将軍たちの夜(1967年)

ハンス・ヘルムート・キルストの小説を映画化した戦争犯罪ものの大作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、アナトール・リトヴァク監督の『将軍たちの夜』です。原作は1962年に発表されたハンス・ヘルムート・キルストによる同名の小説で、ほとんど原作通りに映画化されているそうです。キルストは実際にドイツ国防軍の曹長としてポーランド侵攻にも従事した経験をもっていて、自らの軍隊体験をもとにして第二次大戦を題材にした小説を発表しました。本作の特徴は戦争を描いていながら、戦争に隠れて見えない個人の犯罪に焦点をあてているところで、戦争映画のジャンルには入りますが犯罪映画でもあり、犯人を追い詰めていくサスペンス映画とも言えるかもしれません。

【ご覧になる前に】製作者サム・スピーゲルのプロデュース力が見どころです

第二次大戦の1942年、ドイツ軍が占領下のワルシャワの治安強化を進める中、ある宿屋の一室で売春婦が惨殺される事件が発生します。宿屋を去った男を見たという目撃者が犯人のズボンには赤いラインがあったという証言を聴取した情報部のグラウ少佐は、その制服を着用するドイツ軍将校のアリバイを調査します。するとその夜外出していた将校は、司令官ガプラー大将、参謀のカーレンベルク少将、そして東部戦線から着任したばかりのタンツ中将の三人であることが判明しました…。

原作者キルストは、その代表作「08/15」でナチスドイツの国防軍陸軍における軍隊生活の日常を描いたのち「将軍たちの夜」では将官を主人公にしました。実際にドイツ国防軍に所属していたキルストはナチスの国家社会主義イデオロギーを教育する指導将校も経験していたそうなので、高官から兵隊まであらゆる階級における軍人の実態を把握する立場にいたと思われます。本作の原作では、将校(General)から少佐(Major)、そして伍長(corporal)が登場していて、将官から下士官までのヒエラルキーの中で、国家としての戦争とその背後に隠れた個人の犯罪を取り上げています。原作は角川文庫から出ているようですね。

監督のアナトール・リトヴァクはユル・ブリンナーとイングリッド・バーグマンが主演した『追想』などが有名ですが、これといった作家性や個人的なスタイルを主張するタイプの映画監督ではないのではないでしょうか。本作も原作の映画化で、小説としても評価が確立している作品を映画化する場合は、どちらかといえばプロデューサーの力量によって作品の成否が分かれるのだと思います。で、本作のプロデューサーはサム・スピーゲル。この人がプロデュースした作品の代表作が『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』といったら、もうそれだけで本作への見方も良いほうに転がりますよね。特に『アラビアのロレンス』ではアカデミー賞の中で顕著な功績をあげたプロデューサーに贈られるアービング・G・タルバーグ賞を受賞しています。もっともこの賞は、初期の頃はダリル・F・ザナックやデヴィッド・O・セルズニックなど名プロデューサー中のプロデューサーしか貰えない名誉ある賞だったのですが、1970年代以降は映画の作り方自体が複雑化して、製作者がひとりなんてことがなくなってしまったため、だんだんと賞の意味がなくなってしまったのですけど。

サム・スピーゲルがプロデューサーであれば、主演にピーター・オトゥールを起用するのもわかりますし、将校の捜査をする少佐にオマー・シャリフを起用するのも肯けます。音楽はモーリス・ジャールでここまで見ると『アラビアのロレンス』と全く同じ顔触れが揃っています。もちろん過去のお仲間だけではなく、ドナルド・プレザンスとゴードン・ダクラスとナイジェル・ストックの『大脱走』脇役トリオ(コリン、マクドナルド、カベンディッシュ)も配置していますし、ほんの少ししか出番のないロンメル元帥役には『サウンド・オブ・ミュージック』のクリストファー・プラマーをあてています。ちなみにピーター・オトゥールとオマー・シャリフは『アラビアのロレンス』で映画界に登場したわけでサム・スピーゲルには恩義を感じていて、本作への出演を快諾したそうですが、二人のギャラはドナルド・プレザンス一人分に満たなかったのだとか。ドナルド・プレザンスはこの前年には『007は二度死ぬ』で悪役のブロフェルドをやっていますから、仕方なかったのかもですが。

さらにはキャメラマンにはヌーヴェル・ヴァーグの作家たちを支えたアンリ・ドカエを指名していて、アンリ・ドカエとしてもはじめてアメリカ資本が入った映画(本作はアメリカ・イギリス・フランスの合作)での仕事となりました。このようなキャスティングやスタッフの起用を見ると、アナトール・リトヴァクも手堅い演出をしてくれるだろうということで、サムスピーゲルが監督として招聘したのではないかと思ったわけですが、真相はさにあらず。なんと原作の映画化権をアナトール・リトヴァクが所有していたので、サム・スピーゲルは仕方なしにアナトール・リトヴァクに監督を依頼するしかなかったようです。

