン・ピクチャーズの名前は残されましたが、サム・スピーゲルの名前はプロデューサーとしてクレジットされることなく、公開に至りました。
監督のフランク・ペリーは本作の前には2本程度の監督作品とTVドラマの演出作品があるだけで、なぜサム・スピーゲルが起用したのかも不明です。本作以降では1971年にフェイ・ダナウェイが出た『ドク・ホリデイ』が目立つくらいなので、この『泳ぐひと』が実質的な代表作と言っていいでしょう。脚色したエレノア・ペリーは当時フランク・ペリーの奥さんだったようで、エレノアもTVドラマのシナリオなど書いたくらいで他には特筆するような作品は見当たりません。
スタッフの中で最も有名なのは音楽のマーヴィン・ハムリッシュでしょうか。実は本作はマーヴィン・ハムリッシュの映画音楽でのデビュー作で、あるパーティでピアノを弾いていたハムリッシュをサム・スピーゲルが発掘したんだとか。ハムリッシュは翌年の1969年には『幸せはパリで』でロマンチックな「The April Fools」というテーマ曲を書いていますし、1973年の『追憶』でオスカーを獲得しています。1977年には『007私を愛したスパイ』で音楽を担当しますから、ハムリッシュがハリウッドで活躍するきっかけとなったのがこの『泳ぐひと』だったと言えるでしょう。
バート・ランカスターにとって1960年代はそのキャリアのピークを迎えた頃でした。『ニュールンベルグ裁判』や『終身犯』では演技派として、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』ではヨーロッパでも通用する国際派として、『大列車作戦』や『プロフェッショナル』ではアクション派として、俳優の幅を広げていったのですが、そのキャリアの中では本作はちょっと毛色が違う作品となっています。全編にわたって水着一丁で出演していて、五十二歳とは思えない見事な体格は本作のために徹底的にトレーニングを重ねた結果なんだそうです。
【ご覧になった後で】プールを渡り歩くうちに謎が解けてくる不思議な映画
いかがでしたか?バート・ランカスター主演作ですからこの『泳ぐひと』の存在は昔から知っていたのですが、かつてのTVの洋画劇場でも放映されたことが一度もありませんでした。今回が初めて見てその理由がわかったような気がします。この映画はとてもTV放映できないというかTVで見ていてもなんだかよくわからないと判断されたのでしょう。全編通して見るとプールを渡り歩くたびに徐々にバート・ランカスター演じる人物の謎が解けてくる展開になっているので、部分だけチラ見してもまったくわけがわからないでしょうし、全編見たとしても実に後味の悪い絶望的な謎解きになっているので、TVの洋画放映枠で流されなかったのは当然だったと思われます。
その伏線は冒頭のタイトルバックの映像から張られていたわけで、鹿やウサギやフクロウが何かに怯えて逃げていくという映像が続き、やがてキャメラが林の中を前進していって林を抜けて上空からの俯瞰になると水着だけで走っていくバート・ランカスターの後ろ姿をとらえます。つまり動物たちが怯えていたのは人が走ってきたからではなく、バート・ランカスター演じるネッド・メリルという男の存在そのものに恐怖していたんですよね。そしてメリルの存在は、かつては成功した人物として栄光と傲慢と欲望にまみれながら家族を騙していて、現在では転落した人物として定職につかず友人たちの借金を返すこともしない無様な姿を晒しながら家族を失っているのです。
12ページしかない原作がどのように描かれているのか知りませんけど、映画の前半はバート・ランカスターの視点での描写が強めになっているので周囲の人物が俗っぽいいじわるな人種に見えるのに対して、プールを渡り歩くうちに観客はパーティに集う住民の視点になってきてバート・ランカスターを軽蔑するような見方をするようになります。映画の表現上で、このように一人称から三人称に視点を移動させることに成功しているのは、かなり珍しいことなんではないでしょうか。その点ではかなりユニークな映画ですし、アメリカ映画史においても特筆すべき作品かもしれません。
双葉十三郎先生は本作を☆☆☆★★★の高得点で評価していて「SF的時間消失の恐怖。それを利用してメリルのような人間の実体を描き、現代社会の一角にメスを入れている」とコメントしています。まさに言い得て妙という映画評で、本当に勉強になります。
とは言っても見ていて決して面白い映画ではありませんし、かつて少女時代にメリルに憧れたというジュリアンにメイルがキスしようとする場面などは凌辱感のようなものが感じられて極めて不愉快な肌触りがしました。天蓋のあるプールでのパーティあたりから実はおかしいのはメリルのほうなんではないかと気づきますし、となると妻と娘が待つという自宅は廃墟かなんかになっているんだろうと容易に想像がついてしまいます。なのでかつての愛人だったシャーリーにメリルがしつこくまとわりつくのも鬱陶しいだけで、見ていても早くメリルの自宅に辿り着いて種明かしにならないかなとそればかりが気になるような見方になりました。
そしてこの場面ではフランク・ペリーはファイアされていたので、シドニー・ポラックが監督して撮影されたらしいですね。シドニー・ポラックは1970年代には『追憶』や『ザ・ヤクザ』などで成功する監督ですが、本作撮影当時はまだロバート・レッドフォード主演の『雨のニューオリンズ』くらいしか撮っていない頃。そんな監督交代のゴタゴタがあり編集もなかなか進まず、サム・スピーゲルもやる気をなくしたのか1966年に撮影が完了していた本作は二年後の1968年にやっと公開されることになりました。
というわけでバート・ランカスター主演だからある程度の評価を保っていた作品だったのかもしれませんね。まあ突然水着だけで他人の家に登場する人物がいたら、現在では即変質者決定となるわけですから、ある程度の人格者っぽい雰囲気をもった俳優でなければメリル役は成り立たなかったでしょう。バート・ランカスター本人は自身のキャリアの最高の映画で最も好きな作品だと言っていたようですが、本当でしょうか。(U112923)
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