処刑の島(昭和41年)

松竹を退社した篠田正浩が石原慎太郎の脚本を映画にしたオールロケ作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、篠田正浩監督の『処刑の島』です。松竹に入社して『恋の片道切符』で監督に昇進した篠田正浩はその5年後の昭和40年に松竹を退社しました。本作は退社後初となる監督作品で、武田泰淳の原作を石原慎太郎が脚色したシナリオを映画化しています。「本島と小島」が舞台となっていて、映画全編がオールロケーション撮影されており、出演者も篠田正浩と結婚したばかりの岩下志麻と東映を離れてフリーになったばかりの三國連太郎など、映画会社の制約下にない俳優が起用されています。

【ご覧になる前に】映画製作に進出した日生劇場が製作し大映が配給しました

ある部屋で女性との房事を終えた男は「行かなければならないところがある」とつぶやきます。客船に乗った男は小舟に乗り換えて本島と呼ばれる島に向いますが、乗り合わせた野本は男が以前この島にいたことがあり、大嶽という男に会いに来たことを知ります。野本は男を妹が営む宿屋に泊まらせますが、同宿することになった黒木は本島に向かい合うように浮かんでいる小島で学校の校長をしていて、男の顔を見た校長はかつて少年鑑別所にいた三郎ではないかと気づいたのでした…。

本作は昭和41年7月に大映系劇場で公開されていて、その年の3月に篠田正浩は岩下志麻と京都の大徳寺で結婚式を挙げています。結婚した二人は独立プロダクション「表現社」を立ち上げるのですが、表現社の第一作は昭和42年公開の『あかね雲』で、本作は篠田正浩にとっては松竹を退社したあとで、表現社立ち上げ前に監督した作品となります。

そのような端境期にあたり本作の製作としてクレジットされているのが日生劇場プロダクション。日生劇場は昭和38年に日本生命日比谷ビル内にオープンした劇場で、建築家村野藤吾が設計したことでも有名ですが、当初はオペラやミュージカル、現代劇から歌舞伎まで幅広い演目を自主製作していました。しかし経営難に陥り、昭和45年に自主製作から撤退して貸し小屋に転換。昭和46年には社長の五島昇と重役の石原慎太郎・浅利慶太が経営から手を引くことになりました。

本作で脚本を書いた石原慎太郎は製作者としてもクレジットされていますから、おそらく日生劇場創設にあたって、東急グループ総帥だった五島昇から重役に指名された石原慎太郎が、重役の地位を使って映画製作にも手を伸ばしたという背景があったんでしょう。石原慎太郎は篠田正浩の松竹での最後の作品『異聞猿飛佐助』に特別出演しており、松竹を退社した篠田正浩に自分の脚本で映画を撮らせようという意図もあったのかもしれません。

石原慎太郎は昭和38年に日生劇場映画部という名称で製作された大島渚監督の『小さな冒険旅行』にも原案を提供しているので、映画のプロデューサー業に強い関心をもっていたことは間違いありません。しかしながら日生劇場プロダクションは本作以外に製作作品を残していないので、興行的には失敗したんじゃないかと思われます。

原作は武田泰淳が昭和28年に発表した「流人島にて」ですが、戦時中極限状態に置かれた兵士が人肉喰いに手を出してしまう「ひかりごけ」と一緒に出版されたようで、両作ともに戦争によって兵士たちの精神が歪んでいくというモチーフは共通しているようです。武田泰淳の小説の映画化作品には「森と湖のまつり」(内田吐夢監督)や「貴族の階段」(吉村公三郎監督)などがありまして、妻子は随筆家の武田百合子さんと猫の写真を撮り続けた写真家武田花さんです。

【ご覧になった後で】自主製作映画っぽいですがサスペンスフルな出来でした

いかがでしたか?たぶんかなりの低予算で製作されたからだと思いますが、全編が自主製作映画っぽく感じられました。ほとんどがオールロケーションで撮影されていて、天候待ちをする余裕もなかったんでしょう、雲が太陽を隠しながら通り過ぎる影がそのまま映っていました。当然露出アンダーになって画面全体がほの暗くなりますし、現像の関係も影響しているかもしれませんがカラーの発色も悪く、商業映画として流通させるには映像的には見づらい作品になっていました。ロケ撮影の場所は伊豆七島あたりなんでしょうか、島の形状からすると三宅島と御蔵島なのかなあとも思いますが、資料がなくてはっきりしたことはわかりませんでした。

しかしその安っぽさを逆手にとるようにして島での野外撮影では望遠レンズを使った画角の狭い圧縮したショットを連続させて、何かに閉じ込められたような閉塞感を出すことに成功していました。島の景色を一望するようなショットは本島から小島を映した場面でしか出てきませんから、観客は島の全貌を見ることも想像することもできません。この息の詰まるような映像を撮ったキャメラマンは鈴木達夫で、本作がキャメラを回して三作目という時期でした。独立プロでの仕事を続け、昭和50年代には『青春の殺人者』や『太陽を盗んだ男』などの傑作で撮影を担当することになります。

宿屋や学校など数少ない室内シーンはセットを建てて撮影されたようですけど、美術を担当した戸田重昌は、小林正樹監督の『切腹』『怪談』で美術を担当した強者で、篠田正浩とは『乾いた花』で組んだ経験がありました。戸田重昌は『儀式』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』などの大島渚の作品で美術監督をやることになりますが、本作の宿屋のセットなどはちょっと『儀式』で出てくる屋敷のような雰囲気が感じられました。

撮影や美術はともかくとして、石原慎太郎の脚本はなかなかサスペンスフルにできていて、主人公の三郎がなぜ島に来たのかが徐々に明かされるプロットが観客を引きつけるのに成功していました。小島で三國連太郎に虐待される少年たちの映像はちょっとやり過ぎのような気がしましたが、少年役が新田昌に似ていることもあって妙なリアリティがありましたね。そして三國連太郎はいつものごとく勝手に自分なりの演技をしていたんだろうなと思わせるような三國連太郎らしい演技で、特に新田昌と対峙する暗い室内での長回しショットでは演劇的なムードが漂っていました。

原作がそうなのかもしれませんけど、少年院時代の復讐だけかと思ったら戦時中家族を殺されたという因縁もあったという種明かしはやや作り物過ぎていて、ちょっとシラケてしまいました。序盤で軍人が部屋で和服の男性を斬るインサートショットが挿入されていたのが伏線だったとしても、復讐すべき相手が家族を殺していたなんていう偶然は必要なかったと思いますし、いきなり指紋の鑑定場面が出てくるのも用意周到すぎて話が現実離れし過ぎてしまったような気がします。そのうえそこまで因縁の重なった相手を親指ひとつで赦してしまうのもかえって釈然としない展開となり、岩下志麻演じる娘の存在がそうさせたのだとしてもそれなら新田昌と岩下志麻の関係をもう少し深めておかないと納得が行きません。映画であれば脚色できるわけなので、脚本の終盤はちょっと破綻していたのではないでしょうか。

篠田正浩監督作品としては注目度も低く、武田泰淳原作の映画化作品があったことなど全く知りませんでした。昭和41年というと映画界の興行収入が最盛期の昭和33年の三分の一まで落ち込んだ年で、わずか8年の間に映画人口の大半はTVの普及によって消えてしまいました。石原慎太郎の日生劇場プロダクションによる映画製作はチャレンジングな試みではあったんでしょうけど、本作のような映画がTVに流れた観客を取り戻せるとは思えません。意欲的ではあるもののマーケティング感覚に欠ける企画だったのかもしれません。(U052224)

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