【ご覧になった後で】ピーター・オトゥールの狂気の演技が凄かったですね

いかがでしたか?なんといってもこの映画はピーター・オトゥールなくしては成り立たない作品でしたね。タンツ中将のあの狂気に取り憑かれたというか狂気をはらんだというか、正気なのか狂気なのか紙一重の境界線にいるような人物を演じられるのはピーター・オトゥールしかいなかったでしょう。顔の筋肉をわずかにピクピクさせながらどこに焦点があたっているのか不明な瞳、そして背筋を真っすぐに伸ばした長身瘦躯のスタイル。そもそも透き通ったブルーの碧眼が、ちょっと何を考えているのかわからない風なんですが、この人が本作の前年にはウィリアム・ワイラーの『おしゃれ泥棒』でオードリー・ヘプバーンの相手役をロマンティックに演じていたのと同じ人だとはとても思えません。

そしてピーター・オトゥールに対峙するオマー・シャリフですが、なんでもアラブ語ではオマル・シャリーフと表記されるそうで、でもクラシック映画ファンにとっては断然オマー・シャリフですよね。『アラビアのロレンス』のアリ酋長が砂漠の果てから徐々に近づいてくるあの有名な長回しで衝撃的に映画デビューしたオマー・シャリフを、そのイメージからはちょっと違った犯罪捜査に執念をもつ少佐に配したのはさすがサム・スピーゲルの手腕という感じです。なにしろピーター・オトゥールを食ってはいけないわけで、しかも正統派過ぎるとかえって嫌味な役になってしまいますから、オマー・シャリフの、ゲルマン民族主義のドイツ軍には実際にはいないだろうという中途半端な感じが本作には合っていたと思います。

本作には『チャップリンの殺人狂時代』における「ひとりを殺せば殺人者だか、百万人を殺せば英雄だ」という有名なセリフに似た会話が出てきます。本作が戦争映画でありながら犯罪映画でもあるのはまさにその点で、戦争における個人の犯罪という矛盾(なにしろタンツはワルシャワ市街の破壊を先導する将軍ですので)が戦争娯楽作品を通して浮かび上がってくるようではあります。登場人物の中では、オマー・シャリフの意思を継いでタンツの悪事を暴いていくモラン警部をやったフィリップ・ノワレの存在感が中和剤のような効果を出していました。フィリップ・ノワレというと『最後の晩餐』でクソを垂れながら死んでいく役がすぐに思い出されてしまうのですが、どことなく品格があって、単なる真っすぐな正義感だけではない、やや俯瞰して狂気を見つめる冷静な目のようなものが醸し出されていたような気がします。

本作は同時に第二次大戦の歴史的事実もうまく取り込んでドキュメンタリータッチなリアリティを伝えることにも成功しています。本作に出てくるヒトラーの暗殺事件は1944年7月20日に発生して、歴史上は「7月20日事件」と呼ばれています。東プロイセンの総統大本営ヴォルフスシャンツェの会議室に仕掛けられた爆弾はヒトラーに軽傷を負わせただけで、クーデター計画は失敗に終わりました。本作でも描かれた通り、ワルキューレ作戦を発動して新政府人事体制を確立しようとしたクーデター派はヒトラー生存の連絡とともに反乱軍として一掃され、計画に関与したメンバーは翌年のドイツ降伏までかけて執拗に追及され処刑されたといわれています。なので、本作で戦後までガプラー大将が生き残っていたという設定はやや無理があるように思われますね。

原作ではタンツ将軍は戦後東ドイツの軍幹部として活躍している設定なんだそうですが、映画化にあたっては西ドイツのナオナチ指導者に改められました。なんでも本作はハリウッドではじめてポーランドでロケーションを行った映画なのですが、タンツの設定が東ドイツの軍幹部ということでは許可が下りず、西ドイツのネオナチに変更したら撮影してもいいよとなったそうです。そういうところに1960年代の東西冷戦の世相が反映されているんですね。

最後ですが、タンツが魅入られるようにして目を釘付けにされたのがゴッホの自画像。フィンセント・ファン・ゴッホは1890年に亡くなっていまして、映画に登場する自画像は死の前年、サン・レミでの療養時期に描かれた作品です。ゴッホの顔がやや左前方を向いていますが、これは耳がある側を描いているためで、ゴッホは1888年の暮れ、剃刀で自ら左耳を切り落としてしまい、わずかに耳たぶの一部だけが残るほどでした。直後には「耳を切った自画像」とか「包帯をしてパイプをくわえた自画像」とかを描いていますので、本作に登場する1889年のときはもう包帯はとれていたようです。自画像は鏡を見ながら描くので、絵の中では左耳は残っているように見えますが、実際は左右反対なので右耳を描いているのです。この自画像はオルセー美術館が保有しているので、第二次大戦のナチス支配下にあったパリでは「退廃美術」として展覧が禁止されていたという設定なのでしょうか。しかしながら、娼婦をメッタ刺しにして殺す癖のあるタンツがゴッホの自画像に共鳴しているように描写されているのは、ゴッホに対して少しばかり失礼なような気がしないでもないですね。(A012222)

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