グレアム・グリーンとキャロル・リードが作った映画史上に残る最高傑作です
《大船シネマおススメ映画 おススメ度★★★》
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、キャロル・リード監督の『第三の男』です。グレアム・グリーンが自らの原作を脚色し、キャロル・リードが監督したサスペンス映画で、映画史上ベストテンでは必ず上位にランキングされる不世出の名作であり、映画史上の最高傑作のひとつです。日本では昭和27年(1952年)に公開されて、キネマ旬報ベストテン外国映画部門で第二位に選出されました。その際に双葉十三郎先生は☆☆☆☆★の最高級の評価を与えていますし、アメリカではレナード・マルティンが****の満点とともに「Screen Classic」とコメントしています。
【ご覧になる前に】米英仏ソ四ヶ国に分割占領されていたウィーンが舞台です
米英仏ソの連合軍四ヶ国によって分割統治されていたウィーンにやってきたのはアメリカ人の西部劇作家ホリー・マーティンス。仕事の依頼を受けた旧友ハリー宅を訪問すると、門番の老人からハリーは事故死したと告げられます。葬式にはハリーの愛人アンナのほか英軍のキャロウェイ少佐がいて、酒場で帰国を勧められますが、ホリーは劇場に出演中のアンナを誘い出し、門番からハリーの死体を運んだときに三人目の男がいたことを知ります。ハリーの死を確認した医師に面会したホリーが戻ると、門番は何者かによって殺されていたのでした…。
ハンガリーで映画監督をしていたアレクサンダー・コルダは戦後自ら設立したロンドン・フィルムを再建してプロデューサーとして活躍を始めました。一方でMGM、パラマウント、RKOとハリウッドのメジャースタジオを渡り歩いたデヴィッド・O・セルズニックは独立して自ら製作会社を興し、『風と共に去りぬ』や『レベッカ』『断崖』などのヒッチコック作品を世に送り出していました。グレアム・グリーンとキャロル・リードのコンビで『落ちた偶像』をヒットさせたアレクサンダー・コルダは、ハリウッドに進出するためにデヴィッド・O・セルズニックと契約を交わし、四本の作品をアメリカで上映する権利を得たのでした。
グレアム・グリーンとキャロル・リードのコンビの再現を狙うアレクサンダー・コルダが、二人をセルズニックを引き合わせ、実質的にはセルズニックがメインのプロデューサーとして本作の製作をリードしていったようです。しかし本作の設定そのものはブダペストからウィーンに渡った経験のあるコルダが提案したのではないかと思われ、グレアム・グリーンは連合国四ヶ国が占領していたウィーンを舞台にした物語を書き下ろしたのでした。
ウィーンはソ連の占領地域に含まれていたものの、ベルリンと同様に都市自体が四ヶ国が分割統治した共同管理下に置かれていました。オーストリアが主権を回復するのは1955年のことですから、本作はまだ独立を果たしていないオーストリアのウィーンでロケーション撮影されたわけです。キャロル・リードはウィーンの下水道や石畳、観覧車などをそのまま映画の要素として取り入れ、現地の住民たちをそのまま映画のエキストラに使ってウィーンの雰囲気を最大限に活用することにしました。
ウィーンの居酒屋で演奏していたアントン・カラスを見い出したのもキャロル・リードだと言われていて、オーストリアやドイツ南部、スイスで使われていた弦楽器ツィターによる「ハリー・ライムのテーマ」は結果的に大ヒットすることになりました。イギリスでは映画と共にツィターの曲が大流行してレコードがメガセールスを記録していたそうで、翌年の1950年にアメリカで公開される前には、すでにツィターのテーマソングのほうがおなじみになっていたほどでした。
ジョゼフ・コットンは前年にセルズニック製作の『ジェニイの肖像』に主演してヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞していて、セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズと契約していましたから、ケーリー・グラントやジェームズ・スチュワートなどの候補者を退けてホリー・マーティンスを演じることになりました。アリダ・ヴァリも同じくセルズニックと契約していてヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』に出演していましたから、グレアム・グリーンとキャロル・リードがコルダつながりだった一方で、主演の二人はセルズニックの引きだったことになります。
