姿三四郎(昭和18年)

黒澤明は原作の発売広告を見ただけで映画化を決意して監督デビューしました

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こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、黒澤明監督の『姿三四郎』です。本作は誰もが知る黒澤明の監督デビュー作ですが、黒澤明は富田常雄の原作が出版されるという広告を見てプロデューサーの森田信義に「これを買ってください」と頼んだそうです。出版前なのでもちろん黒澤はその小説を読んでいませんでしたが、黒澤には「イケるというカンみたいなもの」がありました。公開されるや大ヒットを記録して、黒澤明はここから日本を代表する映画監督の道を歩み始めることになったのでした。

【ご覧になる前に】柔道対柔術という題材で戦時下の内務省検閲を通りました

明治十五年、散切り頭の人々が歩く通りを横に曲がった三四郎は通りゃんせをして遊ぶ子供たちに教えられて門馬三郎宅を訪ねます。神明活殺流を説く門馬と門人たちは警視庁武術指南役に就いた修道館柔道の矢野正五郎と対立していて、深夜大人数で矢野に闇討ちをかけたものの全員が川に投げ込まれてしまいました。矢野の輌を引き道場に入門した三四郎は季節が変わるごとに力をつけて、町のお祭りの最中に男たち相手にひと騒動を起して矢野に呼びつけられます。「お前は人間の道を知らぬ」と矢野から一喝された三四郎は死ぬ気概を見せようと庭の池に飛び込み、一晩杭につかまりながら水に浸かります。寺の和尚はそんな三四郎を見て「まだ悟れぬな」と言い、三四郎は夜明けの鶏の声を聞きながら一輪の蓮の花が咲くのを見つめるのでした…。

黒澤明から原作のことを聞いた東宝のプロデューサー森田信義は翌日企画課にいた田中友幸を富田常雄の家に差し向けます。その二日後には松竹と大映も富田常雄のところに現れたといいますから、戦時下内務省の検閲を通過しないと映画が作れなかった時代にあって、この「姿三四郎」という小説は柔道と柔術を扱っていたため国策にも合致しながら娯楽映画としても成立するギリギリの題材だと受け止められたのでしょう。結果的には富田夫人が映画雑誌で前途有望な黒澤明のことを読んで知っていたことから、東宝が映画化権を獲得することになりました。

出版された小説を読んだ黒澤明は一気に脚本を書き上げて、初監督作品にも関わらずはじめてという感じでなく撮影が開始されました。というのも黒澤明は山本嘉次郎監督の『馬』ではB班を受け持って事実上の監督として現場を仕切っていましたから、撮影の手順や演出のコツも十分心得ていたのでした。しかし周囲の人の証言では「ヨーイ、ハイ」というクランクインの第一声が普段とは違って軽くいかず、ちょっと緊張していたそうです。このとき黒澤明は三十二歳。ここから「世界のクロサワ」のキャリアはスタートしたのです。

キャメラマンの三村明は黒澤より九歳年上。十八歳のときアメリカに渡り日本人として初めてハリウッドのユニオンに加入して撮影助手として60本ほどの映画に携わりました。昭和9年に帰国するとPCLに入社しそのまま東宝専属キャメラマンとして数多くの作品で撮影監督をつとめます。山中貞雄の『人情紙風船』、山本嘉次郎の『綴方教室』『馬』『ハワイ・マレー沖海戦』などでキャメラを回し、山本組で一緒だった黒澤明はデビュー作ではその三村明に撮影を任せたのでした。戦後は新東宝から日活を経て各映画会社で撮影を担当していて、黒澤明監督とはこの『姿三四郎』でしか組んでいませんが、三村明の唯一の監督作品『消えた中隊』では黒澤明がオリジナル脚本を提供しています。

主演の藤田進は初期の黒澤映画には欠かせない俳優のひとりで、また戦時中にはその無骨で素朴な容姿をいかして軍人役を多く演じていました。戦後には怪獣映画や特撮映画での国防軍幹部といった役どころやTVの「ウルトラシリーズ」でも欠かせない俳優でしたね。クレジットで一番最初に出てくる大河内伝次郎は戦前を代表する日活の時代劇スターで、本作は昭和12年にJOスタヂオに移籍してそのまま東宝に籍を置いていた時期の出演作となります。戦後すぐの東宝争議では労組側にも経営側にもつかない「十人の旗の会」の発起人として中心的な役割を果たしました。そして敵役の檜垣源之助役を演じたのが月形龍之介で、気障な洋装をバシッと着こなして、片手に洋傘を持つ姿がなかなか堂に入っています。

本作は昭和18年3月公開時には上映時間が1時間37分でしたが、昭和19年3月に再上映された際に東宝や黒澤明に許可なく1時間19分に短縮されたバージョンが作られました。たぶんフィルムの使用量が制限されてすべての映画作品は90分以内で作らなければならない決まりになっていたために、その制約条件に合わせるための処置だったのでしょう。その際にカットされたネガが紛失されて、戦後の昭和27年5月に東宝が再公開する際には、わざわざ短縮版でも公開する意義があるという東宝によるテロップがくっつけられました。現在では満州経由でソ連に渡ったフィルムの一部が発見されて、1時間31分に復元されたバージョンが作られ、フィルムセンターなどで上映されるようになりましたが、今回見たのは昭和27年の短縮版となります。

