黒の報告書(昭和38年)

大映「黒シリーズ」第二弾は殺人事件を巡る検事と弁護士の対決を描きます

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、増村保造監督の『黒の報告書』です。昭和37年7月に公開された『黒の試走車』が好評だったことから大映では「黒の~」というタイトルをつけた作品をシリーズ化していきます。それらの作品群は後に「黒シリーズ」と総称されることになるのですが、本作はその第二弾で、産業スパイを扱った前作とは違って殺人事件を巡って検事と弁護士が対決する社会派ミステリーになっています。昭和38年1月に正月第二弾として封切られたときの併映は市川崑監督版の『雪之丞変化』。このカップリングから見ても当時の日本映画界の迷走ぶりがわかるような気がします。

【ご覧になる前に】新東宝から大映に移籍して二年目の宇津井健が主演です

東京郊外の邸宅で撲殺された男の周りを警察関係者が取り囲んでいます。青銅の壺で殴られ花が撒かれた現場を見た演出家の息子は殺されて当然と吐き捨て、深夜に帰宅した後妻みゆきは夫の死に驚くばかりでした。殺された柿本社長の秘書片岡綾子の取り調べを行った検察官の城戸が、綾子の「犯人はみゆきとその愛人の人見だ」という証言から情実殺人だと見込むと老練な津田刑事が採取した人見の指紋と髪の毛は現場のものと一致しました。経理部長から人見が勤める深町商事に柿本社長が浮貸しの背任行為をしていたという証拠をつかんだ城戸は人見の逮捕令状を次席検事に請求するのですが…。

原作の「華やかな死体」は昭和37年の第8回江戸川乱歩賞受賞作で、作者の佐賀潜は先祖代々佐賀鍋島藩の出で「探せん」という掛け言葉のペンネームを使用していました。佐賀潜はもとは地方検察庁で検事を十年間務めた人で、弁護士に転身した後に小説の執筆を始めて「華やかな死体」以降人気作家となりました。特に光文社のカッパブックスから出版された「民法入門」「刑法入門」などの法律入門書はベストセラーになり、TVのワイドショーにも出演していたそうです。残念ながら昭和45年に六十一歳で胃癌のため亡くなりました。

昭和37年というと東京オリンピックの開催を二年後に控えTVの受信契約数が前年比3割増を超えていた時期。TVの台頭に対して日本映画界では専属俳優の他社出演を禁じる「五社協定」を強化しようというトンチンカンな対応策に躍起になり、大映が山本富士子との間で結んだ年間二作品大映以外の他社作品に出演してよいという契約条件がやり玉にあがり、今後はスター俳優の貸し借りをしないという申し合わせが交わされたのでした。

そんな中で梶山季之の原作を映画化した『黒の試走車』は大映専属の田宮二郎が主演してそこそこのヒットとなり、大映は産業スパイを扱った社会派ミステリーという分野で二匹目のドジョウを狙ったんでしょう。江戸川乱歩賞を受賞して注目されていた佐賀潜の原作の映画化にあたって「華やかな死体」からは「黒」のイメージは全くないにもかかわらず、映画題名を『黒の報告書』とすることでTVに流れていく観客の興味を引こうという意図だったのかもしれません。

五社協定を強化する立場の大映としては専属俳優を主演させることは絶対条件だったはずで、白羽の矢が立ったのは宇津井健でした。早稲田大学を中退して俳優座養成所に入った宇津井健は、馬術部に所属していたため裸馬を乗りこなすことができたため新東宝の映画に出演する機会を得ます。同期の仲代達矢や佐藤慶から羨ましがられたそうで、そのまま新東宝に入社した宇津井健は若手スターとして「スーパージャイアンツシリーズ」などの主演をつとめるようになりました。

新東宝が倒産してしまったために昭和36年大映に移籍することになった宇津井健は、市川雷蔵主演の時代劇では脇役に回るなど大映京都撮影所では厚遇されていなかったようです。一方大映東京撮影所では叶順子との共演作で主役を張るようになり、本作は大映移籍二年目にして初めて本格的な一枚看板での出演となり、宇津井健としても力の入った作品だったのではないでしょうか。本作の好演が評価されたのか宇津井健は『黒の死球』『黒の商標』『黒の切り札』で主演に起用され「黒シリーズ」に合計4本出演することになります。

