噂の女(昭和29年)

溝口健二監督が名作『山椒大夫』『近松物語』と同じ年に撮った作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、溝口健二監督の『噂の女』です。戦後の一時期スランプに陥った溝口健二監督は、昭和27年に新東宝で撮った『西鶴一代女』で見事にワンシーンワンショットの長回しを駆使した独自のスタイルを取り戻してヴェネツィア映画祭で国際賞を獲得しました。翌年大映に移籍した後は『雨月物語』『山椒大夫』でヴェネツィア映画祭銀獅子賞を連続受賞してキャリアのピークを迎えます。本作は昭和29年3月公開の『山椒大夫』と11月公開の『近松物語』の間の6月に公開されていて、溝口健二はなんと一年に三作も作ったことになり、日本映画史に残る名作にはさまれた形になった本作は、さすがに他の溝口作品よりはやや散漫な作りになってしまいました。

【ご覧になる前に】田中絹代にとって溝口作品への最後の出演作となりました

京都の芸者置屋井筒屋の女将が娘の雪子を東京から連れて帰ってきました。婚約寸前までいった相手に裏切られ自殺を図った雪子は東京でピアノの勉強をしていたのですが、その学費が母親の経営による置屋稼業から出ていたことから雪子は自己嫌悪に陥ります。女将は井筒屋に出入りしている若い医師の的場と深い関係にあり、的場の開業医になるという夢を叶えるため京都郊外の一軒家の購入を援助していて、どのように金を工面するか頭を悩ませます。しかし女将から雪子の診断を頼まれた的場は、若くて美しい雪子に興味の対象を移し始めていくのでした…。

主演の田中絹代は昭和15年に『浪花女』ではじめて溝口作品に出演して以来、溝口健二からの寵愛を受けてお気に入りの女優となりました。特に田中絹代が昭和25年に日米親善使節の巡業を終えてアメリカから帰国した後に受けた猛烈なバッシングによって一気に人気を凋落させていた時期に、溝口健二は『お遊さま』『武蔵野夫人』で田中絹代を主演女優に起用。続く『西鶴一代女』の名演によって、田中絹代は一皮むけた演技派女優として大きくステップアップしていくことになりました。その背景には溝口健二監督の田中絹代への恋愛感情があったといわれていましたが、田中絹代のほうではあくまで映画監督としての溝口健二は尊敬するけれども結婚相手として意識したことはないと断言し、溝口健二は田中絹代にフラれた形になりました。

そんないきさつがあったせいか、田中絹代が映画監督としてデビューした『恋文』に続いて、監督第二作『月は上りぬ』を日活で製作しようとした際には、日本映画監督協会理事長の立場にあった溝口健二は五社協定を盾にして製作に反対し「田中絹代のアタマでは監督はできない」とまで言い放ったのだとか。そんなすったもんだはたぶん本作撮影直後のことだったようで、田中絹代は本作を最後に二度と溝口健二監督作品に出演することはありませんでした。

話は戻って、本作は溝口健二監督作品に欠かせないスタッフが集結していて、まず脚本はずっとコンビを組んでいた依田義賢で、『楊貴妃』以降のラスト三作で脚本を書く成澤昌茂との共同で、映画のためのオリジナル脚本を書き上げています。キャメラマンはおなじみ宮川一夫。宮川一夫は大映に所属していましたから『雨月物語』以降は『楊貴妃』を除くすべての溝口作品で撮影を担当することになりました。美術は水谷浩で、本作でも主な舞台となる芸者置屋の設計が見どころになっています。そのキャメラとセットを際立たせる照明は大映京都撮影所でライトを照らし続けた岡本健一によるもの。これらの溝口組スタッフが、なかなかOKを出さずにひたすらリテイクを繰り返す溝口健二監督のきびしい現場を支えていたのでした。

【ご覧になった後で】田中絹代の演技がすばらしいですがそれ以外はどうも…

いかがでしたか?さすがの溝口健二も『山椒大夫』と『近松物語』にはさまれての製作でしたので、本作はやや手抜き仕事というか田中絹代におまかせみたいな出来上がり具合になっていました。『西鶴一代女』で見事に蘇ったワンシーンワンショットをあまり使用せずにショットを細かくカッティングしているので、溝口らしい演技の流れが伝わってこないんですよね。芸者のひとりが癪を起して運ばれるところを画面の奥行きを使ってフィックスのワンショットで見せるところと能の帰りに井筒屋に押しかけた客をとらえたあとで右にパンして帳場の玄関に芸者が出戻ってくるところが数少ない見どころだった程度でしょうか。そこも得意の移動ショットではないので、短期間に低予算で撮る必要があったのかもしれませんが、クレーンやドリーをほとんど使わず、溝口らしい映像術の出番がほとんどない作品になっていましたね。

