ミツバチのささやき(1973年)

スペインの田舎町の情景を少女の視点で描いたビクトル・エリセの傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』です。1940年にスペインのバスク地方に生まれたビクトル・エリセが三十三歳のときに発表した長編第一作で、スペイン内戦直後の農村に住む家族を主人公にして次女アナの視点で描いた一種のファンタジーともいえる作品です。本作はスペイン映画界では最も名誉あるサン・セバスティアン国際映画祭でグランプリを獲得していまして、1985年に遅れて公開された日本でもキネマ旬報ベストテン外国映画部門の第四位にランクインしました。ちなみにその年の第一位はミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』でした。

【ご覧になる前に】少女を演じたアナ・トレントは本作の公開時は七歳でした

スペインの田舎町にやってきたトラックに子供たちが群がっています。トラックから小さな町の公会堂に運び込まれたのは映写機とフィルムで、大人たちが上映会を開く準備を始めます。森の一角で養蜂を営む中年男が帰宅すると妻は外出中で、自室で手紙を書いた彼女は自転車で駅まで投函しに行っていたのでした。その晩公会堂の白壁に映し出された『フランケンシュタイン』を見た子どもたちの中に彼ら夫婦の子供であるイザベルとアナの姉妹がいました。夜、ベッドでアナは怪物のことをあれこれ質問するのですが、イザベルは明日教えると言って眠ってしまいます…。

ビクトル・エリセは寡作の映画監督として知られていまして、長編第一作の本作を発表したのち、10年後にやっと第二作『エル・スール』を完成させ、第三作となる『マルメロの陽光』は1992年に公開されています。そして2002年に『10ミニッツ・オールダー』というオムニバス映画で10分間の短編を監督しましたから、まさに10年の一作のペースでしか映画を作っていないことになります。そしてなんと二十年経過した2023年に四本目の長編を製作したという話で、この新作は3時間近い大長編になっているそうです。

ビクトル・エリセは日本映画ファンとしても知られていて、中でも溝口健二に関しては1964年にスペインでは初めてとなる長文の溝口論を発表したほどでした。溝口健二没後50年を記念して東京で開催された国際シンポジウムに招かれたビクトル・エリセは自らの溝口体験を語っていまして、エリセがはじめて溝口の映画を見たのは彼の兵役中のことでした。その以前に黒澤明の『羅生門』と衣川貞之助の『地獄門』でしか日本映画を見たことがなかったらしく、溝口健二の映画が発する音楽的なリズムに巻き込まれてしまい、スペインのフィルモテーカで回顧上映されるたびに溝口作品を繰り返し見たと語っています。

この『ミツバチのささやき』は主人公の少女アナの大きく可愛らしい瞳とともに記憶されておりまして、アナを演じたのは公開時七歳だったアナ・トレントでした(撮影時にはまだ六歳だったようです)。本作の3年後にはカルロス・サウラ監督の『カラスの飼育』という映画に出演していて、そのまま映画出演を継続して現在でもスペインを代表する女優のひとりになっているそうです。

キャメラマンのルイス・カルラードは、本作撮影時には脳にできた腫瘍の影響によりほとんど目が見えなくなりつつある時期だったそうで、アシスタントが撮ったポラロイド写真を虫眼鏡で拡大して確認し、その場で照明を修正するなどの指示を出しました。本作が完成した七年後、完全に失明してしまったカルラードは腫瘍の痛みに耐えきれず自殺することになります。まだ四十六歳という若さでした。

【ご覧になった後で】多くを語らず観客の想像力を信頼する映画的な映画です

いかがでしたか?日本初公開時以来久しぶりに再見したのですが、初見のときの記憶がほとんど飛んでいて、初めて見る映画のような新鮮な気分で鑑賞することができました。忘れっぽいということはそのような利点もあるのです。そしてあらためてなぜ『ミツバチのささやき』が時を越えて繰り返し映画館で上映され続けられるのかがわかったような気になりました。この映画はストーリーテリングの巧さで観客を引き込むような通俗的な作品ではありません。美しい映像と短いセリフが観客に提供されるだけのイメージの連なりのような、きわめて映画的な映画なのです。こうした作品は映画でしか作ることができませんし、小説や演劇やマンガや音楽では絶対に無理でしょう。現在的にはあまりに情報過多な映画が主流になっていますけれど、少女アナが認識する世界を少女の視点から切り取ると逆に想像の余地が無限に広がるような余白部分の大きい作品になるのです。映画らしい映画、それが『ミツバチのささやき』だといえるでしょう。

