花咲く港(昭和18年)

木下恵介の監督デビュー作は戦時下にもかかわらずペテン師二人が主人公です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、木下恵介監督の『花咲く港』です。松竹で島津保次郎のもとで助監督をしていた木下恵介は本作で初めてメガホンをとることになり、同時に木下作品のほとんどでキャメラを回すことになる楠田浩之もこの作品で撮影助手から撮影技師に昇格を果たしました。戦時下の昭和18年に公開されているわりには、小沢栄太郎と上原謙が演じる主人公二人はペテン師で、九州近海の島民たちをだまして金儲けをしようとするお話になっています。

【ご覧になる前に】戦後東宝演劇部を主導した菊田一夫の舞台劇の映画化です

ヤシの木が茂る九州近海の島では村長が網元の林田や旅館主のおかの、馬運業社長野羽玉たちを集めて二通の電報について話し合っています。鹿児島と長崎からうたれた電報はともにかつて島で造船場づくりに挑んだ恩人の遺児からで、今日島に到着することを予告する内容でした。村長以下が船で到着した丸眼鏡をかけた男を迎え、旅館の部屋で造船場の思い出話をしていると、そこにもうひとり遺児を名乗る帽子の男が現れました。困惑する村長らの前で丸眼鏡の男は、実は我々は兄弟で別の船で着いたのだと説明するのでしたが…。

原作に菊田一夫とクレジットされているように本作は舞台劇を映画化したもので、古川ロッパが旗揚げした劇団「笑の王国」の座付き作家となった菊田一夫が台本を書き、ロッパによって舞台で上演されました。映画として脚色したのは津路嘉郎で、松竹大船撮影所で昭和30年代半ばくらいまで脚本を書いていた人。戦後になると菊田一夫は古関裕而とのコンビでラジオドラマや歌謡曲を次々にヒットさせ東宝の演劇担当役員に迎えられます。ブロードウェイミュージカルの上演権を獲得したり、「がめつい奴」など大阪ものの演劇を舞台化したりして、東宝演劇部を主導していきましたが、昭和48年に六十六歳で亡くなりました。その功績から現在でも大衆演劇で優れた業績を残した演劇人には菊田一夫演劇賞が授与されています。

木下恵介は浜松の有名な漬物屋の跡取り息子でしたが、どうしても映画の世界に入りたくて母親の伝手でなんとか松竹蒲田撮影所の現像部に入り込みます。撮影部に異動してからは助手としての働きぶりが島津保次郎監督の目に留まり、異例ながら助監督に引き上げられ島津保次郎や吉村公三郎の監督作品につくようになりました。昭和15年の召集されて中国戦線に送られますが負傷して帰還。大船撮影所に復帰した木下恵介は監督に昇進してこの『花咲く港』を発表、同じ年に東宝で公開された黒澤明の『姿三四郎』とともに新人監督に贈られていた山中貞雄賞をふたりで分け合ったのでした。

キャメラマンの楠田浩之は本作で撮影技師に昇格して、以降木下恵介の作品でずっとキャメラを回し続けることになります。本作の翌年には木下恵介の実妹と結婚しますので、楠田浩之にとって木下恵介は義兄になるわけですね。また編集には杉原よしの名前もあり、木下恵介は第一回監督作品から後の木下組と言われるスタッフに支えられていたのでした。

主人公のペテン師を演じるのは小沢栄太郎と上原謙。その上原謙が親しくなる島の娘を水戸光子が演じています。小沢栄太郎と水戸光子は木下恵介が昭和23年に撮る『女』で全編ほぼ二人だけの芝居をすることになる組み合わせですが、本作の中ではほとんどからみはありません。脇も松竹のおなじみの坂本武、笠智衆をはじめ、演劇界からは東野栄治郎、東山千栄子、村瀬幸子が顔を揃え、若き日の大坂志郎も見ることができます。

で、水戸光子ですが、昭和14年に吉村公三郎が撮った『暖流』で高峰三枝子とのダブル主演に抜擢されて大船撮影所のスターのひとりになっていた当時のアイドル的女優さんでした。本作の前年、大庭秀雄監督の『風薫る庭』に出演した水戸光子は助監督としてついていた小林正樹を知ります。小林正樹は当時はまだ田中絹代の従弟にあたるという姻戚関係を隠していた時期でしたが、監督に奴隷のようにこき使われる助監督業に悩みつつも戦争が始まりまもなく出征することになるという時期でした。あるとき小林正樹は水戸光子の楽屋部屋に誘われ、当時は超貴重品だった虎屋の羊羹をご馳走になります。そして小林正樹に赤紙が届きいよいよ召集されると決まったとき、出征前夜にふたりは銀座で落ちあい、小林正樹は自分で掘った篆刻を、水戸光子は手編みのベスト(小林正樹は「グレーのチョッキ」と言っていますけど)を互いにプレゼントし合ったのでした。