【ご覧になった後で】黒澤明の演出術のエッセンスが詰まった傑作活劇でした

いかがでしたか?ドナルド・リチー先生も「今なお驚異に値する映画」で「映画全体が単刀直入性、秩序、壮麗な運動美をそなえている」と絶賛した通り、これが新人監督による第一作なのかというほどに黒澤明らしさが横溢していて、映像を見ているだけで黒澤映画だとわかるようなオリジナリティに満ちていました。それだけのスタイルを助監督や製作主任をしているときに身につけていたわけですし、それを映像にして具現化するというのは現場スタッフを思い通りに指揮しなければ実現できません。本作は黒澤明がデビュー段階ですでに一流の監督術を身につけていたことを十分に証明しているといえるでしょう。

まずは映像の躍動感がすごいですよね。三四郎による柔道の実戦シーンは三か所ありますけど、どれも映像の組み立てが全く違っています。小杉義男との勝負はややロングショットで周囲の観客越しに二人の激しい動きをとらえますが、志村喬との試合では長時間の熱戦になっていることを表現するためにオーバーラップを多用していて、それが試合をしている藤田進と志村喬を一体に見せる効果がありました。そしてクライマックスの月形龍之介との因縁の勝負は荒れ狂うススキを背景にして締め技をきめられた藤田進の視界に映る雲が画面いっぱいに流れていきます。そしてその雲が蓮の花に変わった瞬間に藤田進の返し技によって決着がつくという緊張の中に幻想を交えたドラマチックな演出になっていました。

これらの試合場面では印象的なショットが散りばめられていて、板塀に投げつけられた小杉義男をとらえところでは外れた障子がスローモーションで落ちてくるショットが使われていました。これが『七人の侍』で志村喬や宮口精二が敵を倒すときに使ったスローモーションの源流なのかと思うとちょっと感慨深いものがありました。また志村喬が投げられて勝敗が決まるところでは試合会場全体を斜め上からとらえた俯瞰のロングショットに切り替わります。この俯瞰ショットが実にカッコよくて思わず「やった!」と手を叩いてしまうくらいエキサイティングでした。そして極めつけは月形龍之介がさかさまになってススキ草原を落ちていくロングショット。ここはスタジオ撮影の予定だったところセットがあまりに貧弱だったため黒澤明が懇願して三日間だけ箱根の仙谷原ススキ草原でのロケーション撮影が認められたんだそうです。ところが仙谷原に全く風がなく、最終日にやっと強風が吹いてあのようなススキがなびく映像が撮れたのでした。

ワイプの使い方も左から右、右から左、下から上などさまざまなタイプのワイプを縦横無尽に使いこなしていましたし、短いショットを重ねて時間の経過を表現する手法も冴えていました。序盤で藤田進が脱いだ下駄が道に転がり塀に吊るされ雪をかぶって川に流されとだんだんとボロボロになっていくさまを見せていくところなんかは本当に巧いですよねえ。あと轟夕起子が手ぬぐいを返そうとして神社への坂道で何度も藤田進とすれ違うところも、アングルの違うショットをつなげているだけで次第に二人の心の距離が縮まるのが伝わってきました。こういうのを見ると、黒澤明が第一作から映画の中の時間を完全にコントロールしていることがわかります。ベテランでもこれができていない映画監督も少なからずいるので、早くから監督術の基本を習得していた黒澤がこの第一作ですでにトップクラスの監督であったことが証明されていました。

同時に黒澤明の最大の欠点である女性の描き方が下手だという点も本作ですでに明らかになっていました。これはカットされた短縮版だったからかもしれませんけど、花井蘭子演じる小杉義男の娘が父親の負け試合を凝視するショットはちょっと長過ぎますし、その後包丁をもって復讐に来るという感情の動きもうまく表現できていませんでした。また轟夕起子はいかにも伝統的な一歩下がった古くからの理想の女性像のようにしか見えず、お人形さんのような存在でしかありませんし、最後の果し合いに突然現れるのもかなりの唐突感がありました。でもまあ戦時下の柔道を題材にした映画では女性をしっかりと描くのはどのみち出来なかったかもしれませんね。

配役にどれくらい黒澤の意見が入っているかわかりませんけど、大河内伝次郎を起用したことで作品自体にずしりと重みが出ましたし、高堂国典に和尚をやらせたり河野秋武に同門の先輩をやらせたりするのがいずれも適役に感じられました。志村喬は日活を中心に150本近くの映画出演歴をもっていましたが東宝作品への出演は本作がはじめてです。なんでもプロデューサーの森田信義が志村喬の恩人にあたるそうで、松竹で干されていた志村に東宝への移籍を勧めたのが森田だったそうです。本作ですでに志村喬と藤田進との間には師弟愛的な関係が見られますので、黒澤明が志村喬という俳優を得られたのもこの第一回監督作品だったわけです。いろんな意味で日本映画史にとって大変に重要な作品であることは間違いないと思われます。(U051523)

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