増村保造は『黒の試走車』に続いて監督したものの、次に「黒シリーズ」を監督するのはシリーズ最終第11作の『黒の超特急』ですから、特に「黒シリーズ」に思い入れがあったわけではなかったんでしょう。昭和32年に『くちづけ』で監督に昇格した増村保造は毎年3~4本の作品をきっちり作り続けていて、大映東京撮影所のローテーションの柱として安定した仕事をこなしていました。そのローテーションは大映が倒産する昭和46年まで崩れることなく継続されましたので、助監督として大映に入社した後にイタリアに留学してフェリーニやヴィスコンティから映画演出を学ぶ機会を与えられたことに恩義を感じていたのかもしれません。根拠はありませんけど。

脚色を担当した石松愛弘は東宝入社が決まっていたものの「肺に影がある」と疑われて入社を取り消され、代わりに大映を紹介してもらったという経緯をもつ脚本家。『黒の試走車』に続いての起用で、共同名義ですが『黒の駐車場』『黒の挑戦者』の脚本にも参加しています。特筆すべきは増村保造と共同で『ある殺し屋』(森一生監督)のシナリオを書いたことでしょうか。

キャメラマンの中川芳久も倒産するまで大映東京撮影所でキャメラを回し続けた人。市川崑監督の『処刑の部屋』や井上梅次監督の『黒蜥蜴』あたりが代表作でしょうか。音楽の池野成は伊福部昭先生に師事した音楽家で、本作前後からは大映の作品に多くの楽曲を提供し続けています。打楽器や民族音楽に精通していたそうで、本作でも不安感を醸成するような旋律を聞くことができます。

【ご覧になった後で】力作ですが宇津井健演じる検事の甘さが気になります

いかがでしたか?原作を書いた佐賀潜は検事も弁護士も両方経験した人ですので、事件の発生から起訴、裁判に至るプロセスを十二分に知悉していたんでしょう、非常にリアリティのある描写が盛り込まれていて、石松愛弘の脚本にも原作の良さが活かされていました。映画では殺人事件が起きるとまず捜査を指揮するのは殺人課の刑事というように描かれますけど、重大な事案が発生した際には検察官や検察事務官が自ら現場に赴いて状況を確認したり警察の捜査方針を協議したりする「臨場」を行うんだそうです。警察の捜査と並行して起訴を見据えた補充捜査を依頼することもでき、さらには自ら犯罪捜査を行う独自捜査権も持っているということですから、事件発生直後から宇津井健の検察官が活躍し過ぎのように見えたのは普通の刑事ものに慣れた誤解だったわけで、全部リアルな捜査現場を反映していたのでした。

本作の面白いところは映画のファーストショットですでに殺人が行われたことが明かされて、その事件現場から物語が始まる構成にありました。事件を現場から紐解いていく過程が丁寧に描かれ、現場鑑識や実況見分から始まって事情聴取や被疑者の取り調べ、聞き込み捜査などを経て起訴に至る前半は、息もつかせない緊迫感がありました。裁判に入ってからは小沢栄太郎演じる老獪な弁護士による証拠潰しとともに人定質問・起訴状朗読・罪状認否から冒頭陳述・証人尋問・論告求刑・最終弁論を経て判決宣告に至るプロセスが時系列できれいに整理されていました。なので本作は犯罪映画と言うよりは事件発生から捜査・裁判を描いた社会劇という側面が強く、佐賀潜が得意としていた法律入門書のように殺人事件がどのように収斂していくのかを観客にわかりやすく教えてあげるような作り方になっていたと思います。

そう考えるともしかしたらドキュメンタリータッチで事件と関係者を突き放した描き方の方がフィットしたのかもしれませんが、なにしろTVに流されていく観客の興味を毎週引きつけなければならない当時の映画会社としては、ドキュメンタリー的では商売になりません。エモーショナルに訴えストーリーをドラマチックに盛り上げるかを競っていた状況では、石松愛弘の脚本も増村保造も演出も登場人物を感情的に描くしかなかったんでしょう。結果的にそれが本作の欠点に直結していたと思われます。

