松本清張の原作を映画化した作品の中でも松本清張が高く評価した代表作です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、野村芳太郎監督の『砂の器』です。松本清張の書いた小説は昭和32年の『顔』以来30作以上が映画化されてきましたが、その中でも松本清張自身が「小説では表現できない」と高く評価したのが本作でした。というのも原作では6ページしかない親子の放浪部分を映画では後半の45分にわたって映像化し、それがホールで演奏されるピアノ協奏曲「宿命」と犯人を追い詰める刑事の語りと一体化して表現されているからで、本作は興行的にも昭和49年日本映画配給収入で三番目の大ヒットとなり、キネマ旬報ベストテンでも第二位に選出されました。
【ご覧になる前に】橋本忍がこの映画のためにプロダクションを設立しました
国鉄蒲田駅の操車場で撲殺死体が見つかり、警察は捜査本部を立ち上げました。警視庁の今西刑事と西蒲田署の吉村刑事は被害者のポケットに入っていたマッチから蒲田のバーで聞き込みをして、殺害される直前にある男と会っていた被害者がさかんに「カメダ」と言っていたことを突き止めます。当初は「カメダ」を人の名前と考えていた今西は、男がズーズー弁で話していたことから東北の地名ではないかと思い直し、吉村とともに秋田県の亀田町に赴きます。しかし特に捜査に関係した証言を得ることはできず捜査本部は解散となり、本庁の継続捜査に引き継がれてしまいました…。
松本清張による原作は昭和35年5月から一年間読売新聞夕刊に連載された新聞小説でした。清張は自作の映画化作品の中では松竹の『張込み』『ゼロの焦点』を気に入っていて、「砂の器」の連載中に脚本橋本忍・監督野村芳太郎のコンビでの映画化を希望したそうです。しかしながら、橋本忍は原作のままだと映画にはならないと判断し、『霧の旗』を映画化したときに共同で脚本を書いた山田洋次と相談して、親子が放浪する場面にフォーカスすることを決めました。原作では音響研究家の犯人が超音波を使って犯罪を重ねていくプロットになっていますが、橋本忍と山田洋次の二人は余分なエピソードをすべて省略して親子の放浪に音楽家の演奏会をオーバーラップさせるという構成に改変して脚本を完成させました。
その脚本を監督の野村芳太郎が撮影しようとしたときに当時の松竹の城戸四郎社長から話が暗すぎるといってストップがかかり、松竹での映画化は暗礁に乗り上げてしまいました。他の大手映画会社も製作してくれるところは見つからず、業を煮やした橋本忍は自ら「橋本プロダクション」を設立して、東宝の藤本真澄との間で共同製作するところまでこぎつけます。当然東宝は野村芳太郎監督を松竹から借りることになるのですが、野村芳太郎の貸し出しを渋った松竹の城戸社長は前言を撤回して松竹と橋本プロの共同製作作品に切り替えて製作をスタートさせることになりました。
野村芳太郎は昭和27年に松竹で監督に昇進しましたが、その野村芳太郎のことを買っていたのが黒澤明でした。黒澤は東宝が争議で映画製作を中断していた時期に松竹で『醜聞』と『白痴』を撮っていて、特に『白痴』については当時副社長だった城戸四郎から上映時間を短くしろと言われてモメたこともあり「いいことは何もなかった」と振り返っていますが、「ただ松竹の大船には東宝でも大映にもいない日本一の助監督がいたよ」と野村芳太郎の働きぶりを大絶賛したといいます。
橋本プロとして『砂の器』の製作者となった橋本忍は監督の野村芳太郎に配給収入を歩合で渡す契約を交わしたのですが、そのことを松竹の城戸四郎は苦々しく感じていました。というのも城戸四郎は野村芳太郎こそ将来の松竹の社長になるべき人材だと評価していて、監督ではなく製作本部長を任せたうえで営業を経験させてやがては専務・副社長へというキャリアを歩ませようと考えていたのでした。そこへお前が歩合給なんか渡すものだから野村は生涯一監督の道を選んでしまったのだと、橋本忍は城戸四郎から責められて考え込んでしまったと振り返っています。
橋本プロダクションを設立した橋本忍は昭和52年には東宝と組んで『八甲田山』を大ヒットさせて製作者としても成功を収めることになりますが、調子に乗り過ぎたのか昭和57年に製作・脚本・監督をつとめた『幻の湖』という歴史的大コケ映画を作ってしまいました。『幻の湖』はあまりに下らない映画という点である意味カルト作品になっていますけど、橋本忍のすばらしい業績を吹き飛ばしてしまうくらいの駄作として観客の記憶に残ってしまいましたので、橋本プロダクションを作って良かったのか悪かったのか、今でも疑問が残るところです。
【ご覧になった後で】捜査報告・放浪旅・演奏会のカットバックが見事でした