そんな淡い恋の一場面があった翌年に本作は撮影されていますから、たぶんこの頃の水戸光子の心の中には小林正樹への思いが渦巻いていたに違いありません。初年兵訓練が終わって一時帰郷が許された小林正樹はその旨を水戸光子に手紙を出していました。そしてなんと実家に戻った小林正樹のところに本当に水戸光子が訪ねてきて、ほんの数時間一緒のときを過ごしたんだそうです。水戸光子は松竹のスターの立場にあり、助監督との結婚などふたりとも現実になるとは思っていなかったのでしょう。小林正樹はその後ソ連国境の警備軍務に就き、宮古島に送られて終戦を迎えます。宮古島に届いた新聞で小林正樹は水戸光子が森川信と結婚したことを知り、大切に持っていたグレーのチョッキと水戸光子からの手紙を焼いてしまいました。水戸光子の結婚はうまく行かずすぐに離婚してしまいましたし、小林正樹は戦後大船撮影所に復帰して木下組の助監督になって別の女優さんと結婚しましたので、水戸光子と小林正樹の恋愛は実らないまま終わったのでした。

【ご覧になった後で】黒澤明とは全く対照的で木下恵介らしさが溢れてました

いかがでしたか?同じ昭和18年3月に公開された黒澤明の『姿三四郎』とは何から何まですべてにおいて対照的でしたね。主人公はヒーローではなくペテン師ですし、展開は風雲急を告げることもなくのんびり進みますし、スローモーションのような技巧は使われずにほとんどオーソドックスなカッティングに終始した木下恵介らしい作品でした。映像的な工夫がされていたとすれば、船着き場に出迎えに行く馬車がトンネルに入ると東山千栄子のペナンでの思い出が車窓に見えてくるというスクリーンプロセスくらいだったでしょうか。もちろん木下恵介らしさにはクライマックスの暴風雨のシークエンスも含まれるわけで、ホームドラマ調のコメディがにわかにドラマティックに盛り上がるところは『女』での熱海の火事を思い起こさせるようでした。

戦時下といえば映画法の統制によって軍国主義礼賛映画ばかりが映画館で上映されていたように思ってしまいますが、当時の内務省の検閲を通過してフィルム使用の許可が下りたものはすべてが日本の軍隊が活躍する戦意高揚ものばかりではありませんでした。この『花咲く港』も結果的にはペテン師たちによって島民たちがなけなしの財産を投げ出して株主となって造船会社を創設し、小さな木造船を作ることによってお国のために貢献しているというこじつけをすることによって、普通に楽しめる喜劇なのになんとか検閲を通過したようです。東宝はあえて軍部にすり寄ることで陸軍や海軍に撮影協力してもらった戦争ものを製作しましたが、松竹は城戸四郎の方針によってホームドラマへのこだわりを捨てていませんでしたから、表向きだけ国民総動員的な装いにして、実際は軽喜劇的な本作を作り上げたものと思われます。

昭和18年には約70本ほどの新作が映画館で公開されていまして、日本映画データベースを見るとそのうち松竹は18本となっています。当時戦時統制によって映画製作は東宝、松竹、大映の三社に統合され、配給は一社にまとめられて全国の映画館は「紅系」「白系」の二系統で三社の作品を上映していました。よって松竹作品は「紅系」「白系」それぞれで上映されたとしても月に一本以下だったことになります。その中には『サヨンの鐘』のような台湾・満州との合同作品もありましたけど、題名だけみると『湖畔の別れ』『ふるさとの風』『家に三男二女あり』『むすめ』『をぢさん』『母の記念日』などといったホームドラマ調の映画が大半を占めています。戦時下の映画とはいっても飛行機や戦車や兵隊が出てくる映画ばかりだったわけではなく、この『花咲く港』のような庶民を描いた普通の喜劇も健在だったんですね。

そんな喜劇を第一回監督作品にできたのは木下恵介のその後のキャリアを考えるとやや運命的なものを感じざるを得ませんが、本作では小沢栄太郎と上原謙の二人を凸凹コンビ風に描きながら、島の有力者たちがまったく邪念なくペテン師を造船会社重役として丁重に扱う姿が次第にペテン師たちを追い込んでいく皮肉をテンポよく表現していました。その点では東野栄治郎や村瀬幸子ら脇役の演技の確かさに支えられた面もあったかもしれません。

そして小林正樹の行方も生死もわからなくなっていたという時期にあたっていたのではないかと想像されることもあって、水戸光子がどことなく寂しげに見えるのは前述した悲恋物語を知ってしまったからでしょうか。少なくとも森川信と離婚した後に出演した『女』の水戸光子とは決定的に違うはかなさが本作の水戸光子には感じられるのでした。(U082623)

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