キャメラマンのロバート・クラスカーは本作で1950年度のアカデミー賞撮影(白黒)賞を受賞しています。1945年のデヴィッド・リーン監督の『逢びき』でイギリス映画界で頭角を現したクラスカーは、本作の後には1954年にルキノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』で見事なカラー映像をつくり上げます。
グレアム・グリーンが自らの原作を脚色し、キャロル・リードが監督したサスペンス映画で、映画史上ベストテンでは必ず上位にランキングされる不世出の名作であり、映画史上の最高傑作のひとつです。
【ご覧になった後で】光と影、ショットのリズム、音楽、すべてが一級品です
いかがでしたか?これこそまさに映像芸術の最高到達点ではないかと思われるほどの完成度でしたね。映像は夜のシーンが多いこともあって光と影の使い方が効果的で、壁に映る風船売りの影や広場の中央に浮かび上がる入口塔、暗い下水道の中での照明の灯りなど白黒画面の魅力が最大限に発揮されていました。そしてそれらのショットは一部人物を追ったりしてパンしたりトラックアップしたりするほかはほとんどすべてがフィックスで構成されていて、しかも短いショットを積み重ねるので映画全体がある一定のリズムをもって進んでいきます。そこにツィターの旋律が重なることにより、アクションよりはシチュエーションが強調されることになって、映像が表層的ではなく意味深いものに感じられてきます。これらすべてが一級品の出来栄えで、本当に映画を見ていて最初から最後まで極上の味わいを体感することができました。
双葉十三郎先生は本作のことを「サスペンスを加味した雰囲気劇」と表現していて、まさに映像と音楽が一体になった独特の雰囲気が充満していました。それはウィーンの街を舞台にしてロケーション撮影を活用していたことで醸し出されていたものだと思われ、瓦礫の痕が残る中でのホリーとライムの手下の追跡場面や小さな男の子がホリーのことを「人殺し」と呼ぶコミカルなシーン、あるいはタクシー運転手がかっさらうように突っ走ると行き先は講演会場だったという意外なオチの場面など、ウィーンでの街の様々な表情がうまく映画に組み込まれていました。また、分割統治ということで、アリダ・ヴァリは四ヶ国の兵士に連行されるのですが、米兵はよくわからないと答え、仏兵は「マドモアゼル、口紅をお忘れないよう」と持ってきてくれるなど、各国の描き分けが興味深かったです。
ロバート・クラスカーのキャメラはどのショットも全く無駄がなく、ジョゼフ・コットンやアリダ・ヴァリをクローズアップで切り取る画面や常にちょっとだけ傾いた傾斜のある画角など構図がきっちりと決まっていました。キャロル・リードは事態が急展開する場面では、そこに街の人々の顔をいくつもインサートして、進行する物語と客観視する人を交互に出すことでやや突き放したような冷めたテーストをうまくつくり上げていたと思います。
そんな中で本作の一番のショットは、ハリー・ライム=オーソン・ウェルズの初登場場面でしょう。ハリーにだけなついていたというネコが足元にまといつき、アリダ・ヴァリとの会話を終えたジョゼフ・コットンが部屋を出て、自分が監視されていると勘違いして大声を上げます。上階の住人が部屋の灯りをつけるとその光に照らされてポッとハリー・ライムの顔が浮かび上がり、キャメラがそこにスーッとトラックアップしていき、同時にツィターの音色が高まります。これこそ映画の中の映画というか、映画にしか表現し得ない人物描写というか、とにかくニヤッと笑ってすぐ暗闇に消えるこのワンショットのみで、ハリー・ライムのキャラクターを描き切ってしまう凄技でしたよね。映画史の中で映画らしいショットは何かと問われれば、このハリー・ライムへのトラックアップショットを挙げておけば誰にも文句は言われないでしょう。
