山河遥かなり(1948年)

大戦後のドイツで生き別れになった母と子を描いた社会派ドラマの傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フレッド・ジンネマン監督の『山河遥かなり』です。第二次世界大戦終結後に発覚したナチス・ドイツによるホロコーストは世界に衝撃を与えましたが、本作はアウシュビッツ収容所を生き延びた母と子の戦争直後の姿を描いた社会派ドラマで、モンゴメリー・クリフトのデビュー作でもあります。1948年度アカデミー賞では脚本(原案)賞を受賞したほか、主人公の少年を演じたイワン・ヤンドルに優れた子役ということで特別賞が与えられました。

【ご覧になる前に】瓦礫と化したドイツの街でロケーション撮影されました

駅に着いた貨車の扉を開けると中で眠っていた大勢の子供たちはボロ着のままでよろよろとトラックに乗り込みます。ドイツ兵舎を再利用した国連救済所の建物に収容された子供たちはパンとスープを与えられ、職員の大人たちに怯えながら寝床につきます。世話係のマレー夫人が調書を作るため子供たちとひとりずつ面接を進めていくと、何を質問してもドイツ語で「知らない」しか話さない少年がいました。その少年はチェコのプラハで音楽一家の両親・姉と幸せに暮らしていたカレル・マリクで、ナチス・ドイツによって収容所に送られた後に生き残った母親と離ればなれになっていたのでした…。

本作を製作したのはスイスのチューリッヒに本拠地を置くプレゼンス・フィルムで、創設者のラザール・ヴェクスレルはスイスを拠点に人道的なテーマを扱う映画を多く製作して国際的に高い評価を受けた人でした。ダヴィド・ヴェクスレルはその息子で、リヒャルト・シュヴァイツァーと共同で書いたオリジナル脚本は当時のアカデミー賞脚本(原案)賞を獲得しています。

リヒャルト・シュヴァイツァーは1945年に『マリー・ルイーズ』(日本未公開)でオリジナル脚本賞を受賞していますから二つ目のオスカーだったことになります。ちなみにアカデミー賞の脚本部門はしょっちゅう括りが変更になっていまして、1948年だけは原案と脚色の二部門のみでオリジナル脚本賞はなかったのです。不思議というか結構いい加減だったんですね。

プレゼンス・フィルム製作ながらクレジットではMGMが製作・配給しているのでアメリカ映画という位置づけになるのですが、屋外撮影は敗戦したドイツのアメリカ占領地区で行われ、室内部分はスイスのチューリッヒで撮影されたそうですから、たぶんプレゼンス・フィルムのスタジオが使われたようです。キャメラマンをはじめとしたスタッフもスイス系の人のようですので、監督のフレッド・ジンネマン以外はプレゼンス・フィルム配下のスタッフがほとんどだったのかもしれません。

ウィーンでユダヤ系ドイツ人の家に生まれたフレッド・ジンネマンは、1929年にアメリカに渡って大恐慌下でエキストラや助手などをした後にドキュメンタリーや記録映画の監督として下積み時代を送りました。1941年にMGMで監督デビューしたもののB級作品ばかりやらされているうちに脚本を読むとオファーを断るようになり、スタジオの上層部から煙たがられるようになったんだとか。そこへプレゼンス・フィルムから本作の企画が来て、MGMとしてもドイツの撮影場所に遠ざけることができるとジンネマンに監督を任せることにしたらしいです。

モンゴメリー・クリフトはブロードウェイの舞台で主役をつとめているところをハリウッドに注目されたのですが、モンティ本人は映画界に入るのを断り続けていました。メジャースタジオに所属しないということで最初に映画出演したのがハワード・ホークス監督の『赤い河』。1946年に撮影が行われたものの類似作品があって法的な問題がクリアできず劇場公開が先延ばしになっている間にモンティが出演した二作目がこの『山河遥かなり』でした。結果的に本作が『赤い河』よりも7か月先に公開されたため、フィルモグラフィ上では本作がモンゴメリー・クリフトのデビュー作になりました。

