泣蟲小僧(昭和13年)

林芙美子の短編小説を八田尚之が脚色して豊田四郎監督が映画化しました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、豊田四郎監督の『泣蟲小僧』です。映画情報サイトでは「泣虫小僧」と表記しているところもありますが、戦前の作品ですしタイトルに出る通りの『泣蟲小僧』と旧字表記にさせていただきます。原作は林芙美子の短編小説で、脚本八田尚之・監督豊田四郎のコンビで映画化され、昭和13年度のキネマ旬報ベストテンで第七位にランクインしています。この二人は前年の昭和12年に石坂洋次郎原作の『若い人』を初めて映画化していて、それぞれ文芸路線で活躍することになります。

【ご覧になる前に】東宝に合併される前の東京発声映画製作所の作品です

町はずれの一軒家で風が強い中落ち葉掃除をしている啓吉を見て、母親の貞子は小遣いをもたせて数時間遊んでくるように言います。町に向って歩いていく啓吉とすれ違った中年男は啓吉のことを「小僧」と呼び捨てると、啓吉の家に入っていきます。男は数年前に夫を亡くした貞子の情夫で、仕事がうまく行かないことに加えて啓吉が自分になつかないことを貞子にぼやくのでした。数日後、貞子はの妹寛子を訪れて啓吉を預かってくれと頼みますが、承知しない寛子に代わって売れない小説を書いている寛子の夫に啓吉を押し付けて帰ってしまいました。啓吉が「おじさん」と慕う勘三は一番下の妹蓮子を頼りにするのですが、逆に蓮子に電気代をせびられてしまうのでした…。

この映画は昭和13年3月に公開されていますが、翌4月には国家総動員法が公布され、日中戦争の長期化によって人的・物的資源すべてが政府の統制下に入るという戦時体制が強化されることになった時期です。一年後には映画法によって日本映画界は脚本の事前検閲や映画会社の許認可制、映画製作従事者の技能審査義務化など様々な制約を受けることになりますので、本作は戦前において自由に映画が作ることができたギリギリの頃に製作されたわけです。

製作したのは東京発声映画製作所で、日活資本で設立されたトーキー専門の映画製作会社としてスタートしました。代表者の重宗務は松竹蒲田でサイレント映画の監督をしていた人で、蒲田撮影所長の城戸四郎がコストのかかるトーキー作品はこれという監督にしか作らせない体制を敷いていた松竹を飛び出して日活に移籍し、日活から資本を得て東京発声映画製作所を設立したのでした。日活にいた八田尚之が企画製作部長となり、そこに松竹を退社した豊田四郎が合流して、製作重宗和伸(製作者としての名前はこちら)、脚本八田尚之、監督豊田四郎の体制が確立します。昭和12年には日活から東宝映画配給と手を組んで、製作を東京発声映画製作所が担い、配給を東宝映画配給が行うという分業体制となって、豊田四郎監督に加えて阿部豊監督作品を世に送り出しました。そんな東京発声映画製作所も戦争が始まると戦時統合によって昭和16年には東宝と合併して東宝の一部門となっていきます。

昭和5年に「放浪記」を書いて流行作家となっていた林芙美子は、昭和12年には毎日新聞の特派員として南京や武漢で現地ルポルタージュ記事を書いていました。短編小説「泣蟲小僧」はその前後に執筆されたものだと思われますが、いずれにしても昭和初期にはすでに林芙美子の小説は映画界から脚本のネタとして注目されていました。プロデューサーの重宗和伸が『若い人』に続いて『泣蟲小僧』を映画化したということは、林芙美子は石坂洋次郎くらいに売れっ子作家だったと言えそうです。

脚本を書いた八田尚之はマキノプロダクションのシナリオ作家として活躍していて、日活を経て東京発声映画製作所に入りました。戦時統合体制下以降は映画会社の枠を超えて脚本を書き、例えば戦後すぐには笠智衆主演・千葉泰樹監督の新東宝作品『生きている画像』とか木村恵吾監督・京マチ子主演の『痴人の愛』なんかが八田尚之の作品です。豊田四郎は東京発声映画製作所では昭和15年にハンセン氏病を扱った力作『小島の春』を作ったりしましたが、戦後は昭和28年の『雁』あたりをきっかけにして文芸作品の映画化を次々に手掛けることになります。

【ご覧になった後で】主人公は「泣き虫」ではなく「ネグレクトされた子」

いかがでしたか?林芙美子原作だけあって、ラストも母親に棄てられてひとり淋しくもぬけの殻になった家から去っていく主人公で終わるという実に哀しい結末でしたね。確かに主人公啓吉は泣いている場面が多いですが、決して泣き虫なわけではなく、もう泣くしかないくらいにネグレクトされた孤独感が浮かび上がるようなお話でした。

母親は現在的にいえば育児放棄をしているわけで、情夫も「パパ」と呼んでくれる妹は可愛いけれど、よその人としか見ない啓吉はジャマでしかないのです。その啓吉が唯一慕うおじさんは売れない小説家でお金はないけれど気の良い善人で、啓吉のことを親身になってかばってくれるただひとりの存在なのですが、いかんせん生活力がなく妻に頭が上がらないため啓吉を引き取ることができません。たぶんそれを知っている啓吉は、おじさんに迷惑がかかるとわかっているため寛子おばさんのところには行かないのでしょう。このようにして貧困孤児が生まれるんだというような教条的映画のようにも思えました。

そんな悲惨なお話なのに、どこかしらのんびりした雰囲気の語り口になっているのは、藤井貢演じるおじさんの存在感のためでしょうか。なにしろ藤井貢は清水宏監督の『大学の若旦那』で、二階から金庫のお金を釣ってくすねるノンシャランとした若旦那を演じていましたから、お金がない役なのにどこかしら鷹揚な感じがあるんですよね。また啓吉を一晩泊めてくれる尺八吹きもおおらかな人物で、かつての日本はこのようにどこの子かわからないけど、一宿一飯の面倒を見てくれるような人情味があったんでしょうね。

逆に栗島すみ子の母親は態度は母親らしいのですがほとんど啓吉に愛情らしきものは見せませんし、次妹の寛子を演じる逢初夢子にいたっては啓吉を厄介者扱いしかしません。逢初夢子は本作の四年前には『隣の八重ちゃん』で主人公を演じていたのになぜこんなイヤな役をあてられたのでしょうか。やっぱり松竹を辞めて東京発声映画製作所に移ったのは失敗だったのかもしれません。

そんなわけであまりに主人公の啓吉がかわいそうな境遇なので、映画として見るよりも啓吉というキャラに感情移入するだけでいつのまにか見終わってしまっていました。啓吉役の林文雄という子役は本作のほか数本出ただけのようですけど、なかなか素直で素朴な演技だったと思います。でも「箱根の山は天下の険」を歌ったり富士山を見たりするだけで元気を取り戻すという表現は、やや戦時体制に入りつつある当時の世相を反映しているような感じがしました。あれだけネグレクトされた状況にいると、富士山なんか眺めても何の効果も恩恵もないはずですから、早く啓吉になにか食べさせてあげる人が現れることを願わないではいられませんでした。(Y052423)

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