いかがでしたか?やっぱり橋本忍と山田洋次の二人が原作にはない構成にしたところが本作の一番の見どころでしたね。今西刑事による捜査報告と本浦父子の放浪の旅と和賀のピアノによる「宿命」の演奏会がカットバックするのは、文楽に親しんだ橋本忍によると太夫と人形と三味線の三業があるのを映画でやってみたということのようです。確かに丹波哲郎による犯行経緯の説明はなぜ和賀が恩人の三木巡査を殺さなければならないのかを語りあげますし、本浦父子の放浪が冬の雪景色から桜の春に変わり新緑の夏まで続くのはセリフなしの映像だけのほうが効果的だったでしょう。そこに今でもモチーフが耳鳴りしてくるような「宿命」のオーケストレーションが重なり、語りと映像を音楽でドラマチックに見せていく構成は、松本清張でなくでも小説では絶対にできない映画ならではの表現だとわかります。本作の成功の要因は映画的構成そのものにあったといってよいでしょう。
加えて本作のもうひとつの魅力は、その構成に命を吹き込むような俳優陣の演技にありました。特に丹波哲郎は『007は二度死ぬ』のタイガー田中や本作と同じ年に公開されて配給収入圧倒的トップとなった『日本沈没』の首相のようなマンガ的に誇張された演技とは正反対に、人間味にあふれて職務に忠実な今西刑事役を実直に演じていました。野村芳太郎の演出というよりも今西刑事の人間的魅力を伝える丹波哲郎の雰囲気づくりが成功していたと思います。そしてほとんどセリフのない加藤嘉の演技も涙を呼びましたねえ。特に駅のホームで息子と抱き合うところは思わずホロリとさせられましたし、療養施設で和賀のことを知らないと否定する場面では、知っているとは死んでも言えないというその心情がストレートに伝わってきました。
振り返ってみると、野村芳太郎の演出自体はどちらかというと凡庸で、やっぱり脚本段階で練り上げた構成が本作の骨格となっていたんでしょう。野村芳太郎の好みなのかキャメラマンの川又昂のクセなのか、いい絵だなと思って見ているとすぐにその絵がズームによって変容してしまい、構図の魅力を自ら否定しているんですよね。あまりに多用されるので、見事に決まった超望遠レンズによる圧縮されたショットも観客のほうがズームアウトするだろうなと身構えることになって、結局ズームしないのでなーんだと変にがっかりしてしまうのでした。ホント、ズームだけは使わないほうがいいです。
一時は映画そのものの題名にしようという案もあった「宿命」はピアノ協奏曲ということもありラフマニノフ調のドラマチックな曲に仕上がっていましたが、この曲は音楽監督の芥川也寸志によるものではないんですね。作曲してピアノ演奏をしているのは菅野光亮という人で、本職はジャスピアニストだったそうです。本作以降映画やTVドラマで音楽を担当していましたが、松本清張原作の映画『天城越え』に曲を提供した昭和58年に四十四歳の若さで亡くなっているのには驚いてしまいました。
本作で今西刑事は本浦千代吉の病気を「らい病」と明言していますが、本作の製作段階から全国ハンセン氏病患者協議会はハンセン氏病差別を助長する懸念から製作中止を訴えたそうです。松竹と橋本プロは逆に偏見を打破するための広報的役割を果たすとして映画の最後にハンセン氏病の現状を詳細に報告する字幕を挿入することにしました。本作は映画化後も繰り返しTVドラマになっていて、その際には本浦千代吉は他の病気だったり殺人犯だったりと設定変更がなされています。とは言っても松本清張の小説は他人から後ろ指をさされて故郷を出ざるを得ないという状況設定のためだけにハンセン氏病を題材として利用しています。また本浦秀夫が焼失した戸籍を自己申告によって書き換えるという設定も戦後混乱期ならではのトリックでした。そのように考えると松本清張の作品は、占領軍兵士相手の街娼をやっていた過去を隠すために殺人を犯したとかGHQが共産主義勢力を駆逐するため陰謀をめぐらしたとかいった内容が多く、その意味で松本清張は昭和の戦後が生んだ小説家であり、戦後の混乱期なくしては成り立たない小説を専門にしていたといえるでしょう。それがいいとか悪いとかではなく、現在的には松本清張が書くような小説は成立しにくいのが実際のところだと思います。
余談ですが捜査一課長を演じる内藤武敏は『霧の旗』では検事役を演じた人で、この手の映画の脇役には欠かせない俳優のひとりです。でも和賀の調書を見て「その後は順風満帆の人生か」というようなセリフを「じゅんぷうまんぽ」と誤読しているんですよ。これ、現場あるいは録音の時に修正する人がいなかったんでしょうか。きちんと「じゅんぷうまんぱん」と読んでもらわないと観客が余計なことを考えてしまうので、誰にとっても良いことはひとつもありません。(A010723)
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