【ご覧になった後で】ドキュメンタリーとヒューマンタッチの混在が効果的

いかがでしたか?貨車で子供たちが国連救済所に連れて来られる導入部から川に飛び込んだカレルが川岸の葦の間に隠れる中盤までのドキュメンタリータッチな演出にまず注目でした。セリフの大半は事務的なもので、子供とのやりとりでもドイツ語だけでなくフランス語やポーランド語、ハンガリー語などが字幕なしで使われるため、親とはぐれた孤児たちの世話を連合軍が進めている様子が淡々と描かれます。しかし静かな描写でえぐりとられるのは、無表情で感情の発露のない子供たちが常に何かに怯えている様子。特に軍服姿の職員がパンに手をやると近くの子供たちが一斉に立ち上がり両手をあげて脇の下にパンを隠していないことを示す動作をするショットは、収容所で痛めつけられてきた記憶から逃れられない子供たちの心が深く傷ついていることを的確に表現した残酷さがありました。

川で友人が溺れ死んでしまう展開は、ヒッチコックが『サボタージュ』で犯した誤りのように子供を殺すという禁じ手を使っていて、本作のドキュメンタリータッチが行き過ぎた部分ではないかと感じましたが、カレル少年(英語で言えばチャールズくんですね)を探す母親ハンナが帽子を残して溺死したと告げられる場面まで来ると脚本の整合性上仕方ないのかなと思い直しました。で、モンゴメリー・クリフト演じる米兵がカレルを引き取ってジムとして英語を教えるあたりからドキュメンタリータッチは影を潜めて、本作はヒューマンタッチの社会派ドラマに転調していきます。ここをどう評価するかが分かれ目のようで、双葉十三郎先生は本作を評価しながらも中盤以降については定石的でアメリカ自慢が目立つと手厳しくコメントしていました。

確かに少年が出自不明にもかかわらず、英語を覚えると多くの国で話せる(イギリスではむずかしいかもというジョークがいかにもアメリカ的でした)と教え込んだりジムと名付けたりするのは、見方を変えれば植民を進める帝国主義っぽく見える危険性があります。でもモンゴメリー・クリフトが演じることによって若い米兵が心の底から少年に親しみを感じて情が移ってしまったんだろうなと観客は共感し始めてしまうのですよ。ジムと呼ばれて笑顔が見られるようになった少年に安心しない観客はいないでしょうし、偽善っぽさはひとつも感じられません。ここらへんは脚本のうまさだと思いますし、フレッド・ジンネマンも抑制を利かせた演出を徹底しているので、ぐんぐんと映画の世界に引き込まれていく感じがしました。

そしてアパートに同居しているフィッシャーの家族がやってきて母親の存在を目の当たりにしたジムが夜中に出ていってしまうシークエンスはサスペンスフルでもあり、早朝工場に出ていく女性たちの中に母親がいないかジムが金網越しに探す横移動ショットは非常に印象に残ります。だから丘の上に座り込んでいたジムがモンティに抱きついて泣き出す展開が涙を誘うのです。救済所で働く母ハンナが一旦は鉄道に乗り込むように見せながら、再度孤児たちの世話をするため戻ってきて、やっとのことでカレルを見つけるラストショットも、たぶんこうなるだろうなと予測はできてしまうもののやっぱり感動的で涙を止めるのは難しかったです。米兵、カレル、母親、世話役のマレー夫人など本作に出てくる登場人物がしっかり描けているからこそ、お涙頂戴の母子ものにならず静かな感動を呼んだのだと思います。

