女の園(昭和29年)

キネマ旬報ベストテンで『七人の侍』の上を行く第二位にランクされました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、木下恵介監督の『女の園』です。昭和29年は日本映画にとっての特異年で、日本映画史上に名を残す名作が次々に製作・公開された年です。『七人の侍』『二十四の瞳』『近松物語』『山椒大夫』『ゴジラ』などなど。で、この年のキネマ旬報ベストテンでトップに選ばれたのは木下恵介監督の『二十四の瞳』で、戦後十年も経過していない時期ですからそれは当然の結果だったかもしれません。ところがなんとこの『女の園』が第二位に入り、『七人の侍』が第三位だったのは、現在的に見ると驚きしかありません。

【ご覧になる前に】封建的な女子大の教育方針に反旗を翻す女学生のお話です

正倫女子大学は戦後になっても旧弊で封建的な教育方針を堅持していて、女学生たちには自宅から通う京都在住者と寮に入る地方出身者がいます。実家が姫路で瀬戸物店を営んでいる芳江は、銀行勤めをした後で学校に入り直したため勉強についていくことができず夜間に自習しようとしますが、寮母の五条は寮生の生活を事細かに管理・干渉して、芳江に消灯時間厳守を言い渡すのみならず、東京に住む恋人とやりとりしている芳江の手紙を検閲してその交際を咎めます。それを知った明子は、学生の自主が認められない校風に異議を唱えますが、明子の父親が大学に多額の寄付をしている実力者であるため、五条は明子を特別扱いするのですが…。

本作は阿部知二という人が書いた「人工庭園」という小説が原作になっています。阿部知二は英文学者でもあり、メルヴィルの「白鯨」をはじめて翻訳したということで名を残しているらしいです。脚色は木下恵介自ら行っていまして、スタッフはおなじみの木下組の面々。音楽の木下忠司が実の弟だということは有名ですが、キャメラマンの楠田浩之は木下恵介の妹の芳子と結婚して、木下の義理の弟になったんだそうです。後に妹の楠田芳子は脚本家になって木下恵介の『夕焼け雲』を書いたりしていますので、木下組というのは半分くらい家族で構成されていたわけです。

本作は女子大を舞台にして封建的な教育を押し付ける大学側に反対する学生運動を描いていますが、日本における学生運動は明治期からすでに存在していて、大正デモクラシーの影響を受けて第一次大戦後に活発化したと言われています。もちろん日中戦争から第二次大戦までは学生運動の組織自体が解体されてしまいましたが、戦後になると大学でも民主化の動きが活発化して、昭和23年には早くも各大学の自治会が連携した「全学連」が結成されました。全学連に大きな影響を及ぼしていたのが当時の日本共産党で、昭和24年の総選挙で35人もの議席を獲得するほど国民から支持を集めていました。しかし朝鮮戦争の勃発を契機に昭和25年以降GHQはレッドパージへと方針転換し、日本政府は共産主義者の排除に動き出します。本作でも「共産党員」とか「アカ」というセリフが出てきますので、世相としては学生運動をする者は共産党に影響された危険分子だとみなすような風潮があったのでした。

『女の園』というくらいですから、出演している女優陣も豪華な配役で、主演が高峰三枝子と高峰秀子のダブル高峰です。生まれは高峰三枝子が1918年、高峰秀子は1924年と三枝子のほうが六歳年上ですが、映画デビューは秀子が1929年(昭和4年)とひと足先で、三枝子の映画初出演は1936年(昭和11年)ですから、秀子はかなり早くから子役として映画界で働いていたことになります。ちなみに二人は何の縁戚関係はなく、高峰秀子の本名は平山英子。養母が活弁士として名乗っていた高峰秀子という名前を映画デビュー時にそのまま芸名にしたのだとか。この養母志げとの親子関係はなかなか壮絶なものがあったらしく、そこらへんは高峰秀子の半生記「私の渡世日記」に詳しく書かれています。

ダブル高峰に加えて岸恵子と久我美子が主演していまして、岸恵子は前年『君の名は』が大ヒットしたばかりのとき。久我美子は東宝の第一期ニューフェイスの一人ですが、本作のクレジットではカッコ大映となっていて、にんじんくらぶを創設する直前に大映専属だったことがあったのかもしれません。脇では望月優子、東山千栄子、浪花千栄子が出演していて、京都が舞台になっていますから浪花千栄子の京ことばにも注目です。

【ご覧になった後で】学生運動を先取りした反面、今見ると古臭い感じでした

うーん、この映画が『七人の侍』や『山椒大夫』よりも高評価だったとはにわかに信じがたいですね。世界の多くの映画監督たちが、彼らの人生に大きく影響を受けたと明言している黒澤明や溝口健二の作品よりも上のベストテン第二位ですよ。昭和29年当時の映画評論家たちが高い点数を本作に与えるとすれば、時代の空気が学生運動に象徴される民主化を求めていたのか、あるいは映画評論家の多くがいわゆるシンパで映画史的な価値よりも政治思想的同志性を重んじたのか、そのどちらかしか考えられないですね。もちろん本作もそれなりに面白い作品であることは確かですけど、そこまでじゃないよねというのが実感ではないでしょうか。

まず登場人物たちがあまりにステレオタイプ過ぎてしまって、女学生の類型を一面的に演じているように見えてしまうところが欠点です。高峰秀子は床に転がって身悶えするなど熱演ではあるものの、ヒステリーっぽく見えてしまって自殺にまで追い込まれる内面的な苦悩を表現するまでには至っていませんし、高峰三枝子も教育上の信念とか学生の将来を思っての愛の鞭みたいなものが感じられないので、単なるサディスティックな圧制者にしか見えません。弱者に身を寄せるのではなく、親の庇護下にあることを利用して自分勝手な意見を述べているだけの久我美子、大学も恋愛もすべて中途半端にあしらうだけの性悪女の岸恵子などなど、出てくるキャラクターに魅力がないのが残念でした。

本作が映画デビューだという田村高廣も、いきなり上京してくる芳江に対して優し過ぎますよね。少し困ったなみたいな感じがほしいですし、そうすれば芳江が自殺したことにほんの少し罪悪感をもつことになって、単に大学や親を責めるだけの潔癖な正義感に終わらずに済んだと思います。そういう意味では、わずかワンショットしか出てこない望月優子の旦那さん。迷惑はご免だよと言いながら、芳江の父親役の松本克平に対して「もっと子供の気持ちを考えろ」とガツンとやるという、これくらいの複雑さを他の登場人物にも加えてほしかったです。

そんなわけで本作はのちの安保闘争に象徴される学生運動を何年も前に先取りしていましたので、当時としてはその先見性というか新鮮さが評価されたのだったのでしょう。けれども今となっては学生運動もすべて過去のことになってしまっていますので、鮮度はもちろん失われてしまい古臭さしか残っていない作品でした。木下恵介監督も脚本と俳優の演技を重視した演出で押していたので、映像的にはただ一か所、終盤で寮全体が混乱に陥る中で、目をギラリと光らせて久我美子の姿を追う高峰三枝子の顔の超クローズアップショットが、心底コワイ寮母さんを表していました。まあ、あとは映画の序盤の描写が群像劇を描くお手本のような捌き方だったところは記憶しておいてもよいかもしれません。

またまた蛇足ですが、松竹ホームページの作品データベースに本作が紹介されていて、上映時間が104分と記載されています。2時間21分もある長い映画なので、早く訂正してほしいです。しかし本当によく間違えますねえ。(A051422)

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