すなわち宇津井健演じる検察官は臨場の段階から予断を持ち過ぎに見えてしまい、事情聴取を行った秘書の叶順子に心情移入し過ぎです。検察官が事件関係者の自宅にあがって「困っているなら手を貸そうか」なんて言うはずないと思いますけど、結局宇津井健と叶順子の間で恋愛感情をほのめかさないと観客が満足しないんじゃないかという余計なお節介が前面に出ていました。観客はそんなつまらないことよりももっと検察官に多角的かつ科学的に捜査に踏み込んでほしいわかですし、堅牢に組み立てた証拠を弁護士がどのように崩していくか、その手練手管を見たいわけです。本作の宇津井健では簡単に小沢栄太郎に篭絡されてしまうのが歯がゆくてしようがないですよね。もっとしっかりせんかいと叱りつけたくなります。

宇津井健が殿山泰司のアドバイスを無視して叶順子の取り調べを一度きりにしてしまったことも軽率でしたし、終盤で人見が血を洗い流す現場を見たと証言する電気店主も、現場周辺の聞き込み捜査や人見に関係する人物をしらみつぶしに当たっていけば絶対に浮かんできたはずです。「じゃあ言うか」みたいな善意がなければ真実は明らかにならなかったわけで、宇津井健の捜査では本当に事件の真実に迫っているのかどうか疑わしくなってしまいます。実際に秘書の叶順子が調書の発言を覆して「社長にレイプされて憎んでいた」と法廷で証言する場面では、やっぱり愛しているなんて嘘だったんだなとも受け取ってしまい、小沢栄太郎の策略だということがダイレクトに伝わらなくなっていました。

殿山泰司演じる足で稼ぐタイプの昔気質の刑事を頼りにする宇津井健を見ていると、序盤で「情実ではなくカネでは?」と疑問を投げかける警察上司の中條静夫の勘の方が当たっているように思えますし、裁判で小沢栄太郎の弁護士がなぜ凶器の壺に指紋がひとつしかないのかと疑問を呈する点にもうまく反証できていません。裁判の結果、無罪判決になるのを宇津井健とともに観客は受け止めなければならないので、なんとも歯がゆい展開になっていました。

というわけで観客におもねるあまり結果的に観客の共感を得られない描き方になっていたのは残念でしたが、増村保造の映像演出はいつものシュアなスタイルが光っていました。シネマスコープの横長画角を最大限に活用して、基本的にはフィックスでスタティックなショットを連続させ、左右あるいは真ん中を埋めるという構図で不安感の醸成が通底していました。画面の左で二人を会話させて右半分は扉のアップだけとか画面の真ん中に人物の背中を置いて空いた空間に対話者の顔を入れるとか、どの人物を信用すればいいのかわからないというような観客の気持ちを一定にさせない効果が出ていたと思います。

その不安な構図を長回しで見せるようなことも他の作品でやっていたと思いますが、本作はショットの短さが際立っていて、1ショット平均秒数は5秒にも満たないのではないでしょうか。これも観客を登場人物に近づけさせない効果があり、叶順子も後妻役の近藤美恵子も得体のしれない女性に映っていましたし、経理部長の潮万太郎なんかもウソは言っていないのにもしかしたらこの人が会社の金を着服したのを社長の罪にしようとしているんでは?と疑ってしまいました。まあこの映像演出が結果的には宇津井健の頼りなさを強調することにもつながっていたので、作品的には力作ではあるけれどもちょっと残念というレベルだったと思います。

昭和38年公開の映画として見ると、登場人物ほぼ全員がタバコ吸っていて「私はこれよ」みたいにタバコの銘柄がアリバイになるくらい喫煙率が高かったのにはあらためて驚いてしまいましたし、「あんな嫁さんじゃ愛人を作るのは当たり前」とか「浮気は慣れてますから」とか「バーに勤めるしかないでしょ」とか男尊女卑の考え方が常識のように描かれていたのもびっくりでした。おまけに宇津井健は東京検察庁への異動が取り消されて赴任先が青森に変わり、「2~3年で戻してやるから」といかにも左遷というか都落ち的に扱われていて、この映画を見た青森の人たちは一体どんな気持ちになったんだろうと余計な心配をしてしまいました。まあ現在的にもTVドラマで地方やインフラ系職業が蔑視されていたりするので、エンタメ界の常識は非常識であるというのは変わっていないのかもしれませんけど。(A032326)

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