ナチス・ドイツによるホロコースト、すなわちユダヤ人虐殺は1942年にポーランドの抵抗組織から情報が寄せられて連合軍も把握していましたが、あまりに非現実的だったので報道の対象になりませんでした。しかし1945年1月にソ連軍によってアウシュビッツが解放されたのを契機に収容所の様子がニュース映像として拡散され、世界中がホロコーストの実態を知ることになったのでした。ちなみに国家が計画的に行ったユダヤ人絶滅計画すなわちホロコーストだけではなく、群集によるユダヤ人への集団暴行=ポグロムは第二次大戦以前から発生していました。ユダヤ人はキリスト教社会の中の異分子であり、土地所有を禁じられ農業に従事できないユダヤ人がキリスト教で禁じられていた金貸しを担った結果、強欲であるという偏見が定着してしまったのです。

しかしながら本作にはホロコーストの残虐性を暴き立てるとか家族を引き裂く戦争の悲惨さを訴えるとかいったトーンが一切ありません。すべてはすでに起こった過去のこととして受け止め、戦争を経験したうえでこれからどのように生きていこうかという前向きな姿勢が貫かれています。アウシュビッツを生き残った母子を取り上げていながら、本作が暗さよりもむしろ明朗な印象の映画になっているのは、モンゴメリー・クリフトの誠実さや母親を演じたヤルミナ・ノヴォトナの諦めない強さによるものではないでしょうか。

特にモンゴメリー・クリフトの演技は映画出演二作目とは思えないくらいリアルな存在感がありました。なんでも撮影のためにドイツに到着するとモンティは陸軍工兵部隊に住み込み軍服の生活を送ったそうですし、脚本に書かれたセリフが砂糖のように甘すぎると言って自分で練り直して自然な言葉に変えてしまったんだとか。確かにモンゴメリー・クリフトのナチュラルさは演技しているというよりは役そのもののようでしたし、クリント・イーストウッドは俳優として本作のモンティに最も影響を受けたと後に語っています。

自然な演技という点ではカレル役のイワン・ヤンドルはモンゴメリー・クリフト以上だったといってもよいでしょう。本作は彼がいなければ成立しなかったでしょうし、無表情な前半と母親を探す後半で違う演技を完璧にこなしていたのも驚くべきことです。アカデミー賞特別賞受賞はプラハにいたヤンドルに伝えられたのですが、当時のチェコスロバキアではその価値が伝わらなかったそうで、世界中からのオファーも「ヤンドル君はチェコ映画界に温存すべき」と判断されてすべて断ったんだとか。結果的にイワン・ヤンドルは3本の映画に出演しただけで五十歳の若さで亡くなってしまいました。

そうした俳優の演技がすばらしいのはもちろんですが、何よりもドイツでロケーション撮影したことが本作の根本的な成功要因でした。特に前半部分で映し出される破壊された街や半壊した建物、そこらじゅうに転がっている瓦礫などを映し出したショットは、その映像だけで観客の胸に突き刺さるようなショックを与えます。ベルリン攻防の市街戦を映した映像やブランデンブルク門に掲げられたハーケンクロイツが爆破される映像はよく目にしますけど、戦争終結直後のドイツの実態を残す映像はほとんど見たことがありませんでした。木造建築が多い東京が焼け野原になったのとはまた違った意味で、石造りの建物を中心とした街が破壊されるとこうなるんだなというような、爆弾によって普通の生活が木っ端みじんにされたリアリティがこれらの映像に感じられました。

ドイツの国土はアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の四ヶ国によって分割・占領され、ソ連占領地域がそのまま東ドイツになりましたから、本作のロケーション撮影は後の西ドイツで行われたことになります。アメリカ占領区域は西ドイツの南東部にあたり、ニュルンベルク、ミュンヘン、フランクフルトなどの都市で本作のロケ撮影が行われたそうです。西ドイツが成立するのが1949年ですから、1948年公開の本作においてアメリカ占領下数年間のドイツの姿が映像として残されたのは、現在的に見ると貴重な歴史的アーカイブであると思います。(U011026)

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