井原西鶴の長編物語を大胆にアレンジして市川雷蔵主演で映画化した作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、増村保造監督の『好色一代男』です。江戸時代前期に活躍した井原西鶴がはじめて書いた長編物語が原作になっていて、白坂依志夫が脚色したシナリオを増村保造監督が映画化しました。主人公世之介を演じる市川雷蔵が全国各地を流れていき、いろいろな女性と交渉をもつストーリーとなっているので、女優陣も中村玉緒や若尾文子など大映おなじみのスターが起用されています。
【ご覧になる前に】女性のためなら何でもするフェミニストが主人公です
金貸し業を営む京都但馬屋の主人は床に米が一粒落ちているのさえもったいないと思う徹底した吝嗇家で、唯一の悩みは跡継ぎの世之介が道楽者であること。その世之介はきょうも遊郭で吉野太夫と絶対に別れないという起請文を交わして女遊びに耽っています。世之介に但馬屋の得意先である春日屋の娘お園との縁談話が持ち上がりますが、お園に将来を約束している男があることを知った世之介は、あっさりと縁談を断ってしまい、父親から江戸の出店での丁稚奉公を命じられます。しかし旅の道中に監視役の付き添いから有り金を巻き上げた世之介は、単身江戸で遊興を重ねるのでした…。
井原西鶴の「好色一代男」は江戸時代前期に流行した浮世草子の嚆矢とされる作品で、当時の風俗や人情を娯楽性を強めて描いた長編物語は特に上方を中心に発展していきました。1682年に発表された「好色一代男」には、主人公世之介が七歳から女性との恋愛遍歴を始めて六十歳で女護ヶ島に船で渡るまでの54年間の生涯が描かれており、全8巻に及ぶ大長編小説なんだそうです。当時は仏教や儒教では罪悪とされた異性間の性欲を町人視点で肯定的にとらえたのが特徴で、この井原西鶴の画期的な作品がきっかけになって浮世草子が世の中に流行していくことになりました。
脚色した白坂依志夫は脚本界の大御所八住利雄の息子で、特に増村保造監督作品に脚本を提供することが多かったライターです。キャメラマンの村井博は大映で『からっ風野郎』など話題作を撮っていましたが、本作の翌年には東宝に移籍して『江分利満氏の優雅な生活』などで撮影を担当しました。照明は岡本健一ですが、溝口健二の大映での監督作品でライトを照らし続けた人です。
主演の市川雷蔵は昭和33年の『炎上』での演技が高く評価されてトップスターとなり、大映では押しも押されもせぬ中心的な俳優となっていました。翌年には大映社長永田雅一の養女と結婚して大映社内での影響力をもつようになり、出演作品を自分で選択する権限をもつようになります。昭和39年には日生劇場の完成記念公演で「勧進帳」の富樫を演じて歌舞伎界への復帰も視野に入れ始めるなど、昭和30年代半ばの市川雷蔵は彼のキャリアの中で最も輝いていた時期だったといえるでしょう。その雷蔵がフェミニストの元祖ともいえる世之介をどのように演じるかが本作の見どころになっています。
【ご覧になった後で】市川雷蔵だから成り立つはんなりとした世之介でした
いかがでしたか?主人公世之介は父親の金貸し店を潰してしまう放蕩息子で、全国各地を流れながらも何ひとつ自分のスタンスを変えずに女道楽に耽ります。普通ならこのようなキャラクターに観客は感情移入して見ていられないはずなのですが、これを市川雷蔵が演ると全く違って見えるのが不思議ですね。世之介の「侍にへいこら頭を下げるよりも美しく優しい女たちを抱いていたほうがいい」という世渡りの秘訣が実に品があって華やかな生き方のように思えてくるのです。それはやっぱり雷蔵自身に生来備わっていたはんなりさが世之介を身近な人物に感じさせるからでしょう。
なので特にこれという段階もなしに女たちが会ったその場で世之介の虜になってしまうのもむべなるかなという気がしてきます。中村玉緒は漁師網元のお妾兼下女のような扱いをされていたのに、世之介にくどかれて駆け落ちして、結局は追っ手に殺されてしまいます。むくろとなった姿に世之介が涙すると死んだはずの中村玉緒がニッコリと笑うあの場面。まさに世之介によって愛することを知った女の幸福そうな笑顔が、本作の喜劇性を象徴しているようでした。あらすじだけを見るとなんだか悲惨なお話のように思えてしまいますけど、この『好色一代男』が全編カラリとしていてかつ可笑しみを湛えているのは、ひとえに市川雷蔵の持ち味が十分に引き出されたからでしょう。
その点で増村保造監督の演出力は、俳優たちの持ち味を生かしながらその演技を伝えるためのリズム感のあるカッティングでストーリーをテンポよく見せていくというところにあったのだと思います。基本的にはやや引き目のショットで世之介と世之介にからむ人物たちとをひとつの画面内に収めることで、周囲の人々を巻き込みながら自分の欲に正直に生きることを身をもって教える伝道師のような世之介の生き方が強調されていました。その画面の中で、歌舞伎で所作の基本を徹底的に身につけた雷蔵が、それこそはんなりとした表情や身振り手振りで思いのままに振舞うのです。なんだか見ていて気持ちの良くなるような演出でした。
そのような演技にところどころで陰影をつけたのが岡本健一の照明で、さきほどの中村玉緒の死体と対面するところもそうですし、終盤にしか出てこない若尾文子が大勢の太夫の中で初登場しても画面の一画がくっきりと浮かび上がるような照明技術で強調されていました。映画における表現というのは、このような現場スタッフによる工夫の積み重ねなわけでして、この映画が大映ではなく他の映画スタジオで作られていたら、それはそれでまた全く違った肌触りの映画になったことでしょう。昔の脚本をリメイクしてもなかなかうまく行かないのも映像づくりの現場が決定的に変質してしまったからでしょうか。(A110222)
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