名刀美女丸(昭和20年)

戦時統制下で溝口健二が日本刀を作る刀鍛冶を主人公に作った時代劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、溝口健二監督の『名刀美女丸』です。この作品は昭和20年2月に公開されていますので、まさに太平洋戦争末期の戦時下で、映画製作にはさまざまな統制がかけられていました。しかし日本人を象徴するような日本刀を作る刀鍛冶を主人公にして、親の仇を討つ女性の物語に仕立てたことで、溝口健二は当局のお眼鏡にかなった映画を作ることができました。主役に溝口作品ではおなじみの花柳章太郎と山田五十鈴が起用されているのも見どころになっています。

【ご覧になる前に】製作がマキノ正博、脚本が川口松太郎の松竹映画です

武士が帯刀する日本刀を作る刀鍛冶の刀匠が、弟子の清音が鍛錬して磨き上げて出来た刀を検分しています。師匠の許しを得て清音が孤児の自分を育て上げてくれた剣術指南役小野田小左衛門のところにその刀を持参すると、小左衛門は娘の笹枝とともに清音が一人前になったと喜び、新刀を携えて行列警護の任につきます。ところが暴漢の襲撃を受け止める際、清音の刀は根元から折れてしまい、その不祥事によって小左衛門は謹慎を命じられてしまいました。そこへやってきた共頭内藤は役職復帰の助勢をする代わりに娘の笹枝を嫁にほしいと望み、毅然とその交換条件を断る小左衛門を怒りにかられて斬り殺してしまったのでした…。

昭和20年2月というと東京大空襲の一ヶ月前で、さすがに映画の製作本数はぐっと少なくなり二本立て番組が月に二度公開される程度になっていました。終戦の年となる昭和20年は、東宝では戦時歌をミュージカル仕立てにした『勝利の日まで』や黒澤明の第二作『続姿三四郎』が、松竹では日本初の長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』が作られていました。そんな中で溝口健二は、上海での日華合同製作映画が頓挫したり芸道ものとして作った『団十郎三代』が不評に終わったりしつつ、日本の映画界を代表する日本映画監督協会の会長の座も戦時統合による解散で失ってしまい不遇をかこっていました。

そんな時期に松竹でマキノ正博が製作を担当して、川口松太郎が脚本を書いた作品を溝口健二が監督することになりました。日本人の精神の象徴でもある日本刀を題材としてその刀鍛冶が日本刀に心をこめるというメインストーリーに、父親を斬り殺された娘がその日本刀で仇討ちを果たすというサブストーリーをからませてあるので、軍人精神を描くとともに銃後の女性を奮闘させるような内容が、当時の内務省の検閲をくぐりぬける要因となったようです。マキノ正博はご存知の通りこの頃は「正博」の字を使っていますが、戦後の東映時代には「雅弘」の字を使うようになります。川口松太郎は溝口とは子供の頃の同級生で、昭和9年の『愛憎峠』ですでに溝口に脚本を提供しています。

主演の花柳章太郎は溝口の『残菊物語』で主人公菊之助を演じた人で、もとは新派の芝居で女形として舞台に立っていました。花柳章太郎が昭和14年に結成した「新生新派」には川口松太郎が加わっていたほか、本作に出演している柳永二郎、伊志井寛、大矢市次郎などもみんなこの「新生新派」のメンバーでした。かたや山田五十鈴は言うまでもなく戦前の溝口作品に欠かせない女優で、『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』など溝口健二の第一次黄金期を演技面から支えていました。本作公開時はちょうど二十八歳を迎える頃ですので、その美貌に磨きがかかった絶頂期の姿を見ることができます。

【ご覧になった後で】低評価のようですが溝口健二スタイルは貫かれています

いかがでしたか?新藤兼人から前作の『宮本武蔵』とともに「この2本はひどい作品」とコケにされている本作ですが、じっくり見てみるとそこそこ溝口健二らしい長回しとフルショットを基本とした構図が貫かれていて、戦時下にもかかわらず映像づくりにおいては当局におもねることなくひとつの作品を作り上げたような感じになっていました。

特に星明かりの道で花柳章太郎が画面左にしゃがみ込んでいると、右側の塀沿いに山田五十鈴が通りかかって再会を果たすというショットは、固定キャメラの構図が通行人の動きで変化しながらも最後に二人が出会うまでを長回しで追っていきます。このスタティックな構図とダイナミックな人物配置が溝口健二スタイルを際立たせていて、なんてことはない場面なのですがちょっと見惚れてしまうような名シーンになっていました。

また戊辰戦争が始まるクライマックスでは、父の仇である内藤を白装束の山田五十鈴が追いかける横移動ショットが炸裂していまして、確か『西鶴一代女』の竹林の場面も左から右だったと思うのですが、ここでも左から右にキャメラが動き、バックの土塀と手前の木々の間を小走りに移動する男女を捉えていきます。その品のある疾走感がまさに溝口健二らしい静かな躍動感に溢れていて、戦時中の映画だということを忘れさせるような出来栄えでした。

見ていて最初に驚かされるのは撮影所のスタジオ内で同時録音された音が非常にクリアなことで、刀匠と弟子の会話が狭い室内に響きながら、刀を床に置く音や衣擦れの音などをリアルに拾っていて、土橋式からスタートした松竹のトーキー技術の進歩が伺えました。ところが音がクリアなのはこの冒頭の場面だけで、道場の場面に移ると俳優の発声の仕方が悪いのか空間が広くて音が拡散するのか、音の質が悪化してしまい、さらに途中には音楽とのバランスが悪くてほとんどセリフが聞こえない場面も出てくるようになっていました。最初に音のきれいさが印象的だっただけに残念な結果でしたね。

本作が低い評価に甘んじているのは、日本刀を作る刀匠が「この刀には心がこもっていない」とかなんとか言って「何を目的に作るのだ」と悩んだ末に「神の国のために」みたいな結論に辿り着くという軍国主義的表現をしているためのようです。実はこの刀匠のセリフがあまりよく聞き取れなくて何を目的とするかを悟る心境が伝わってこなかったせいもあり、「とりあえず肚落ちしたのね」と流して見ていましたので、そこで引っかかるようなところは感じませんでした。しかしまあ、たとえそこで「国のため」みたいな展開だったとしても戦時中の検閲の中で映画を作っているわけですからその程度の圧力は当然かかるでしょうし、別に国のために刀を作る職人がいたってそれはそれでいいような気もします。戦後の平時になってから戦時下の異常な状態での製作内容を一方的に批判するのは、誰にでも無責任にできてしまうことなので、そこで本作の価値を貶めるのはどうかなと思ってしまいますね。(Y012523)

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