宇宙人東京に現わる(昭和31年)

日本映画初の本格的カラー特撮映画でスタンダードサイズ時代の大映作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、島耕二監督の『宇宙人東京に現わる』です。昭和31年といえば東宝の『ゴジラ』が公開されたわずか二年後で、その時期に「宇宙人」をモチーフにしたSF映画が製作されていたことは驚きに値します。また大映が『地獄門』で日本初のイーストマンカラー作品を作り時代劇の衣裳を豪華絢爛な総天然色で映像化してから三年後に、予算がかかるカラーフィルムでSF映画を作ったことも当時としては画期的だったのではないでしょうか。その割に日本映画史的にはあまりスポットが当たらない不運な作品でもあります。

【ご覧になる前に】「色彩指導」の岡本太郎が宇宙人のデザインをしています

井の頭線の電車から降りた小村教授は土砂降りの雨の中を知り合いの新聞記者の傘に入れてもらい、駅前にある宇宙軒という飲み屋に入ります。天文台に勤める天文学者の小村教授に新聞記者は最近世間を賑わせている宇宙船飛来について問い詰めますが小村教授は口を閉ざしたまま何も答えてくれません。天文台では助手の磯辺が大型望遠鏡で観測していると、地球に向けて飛行物体が発射されるのを見つけます。磯辺が小村教授の自宅に報告に行くと、近隣の住民たちも夜空にいくつもの光が地上に落ちていくのを見上げるのでしたが…。

アメリカ映画界では1950年にSFブームの口火が切られ『月世界征服』や『火星探検』など他の星へ訪れるパターンの映画が作られました。1951年の『地球最後の日』は天体が地球に衝突するという終末論的なSFでしたが、1953年にはジョージ・パル製作の『宇宙戦争』が封切られ、宇宙人が地球を攻撃するという災害型のSF映画が作られるようになります。それ以降未知の生物に襲われるという映画がひとつのジャンルのようになり、さまざまなパターンを生み出すようになっていきました。

SF映画を作るとなると特殊撮影技術や大規模な室内セット撮影が求められるので日本映画ではなかなか実現されませんでしたが、水爆実験で第五福竜丸が被爆した事件に触発されて原爆が怪獣を生み出す『ゴジラ』が生み出されました。以降、日本映画におけるSF映画は怪獣映画に代表されるわけですが、怪獣映画で洗練された特撮技術を使ったSF特撮映画も次々に作られるようになります。『ゴジラ』を製作した円谷英二が常にその最先端にいて『電送人間』や『ガス人間第一号』など怪獣も宇宙人も出ないSF映画が製作されるようになります。

『電送人間』は昭和35年製作で東宝のSF特撮シリーズの走りとも言える作品ですので、日本映画のSFものは昭和30年代半ば以降に多く登場することになります。しかし『ゴジラ』製作のわずか二年後に、オールカラーで撮影されたのがこの『宇宙人東京に現わる』で、タイトルの通り怪獣ものではなく宇宙人が登場する宇宙人SFものです。昭和31年ですからまだカラー映画はほんのわずかしかなく、大映で初のイーストマンカラー映画が作られたのは昭和28年の『地獄門』で、その三年後に貴重なカラーフィルムを本作のような一見低級なSFものに投じたのは非常にチャレンジャブルなことだったと思われます。

監督の島耕二は戦前には『風の又三郎』や『次郎物語』などジュブナイルものを撮っていた人で、戦後は大映から東横映画、新東宝と移ってまた大映に戻りつつ、さまざまなジャンルの映画を器用に送り出しました。脚本はシナリオライターの大御所である小国英雄。この人もめちゃくちゃたくさんの脚本作品を書いているのでなんで本作のようなSFを書いたのかとも思うのですが、黒澤明の『生きものの記録』を書いた翌年に本作に取り組んだという流れは納得する点があります。

