ミネソタの娘(1947年)

ロレッタ・ヤングがアカデミー主演女優賞を受賞した良質な政治風刺劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、H・C・ポッター監督の『ミネソタの娘』です。エストニア出身の作家ヘラ・ウォリヨキが書いた戯曲をRKOが映画化しました。主人公ケイティを代役で演じることになったロレッタ・ヤングは本作で見事にアカデミー賞主演女優賞を獲得。執事役のチャールズ・ピックフォードも受賞はなりませんでしたが助演男優賞の候補になりました。

【ご覧になる前に】監督のH・C・ポッターは映画よりも舞台で成功した人

壁一面に絵が描かれた納屋のある農場ではスウェーデン移民の父親が州都に出ていく娘ケイティに長々注意を与えています。両親と三人の兄に見送られて馴染みの医者の車でバス停に着いたケイティに声をかけたのは納屋の絵を完成させたばかりのアドルフ。バス代が浮くといって車にケイティを誘ったアドルフでしたが、モーテルで事故を起こしてしまい損害金と修理代をケイティに支払わせて行方をくらませます。ヒッチハイクで街に到着したケイティはアドルフを見つけ出して借金を返すよう要求するのですが…。

イェール大学を失業してロングアイランドで劇団を設立したH・C・ポッターは1935年にハリウッドに渡って、アステア&ロジャースの『カッスル夫妻』などを監督しました。その後はMGMやRKO、ユナイテッドアーティスツなどと契約を結んで活動していましたが、傑作といえる作品を残すことはできませんでした。しかしながら1950年代にブロードウェイの仕事に復帰すると人気の舞台を連発。映画界ではなく舞台で成功した演出家として知られています。

原作者のヘラ・ウォリヨキはエストニアのヴァルガに19世紀末に生まれた作家で、本作が映画化されたっときにはフィンランド国営放送局のゼネラルマネージャーをつとめていました。脚色したアレン・リフキンは1930年代からシナリオを書いていた人で、どちらかといえばB級のプログラムピクチャーを専門にしていたようです。1940年代後半にローラ・カーと結婚して共同で脚本を書くようになり、本作は夫婦ふたりの共同脚本作の一本です。

主人公ケイティを演じたロレッタ・ヤングは1927年に映画デビューを果たしたベテラン女優で本作出演時には三十四歳になっていました。これといった代表作もないロレッタ・ヤングは本作ではじめてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされます。当時すでに「オスカー・ダービー」と言われる受賞者予想がさかんに行われていて主演女優賞はロザリンド・ラッセルが絶対的に本命視されていました。授賞式の当日にプレゼンターのフレドリック・マーチが封筒を開こうとしたときにロザリンドはステージにあがるために席を立ちかけていたほどだったそうです。しかしマーチが読み上げたのは「オスカー・ダービー」で最下位だったロレッタ・ヤングで、マイクの前に立ったロレッタは「やっとのことで…」と口にするのが精一杯でした。

ロレッタ・ヤングが最下位だと予想されていたのは、コメディ演技でオスカーを獲得したのが『或る夜の出来事』のクローデット・コルベールしかいなかったこともありましたが、本命のロザリンド・ラッセルは授賞式後のパーティでロレッタ・ヤングのもとに歩み寄って互いに抱き合って祝福したんだとか。ラッセルは1958年に『メイム叔母さん』で四度目のノミネートされたものの結局オスカーを受賞することは叶いませんでした。

本作の映画化権を獲得したのはデヴィッド・O・セルズニックで、当初ケイティ役にはイングリッド・バーグマンをあてることになっていました。バーグマンをスウェーデンからハリウッドに招いたのはセルズニックでしたし、ケイティがスウェーデン移民の娘だというのもたぶんバーグマンを主演にするための設定だったのかもしれません。しかしバーグマンに出演を断られたため結果的にセルズニックはRKOに権利を売却することになりました。映画の冒頭に「A Selznic Release」というクレジットが出てくるのはその名残りなんでしょうね。

イングリッド・バーグマンがロベルト・ロッセリーニと不倫関係に走ったことはハリウッドの一大スキャンダルに発展したわけですが、実はロレッタ・ヤングもクラーク・ゲーブルと男女の関係になって女の子を出産したことを晩年に記した自伝の中で告白しています。敬虔なカトリック教徒だったロレッタは中絶することなく出産した娘を世間には養女ということにして育て上げたんだそうです。ハリウッドって不倫関係だらけだったんでしょうかね。

【ご覧になった後で】古き良きアメリカが偲ばれるウェルメイドな映画です

いかがでしたか?田舎の農家出身の娘が州都でひょんなことから下院議員に選出されるというシンデレラストーリーであると同時に、一般市民にとって政治が身近な存在であり誰もが民主主義の理想を共有しているような古き良き時代のアメリカが偲ばれる非常に良質な政治風刺劇でありコメディであり恋愛ドラマでもありました。H・C・ポッターの演出は特にこれといった特徴はないものの俳優の自然な演技を引き出すナチュラルな感じが作品全体の品の良さにつながっていましたし、何よりも脚本の出来の良さが本作の魅力を牽引していたと思います。

ケイティが州都に着いたときの街の光景の中に投票所が自然と組み込まれていて、ケイティが家政婦として入るモーリー家では当たり前のように議会の出来事が会話のネタになっています。会話を聞きかじった農家出身のケイティはごく普通に政治の話に口をはさみ、後半では補欠選挙の候補について学校への牛乳補助金を廃止したことをしっかりと指摘します。このように本作では普通の市民が普通に政治意識を持っていることを当然のこととして描いていて、当時は日常生活の中に政治が自然と根付いていたんだなということがわかります。しかも登場人物が敵対することなく民主主義のもとに政治活動に参画していて、ケイティの対立候補フィンリーは白人至上主義の正体をあらわした途端に徹底的に悪人として糾弾されますので、作品の基本スタンスが明らかに民主主義の理想のうえに立っているのでした。

