ピアニストを撃て(1960年)

フランソワ・トリュフォー監督の長編2作目はクライムスリラー仕立てでした

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フランソワ・トリュフォー監督の『ピアニストを撃て』です。『大人は判ってくれない』で1959年度カンヌ国際映画祭監督賞を受賞したフランソワ・トリュフォーの長編第二作で、人気歌手のシャルル・アズナブールを主演に起用したクライムスリラー仕立ての作品になっています。批評家からは好評を博したものの、興行的には大惨敗だったそうで、トリュフォーは次作『突然炎のごとく』からオーソドックスなストーリー映画に舵を切ることになりました。

【ご覧になる前に】新人監督を支援したピエール・ブロンベルジェの製作です

深夜の舗道を何かに追われるように走っていた男は電柱に頭をぶつけてよろめくと、妻に花束を買って帰る中年男性と会話をした後、楽団演奏で賑わうカフェに入ります。男はピアノ弾きシャルルの兄で、楽屋で二人組の男に狙われていると話します。店主に言い寄られている女給のレナは、シャルルのことが気になっていて、閉店後に二人は一緒に夜の街を歩きます。手をつなごうかどうか迷うシャルルは、自分の生来の臆病さに嫌気がさしていたのでした…。

トリュフォーの長編第一作『大人は判ってくれない』は、映画配給会社の社長だった義父が出資して製作されましたが、本作はピエール・ブロンベルジェがプロデューサーをつとめています。サイレント時代からフランス映画界で活動を始めてビヤンクール撮影所を取得したブロンベルジェは、1950年代に入るとアラン・レネやジャック・リヴェットなどの新人監督たちに短編映画をつくる場を与えるようになり、ジャン・リュック・ゴダールもブロンベルジェの製作で『男の子の名前はみんなパトリックという』という短編を撮ることができました。ゴダールはブロンベルジェのことを「多くの人が映画を愛したが、ごく少数の者だけが映画に愛された。ピエールはその一人だ」と語ったそうです。

ブロンベルジェにとってこの『ピアニストを撃て』とゴダールの『女と男のいる舗道』がヌーヴェル・ヴァーグ時代の代表作ですが、トリュフォーと組んだのはこの一作のみです。『大人は判ってくれない』でセンセーショナルなデビューを飾ったものの、本作が興行的にも失敗したからかもしれませんが、もともと多くの製作予算が用意されたわけではなく、屋内外のロケーション撮影でフィルムを節約しながら作られています。

原作になった「Down There」はアメリカの推理小説家デヴィッド・グーディスが1956年に発表したクライムスリラー。グーディスの小説で映画化されたのは本作のほかに『華麗なる大泥棒』『狼は天使の匂い』などがあります。マルセル・ムーシーとともに脚色したトリュフォーは、きっちりとしたシナリオを書き上げたわけではなく、パリの街頭で撮影しながら、撮影時に誰が出演できるかによって即興的に脚本を作り変えたというエピソードも伝わっています。

キャメラマンはラウール・クタールで、1960年にジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』で撮影を担当した後は、ゴダール作品で続けてキャメラを回すことになりました。トリュフォーとは本作以降『突然炎のごとく』『柔らかい肌』『黒衣の花嫁』でコンビを組んでいます。また、音楽のジョルジュ・ドルリューは、本作以降のほとんどすべてのトリュフォー監督作品で作曲をしていまして、トリュフォーとは盟友のような関係でした。本作はピアニストを主人公にした作品ですので、ピアノの内部でハンマーが弦を打つタイトルバックとともに印象に残るテーマ曲を書いています。