特殊技術は的場徹が担当していて、的場徹は円谷プロに誘われてTVの「ウルトラQ」以降のウルトラシリーズの特技監督として腕を奮った人。「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」のクレジットでよく「的場徹」の文字を目にしたので、円谷英二と同じ東宝出身の人かと思えば全く違っていて、もともとは日活多摩川撮影所に入社して戦時統制で設立された大映で特殊技術を担当していたのでした。本作のほかには『鯨神』などでその特撮技術を見ることができますが、東宝の怪獣映画とは違って大映では作画合成や光学合成などを巧みに本編の中に混ぜて使う技法が重用されていました。なので的場徹は東宝の円谷英二路線をライバル視していて、「ウルトラQ」で円谷プロに入ったときには複雑な心境だったようです。

本作に登場する宇宙人は「芸術は爆発だ!」で有名な芸術家岡本太郎のデザインによるもの。クレジットでは「色彩指導」となっていて、映画のタイトルが始まる前に画面いっぱいに赤い液体がぶちまけられるのもたぶん岡本太郎の指導によるイメージなんだと思います。岡本太郎だと思って見るのと、そうでないのとでは宇宙人のデザインの印象が違ってきますので、ご覧になる前に岡本太郎デザインだというのはネタバレかもしれませんけど、いかにも岡本太郎的なデザインだと思って見たほうがちょっとお得な感じがすると思います。

【ご覧になった後で】セットの関係ですが天文台だけでは世界が狭過ぎました

いかがでしたか?昭和31年にこんな本格的カラーSF映画があったことはまず最大限に評価すべきでしょうね。原案は中島源太郎という人のもので昭和31年に大映に入社したと経歴には書かれてありますので本作のアイディアはもしかしたら入社前のものだったのかもしれません。この中島源太郎、昭和44年には自由民主党公認で衆議院議員に当選しまして、昭和62年には竹下内閣で文部大臣を務めることになるのです。大臣で映画の原案を作ったことがあるのは、この人だけだったんではないでしょうか。

小国英雄が書いた脚本は、友好的な宇宙人が天体Rの地球衝突を予告し、地球上の原水爆を集めてRの衝突を阻止するよう進言するというものでした。おりしも本作製作前年には原水爆禁止日本協議会が設立されたばかりの時期で、第一回原水爆禁止世界大会が昭和30年8月に広島で開催されていました。本作は昭和31年1月公開ですから、たぶんこの原水禁の動きを受けて、宇宙人に原水禁運動を指導してもらう映画を作ろうという機運になったのではないかと思われます。

そんなわけで岡本太郎デザインのヒトデ型宇宙生物は「パイラ」とネーミングされて登場しますけど、出てくるのは前半途中までで、中盤以降は人間に身をやつして側面から天体Rとの衝突阻止をサポートします。ヒトデ型のデザインはいかにも中に入っている人が大の字に手足を拡げて立っているのはミエミエで、ちょっと笑ってしまうのですが、真ん中の目のデザインはまさに岡本太郎的で、円型蛍光灯をそのまま利用したという安普請ながら目立っていました。

でもカラーフィルムにしたことで予算を使い果たしたのか、宇宙人との接点や天体R対策を日本の天文台だけで描写するのはちょっと無理がありました。後の東宝特撮シリーズでは必ずTV放映で世界各国の危機を伝える場面が挿入されますが、本作製作時には外国人を手配するのも難しかったんでしょうか。宇宙人を発見するのも天文台ですし、天体Rはたしかに大きいことは大きいですが普通の望遠鏡で日本の天文台しか観測できないなんてのも世界が狭過ぎますよね。なぜか集められた子供たちが暑がったり解放されたりと象徴的に使われていて、ちょっと可哀想に感じてしまいました。

俳優はみなさん地味めだったので特記することもないですが、パイラ人が人間に化けている設定の刈田とよみという女優は本作が映画初出演で翌年に2本ほど大映で出演作があるだけでキャリアが終わっています。それでもスター女優として舞台でミュージカルを踊っているという設定でしたので、ショーの場面はタップダンスなんかもまじえてなかなか見どころがありました。でもまあそんなところにお金をかけるなら、もうちょっと天文台以外の場面転換を重視してほしかったですね。(U031824)

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