それは本作が1947年3月に公開されたという時期に大いに関係するものと思われ、というのも同年9月にピンク色の紙切れが映画人19名のもとに届けられたのがハリウッドにおける「赤狩り」の発端だったからです。そこには10月にワシントンで開かれる下院の非米活動委員会に出頭して証言するよう書かれていて、1954年にマッカーシー上院議員に不信任が突きつけられるまでハリウッドは赤狩りの嵐にさらされたのでした。政治を扱った映画としては1949年に公開されてアカデミー賞作品賞に輝いた『オール・ザ・キングスメン』がありますが、知事選のドロドロの末に暗殺事件で幕を閉じる『オール・ザ・キングスメン』に比べてこの『ミネソタの娘』のなんと明朗で陽気なことでしょうか。民主主義のあり方に対してまったく正反対な描き方がされたのも、「赤狩り」の前なのか後なのかで世相が大きく変化したからではないかったでしょうか。

そんな時代的背景はともかくとして、本作の要はやっぱりロレッタ・ヤング演じる主人公のキャラクターそのものでした。看護師を目指して州都に出てきたのに看板描きのアドルフに有り金をはたかれて政治家のモーリー家に家政婦になるという序盤は、次々に変化するシチュエーションを持ち前の明るさと柔軟性で乗り切っていくケイティが頼もしく思えます。政治に口を出したり自動昇降機を勝手に作動させたりするのも表裏のない性格の良さを伝えるエピソードになっていて嫌味がありません。ジョゼフ・コットン演じる議員のグレンに惹かれていく恋心もごく自然と表現されるので、観客は母親を演じるエセル・バリモアとともに二人の恋を後押ししたい気持ちにさせられます。

そしてケイティと議員親子の間に入ってスパイスを効かせる執事のチャールズ・ピックフォードがいい味を出してますよね。制服を12着も作ってもらって自分は青のサージ服だけだと嘆いてみせた次の場面ではベージュの上着を新調した姿になっていて、物語にフェアさを与える第三者的なバランサー役をつとめていました。ジョゼフ・コットンがケイティの前では部屋着のガウンをおしゃれなシルクのものに替えるなど服をモチーフにした心情表現が冴えていました。

その中で白眉だったのがチャールズ・ピックフォードがロレッタ・ヤングに亡き主人の演説原稿を読ませる場面でした。二階に現れたエセル・バリモアがその演説の訴求力に耳を澄ますところが後半の伏線につながるのですが、ここでH・C・ポッターは取って置きのドリーショットを使うのです。実は農場の納屋の壁面を映したファーストショットもクレーンを使った移動ショットでそれも絵描きが選挙戦で買収される展開を暗示していたのですが、演説シーンの移動ショットはよりエモーショナルで、ケイティに聴衆を惹きつける力があるのだと深く印象づけることができていましたし、政党に影響力をもつ母親がケイティの味方をするだろうことを予感させていました。

良い脚本と良い俳優に恵まれて本作は良質な政治風刺劇に仕上がったのですが、残念ながら後半の選挙戦に入るとややご都合主義的な展開が目立つようになりました。演説会でケイティがフィンリーをやりこめるあたりはちょっと出しゃばり過ぎの感じですし、たった一度の質問だけで対抗馬として候補者にさせられるのはどう考えても無理があります。途中で大学に通って政治の勉強をしている場面が出てきましたので、そこをもう少し深堀りしていたら突飛な感じを防げたかもしれません。

ケイティが対抗馬になったせいでジョゼフ・コットンの心情の変化が複雑化したことも後半失速の要因のひとつでしたし、母親の決断で最後に政党が支持する候補をフィンリーからケイティに鞍替えする安易な展開は選挙権をもつ市民側からみれば選択肢が狭められてしまうというマイナス面を無視する結果になっただけに、理想の民主主義を描くには不適切だったと思われます。湖畔の別荘で兄たちがアドルフ争奪戦を繰り広げるのもジョン・フォード作品の酒場の殴り合いほどの効果はなく、本作のテーストに合っていなかったような気がします。

それにしても農家の娘が政党の候補者として下院議員に立候補とするのも、政党に影響力をもつキーパーソンが亡くなった議員の妻であるというのもアメリカにおいて政治に女性が深く関わっていたことの証左でもありました。女性活躍がごく当たり前のように描かれていることも本作のナチュラルさに通ずるものがあって、古き良きアメリカを偲ばせるという印象はそんなところから来ているのかもしれません。

ちなみに映画史的にはロレッタ・ヤングのオスカー受賞以外に注目されることのない本作ではありますが、植草甚一氏が本作のことを「とても面白い、イキのいい映画」だと褒めていたのが鑑賞の動機だったのでした。しかも植草氏が双葉十三郎先生に訊くと「定石ばかりやたらに使っているね」とコメントされ、淀川長治さんからは「定石だけれど使い方が綺麗なんです」と返されて目を開かされたと書いていて、確かに巧くできた脚本というのは定石の使い方が巧いのかなと思います。現在のアメリカで政治を扱ったら本作のような「古き良き民主主義の理想」はとても描くことはできないでしょうから、ある意味で懐かしさと同時に寂しさも感じさせるのはとても残念なことですよね。(A110426)

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