【ご覧になった後で】トリュフォーによるハリウッドへのパスティーシュです

いかがでしたか?トリュフォーは本作のことを「ハリウッド映画への経緯を込めたパスティーシュ」だと解説していて、オーソン・ウェルズやヒッチコック、サミュエル・フラーなどハリウッドのクライムスリラー映画の作風をあえて模倣しながら、ハリウッドへのオマージュを寄せ集めて混成させるように作られていました。夜の街を追われるオープニングシーンをはじめ、帽子を被った二人組や山小屋での銃撃戦などはいかにもギャング映画風でしたし、「母親の命を賭けてもいいぜ」というセリフとともに母親が倒れるショットがアイリスイン的に挿入されるのはサイレント映画のパロディになっていました。そもそもシャルル・アズナブール演じる主人公シャルリの名前はチャーリー・チャップリンのフランス語読みですし、四人兄弟という設定もマルクス兄弟を元に発想されたんだとか。いろんなところにトリュフォーのアメリカ映画への偏愛が隠されていた作品でした。

逃げる男が電柱にぶつかって倒れるといういかにも犯罪映画的なオープニングで始まるものの、なぜか追っ手が現れるわけではなく、結婚記念日に妻に花束を買って帰る中年男とののんびりした会話のシーンに変わります。クライムスリラーへのオマージュのようでありながらも、本作はこのようなチェンジ・オブ・ペースというべき奇妙なリズムをもっていて、サスペンスを盛り上げるというよりは観客をはぐらかすような演出がそこかしこで見られます。胸をはだけてベッドに入る娼婦に「映画ではこうやって隠すんだ」と言ってシーツを巻いてあげるなどは映画自体をパロディ化していましたし、シャルル・アズナブールのモノローグがしばしばはさまれるのはサスペンスものではほとんどあり得ない内省的な印象を醸し出します。ドアホンのボタンを押す指の先をジャンプショットでクローズアップにしたり、ピアノの音を気にしつつオーディション会場をあとにするバイオリニストの女性を正面からトラックバックして捉えたりするのは、ストーリーに全く無関係ながら記憶に残ります。作品全体が非常にキュリアスな印象に思えるのは、一貫性がないけれどもパーツごとには凝っているトリュフォーの演出スタイルによるものではないでしょうか。

植草甚一氏は本作のことを「変てこな映画」と評していて、当時来日したトリュフォーに直接「臆病さをテーマにしたんですね」と訊いたらトリュフォーは「それもあるけど、もっとほかのこともあるんだ」と答えて、それ以上の説明はなかったと書き残しています。J.J氏はそれをトリュフォーの自作を自慢したがらない謙譲の気持ちの表れだと捉えたようで、「ほかのこと」が何かはわからないままに終わっています。しかし臆病がテーマになっていることは間違いなく、主人公が著名なクラシックピアニストのエデュアール・サローヤンであった頃に妻を投身自殺で亡くす回想シークエンスも臆病さが残酷な結末を招くことを描きたかったためだと思われます。

言い換えるとクライムスリラーというのはあくまで表向きの設えでしかなく、その証拠に二人組との揉め事や銃撃戦の結末は曖昧なまま明らかにされません。もちろんヒッチコック作品のマクガフィンのようなことをやってみたかったのもあるでしょうが、ヒッチコックならシャルリの兄弟たちや二人組がどうなったかははっきりと提示したでしょう。しかしトリュフォーは流れ弾にあたって雪原を滑り落ちて死ぬ女給レナのみに焦点を当てます。結局シャルリは再び愛する人を失ってしまうわけで、それは臆病で内気な性格が引き起こした結果なわけです。トリュフォーも極度な内気症だったそうですし、なんとなく外見が似ているシャルル・アズナブールを起用したことも自分自身を反映させたかったからかもしれません。ちなみにレナを演じたマリー・デュボワは、『突然炎のごとく』や『女は女である』に出演しているようです。

というわけで奇妙な印象が残る作品でありつつ、トリュフォーが『突然炎のごとく』以降ストーリーものに傾倒していった経緯を考えると、トリュフォー作品の中でも特異な位置を占めていて、『大人は判ってくれない』とは別のやり方でトリュフォーが自分自身をさらけ出した作品でした。犯罪映画でありつつ、「臆病」をモチーフとして極めて私的な感じのする内省的な雰囲気が本作の奇妙さにつながっているようかもしれません。辛口批評家のレナード・マルティンが「****」の最高点で評価しているのも納得という感じですね。(A040725)

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