かたや主演の田中絹代の演技は本当にすばらしかったですね。京都弁の使い方も完璧(なのかどうかわかりませんけど)に聞こえましたし、長年芸者たちを仕切ってきた置屋の女将としての振る舞いをわざとらしくなく、周りの空気をまとうようにして演じているのが見事でした。本作撮影時の田中絹代は四十四歳。確かにそれらしい年齢を感じさせながら若い医師との結婚を夢見る純な心持ちを表現できる、ちょうど中間地点にいるような時期で、女であり母親であり実業家でもあるという多面的な女性主人公を体現していたと思います。対する久我美子はやっぱり田中絹代に比べると演技というよりは若さだけが取り柄という感じで、きれいだからいいですけれど雪子のキャラクターがいかにも一貫性を欠いていたのは、脚本の不備のせいでもありつつ久我美子の消化不良も要因だったかもしれません。

その田中絹代と久我美子の間をフラフラするとんでもなくいい加減な的場という人物を演じているのが大谷友右衛門。後に四代目中村雀右衛門になる人です。彼は歌舞伎界の役者の中でも戦時に出征していたことで有名で、復員してからすぐに父の名跡である大谷友右衛門を七代目として継いだのですが、昭和25年に突如映画界へ転身してしまいます。本作の主演はその時期のもので、舞台では化粧によって美女に生まれ変わるのですが映画で見るとそんなに美男子でもなく、でもナヨっとした中途半端なキャラクターが本作の的場にはぴったりでした。女将が差し出した100万円をそのまま受け取ってしまうのには驚きましたが、いちおう後で返したんですよね。サイアクな男なのに良心だけは残っていたようでホッとしました。

ちなみに大谷友右衛門は昭和30年に歌舞伎界に復帰して中村雀右衛門を四代目として襲名します。中村雀右衛門は関西の大名跡ですから大谷友右衛門とは何の関係もないのですが、雀右衛門の名を継ぐはずだった三代目雀右衛門の長男は大谷友右衛門の親友で、太平洋戦争で戦死してしまったのです。戦地から戻った友右衛門を親友の母親は亡くなった我が子に代わって可愛がったそうで、ついには息子の代わりに雀右衛門を継いでくれないかと頼まれて、歌舞伎の系図上は何の関係もない雀右衛門を襲名することになったのでした。中村歌右衛門亡き後の歌舞伎界随一の女形として四代目中村雀右衛門は平成時代の歌舞伎に大きな足跡を残しましたので、映画界を引退したのは正解だったといえるでしょう。

本作の映像的な見どころは井筒屋という建物そのもの。座敷の場面はほとんど出てきませんが帳場や台所、化粧場、廊下など芸者置屋の裏舞台をふんだんに描写していて、長回しが使われない代わりにフィックスショットでやや俯瞰気味に部屋全体、または座敷の次の間から奥までをしっかりと映像化していました。それは溝口組のシュアな職人仕事そのものだったわけですけれども、もうひとつの見せ場は能のシークエンスだったと思います。いや、もしかしたら溝口健二はこの能をストーリーに絡ませたくて本作を撮ったんではないかと勘繰ってしまうほど、この場面には力が入っていました。

能の出し物は「枕物狂」(まくらものぐるい)。若い女に恋をした百歳をこえた老人が恋心を謡いあげる狂言なんだそうで、能と狂言の違いもよくわかっていないですし、老人が主人公とあるものの本作では老婆に変わっていたようにも見えたので、全く頓珍漢なことを書いているのかもしれません。でもまあ映画的にいえば、老いた者が若い者に恋をしてしまうことの醜悪さというか場違い感を演じる舞台があって、それを見ている年増の女と若いツバメがいて、しかも若い男は年増の女からその娘に鞍替えしようとしているという皮肉な設定が、究極の悲喜劇的シチュエーションになっているわけです。ここはほとんどセリフなしで田中絹代が自らが「枕物狂」の老人であることを悟らざるを得ない心境に変化するのを表情や身振りの演技だけで表現する圧巻の場面でした。

というわけで溝口健二作品としての評価は今ひとつというポジショニングにあるものの、田中絹代の出演作の中ではぜひ押さえておきたい映画のひとつであることは間違いありません。その反面、久我美子の娘役はいかにも理解不能でしたね。自殺騒ぎを起こして、的場に安易に身体を触らせて、東京に行こうなんて約束して、でも的場にフラれた母親を見るといきなり的場を毛嫌いして、帳場仕事をイキイキと張り切る。全く一貫性のない女性で、たぶん帳場仕事も数日でイヤになるに違いありません。そしてこんな不幸な仕事なのに次々やりたい人が現れるという芸者商売の苦労は、この娘にはどこまでいっても理解不能なんではないでしょうか。(A062022)

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