さらに観覧車の下でホリーがハリー・ライムと待ち合わせる場面では、ツィターが本編の中で初めて「ハリー・ライムのテーマ」を奏でます。もう一か所はホリーがカフェにハリーをおびき出す場面でこのテーマが再び演奏され、有名なフレーズなのに映画の中では二か所しか使われません。こういう我慢の仕方がツィターの音楽をより印象深いものにしているのかもしれません。もちろん観覧車の場面は人々の姿を小さく捉えた俯瞰ショットでハリーの冷酷さが伝わりますし、有名な「鳩時計だけだよ」というセリフを残して去っていく姿がカッコよく見えるのもオーソン・ウェルズの存在感あってこそだと思わされました。「喉が痛いんだ」という設定やここでのセリフはグレアム・グリーンではなく、オーソン・ウェルズが創作したものだと言われています。
そして何といっても下水道の追跡は映画的迫力で観客を圧倒します。ツィターの旋律とともに哀調を帯びた静謐な感じで進んできた本作が一気呵成に動的映像に急変して、クラシック音楽でいえばすべての楽器が力強く演奏する第四楽章に入ったような感じでしょうか。ここではさらにショットが細かく構成されていて、下水道の狭さや入り組みをうまく組み合わせながら、螺旋階段から道路上に出ようとしても次々に出入り口が封鎖されていく圧迫感が加わり、ついには小さな水路のあちらこちらから声が反響して、どこを選んでも完全に包囲されている切迫した状況が音で表現されます。
そしてハリーが格子網から地上に手の指をもがくようにして出すショット。ここまではウィーンの街をそのまま捉えたリアリティのある映像で押してきたのに、このショットだけは非常に象徴的で、絶望的な世間との断絶を示したイメージが痛いほど伝わってくるようでした。このショットのアイディアはオーソン・ウェルズのものらしいのですが、オーソン・ウェルズは臭いに耐え切られないという理由で下水道の撮影は拒否したため、虚空に差し出される指はキャロル・リードのものなんだそうです。そんなわけでオーソン・ウェルズの顔が写るショットはロンドンでのスタジオセットで撮影され、顔が写らない全身のショットはスタントが使われているらしいです。
脇役もみんな個性的で、トレヴァー・ハワードの理知的な感じは英国少佐らしいですし、後に007シリーズでMを演じるバーナード・リーは殺されるのが惜しいキャラクターでした。また子犬を抱いたクルツとヴィンケル医師がゲイの関係であることが暗示されますし、殺される門番やアリダ・ヴァリのアパルトマンの大家の老女などが短い出演場面しかないのに強烈な印象を残します。風船売りの老人や群衆などは実際のウィーンの住人たちをそのまま使ったようで、逆にそれがジョゼフ・コットンの異邦人的な孤独感を高める効果がありました。
最後にやっぱりグレアム・グリーンの脚本は見事な出来栄えで、登場人物の感情の変化が非常にうまく描写されているんですよね。ホリーはハリーのことを信じていますが、キャロウェイ少佐からペニシリンの惨禍を説明され、心変わりします。しかしそれだけではハリーを売るところまではいかないわけで、アンナを逃がすことを優先します。でもアンナはその手配を拒否し、一度はウィーンを去ろうとするホリーでしたが、キャロウェイ少佐が立ち寄った病院でハリーの仕業で犠牲になった子どもたち(子どもは見せずにぬいぐるみだけでその惨状を表現する巧さ!)を目のあたりにして、ついにはカフェにハリーをおよびよせてしまうのです。こうした丁寧なシナリオ作りが本作に通底しているからこど、そのうえに映像を乗っけることができたのだと思います。
ラストショットは冬枯れた木立の中をアリダ・ヴァリがジョゼフ・コットンのことを一瞥だにせずに去っていくあの有名な長回し。この名場面は何度となく繰り返し映画の名シーンとして取り上げられてきましたが、アリダ・ヴァリが行ってしまうのを見送ったジョゼフ・コットンが煙草に火をつける動作をするからこそ成立していたのではないかと思います。目で追っては未練がましいですし、首を振ったりしても余分な感情が出てしまいます。煙草に火をつけるという普段の癖で終わるから、この二人の関係が映像化されるのですよ。たぶん現在では屋外で煙草を吸うこと自体が禁止なので映像化できませんから、これこそがクラシック映画にあるべき名場面・名ラストシーンなのだと言えるでしょう。(T021125)
コメント