具体的にいえば、トラックでやってきた大人たちは映画の上映会のために来たなんてことはひと言も言いません。運ぶものがフィルム缶だったり入場料を言ったりするので、田舎町を巡業する移動映画館なんだということが説明抜きでも見ているだけでわかります。アナの父親は養蜂業を営んでいるようですが、何間もある立派な邸宅に住んでいてお手伝いさんも雇っているので、どうやら養蜂は彼の趣味、あるいは研究分野のようにも見えます。また歳が離れているように見える若い妻は夫の知らないところで遠いところにいる男性に手紙を送っているようで、夫婦仲はうまく行っていません。アナが昔の写真アルバムを見る場面が出てきますが、どうやらこの夫婦は再婚のようで、イザベルとアナの姉妹はどちらかの連れ子なのかもしれません。列車から飛び降りて、井戸のある小屋に身を潜める兵隊は、スペイン内戦時のどちら側の兵士なのかよくわかりません。そしてひとりで逃げ出したアナが真夜中に川べりで見た怪物は、はたして本物なのでしょうか。

というわけで余計な説明や描写がそぎ落とされているのでよくわからないことが多い話なのですが、この映画を体験するにはわからないことが多くても良いのです。というのも少女アナから見た世界はわかることのほうが少なくてわからないことだらけなわけで、そのアナが見た世界に身をゆだねて次第に巻き取られていくのが『ミツバチのささやき』という映画を見ることそのものなのです。だから川べりでアナが出会う怪物はアナの目から見たら本当に存在しているわけですし、そんな怪物なんているわけがないなんていう大人の常識は本作ではまったく意味のないことでしかありません。

ビクトル・エリセのすごいのは、映画の作法としてはそのような少女主観の映画であることを見せないところで、陰影の濃いスタティックな映像を並べて幼い姉妹の日常を淡々と描いていきます。ところがイザベルが転落して倒れる悪戯あたりから、観客の気持ちはアナよりになってしまっていて、イザベルは死んだんだなと一瞬思い込んでしまいます(アナがイザベルの身体を揺するときにイザベルの瞼が動いたりするので「子役だから死体になりきるのは無理だよなあ」なんて考えたりしたくらいです)。だから兵士がどちら側なのかとか脱走兵なのかなんてことはアナすなわち観客にとってはどうでもよくなって、兵士は怪物とイコールのような突然の侵入者みたいに見えてくるんですよね。こうした映像上の錯覚というか映画の中の存在を映画の中に入り込んで感じるというような体験が、この『ミツバチのささやき』を見ることそのものなんではないでしょうか。

実際に撮影当時、アナ・トレントはフランケンシュタインの怪物が現実に存在すると信じ込んでいたんだそうで、川べりの場面を撮影するために特殊メイクした俳優に「なぜあなたは女の子を池に放り込んだの?」と聞いたんだとか。公会堂で上映された『フランケンシュタイン』を見ているときの子供たちの表情はたぶん隠し撮りで撮影されたものだと思いますので、アナは実際に『フランケンシュタイン』を全編見たはずです。そのうえで疑問に思ったことを怪物にぶつけてみたんでしょうけど、実はこの映画を通じて観客もアナと同じように映画の中のことを現実に体験しているような気になってくるのでした。

ルイス・カルラードが失明寸前であったためかどうかわかりませんけど、いくつかのショットでピントが甘くボヤけたようになっている映像がありました。たぶんわざとピンボケにしたのではないと思いますが、そのほんのちょっとのハズし方がなぜか本作の雰囲気にはぴったりくるように感じられました。本作をスペイン内戦時の政治状況や映画公開時のフランコ独裁政権へのスタンスなどを象徴しているというような見方もあるようですけど、そんな政治的主張などアナの認識する世界にはなかったはずです。『ミツバチのささやき』はあくまでも映画らしい映画として、アナの目を通じて見るのがいちばんの愉しみ方なのではないかと思います。(T090723)

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