楢山節考(昭和33年)

姥捨て伝説に基づく深沢七郎の小説を歌舞伎様式を用いて映画化した作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、木下恵介監督の『楢山節考』です。原作は昭和31年に「中央公論」誌に発表された短編小説で、ギター奏者だった深沢七郎が楽屋などでしたためた作品を応募したら見事に中央公論新人賞を獲得し、三島由紀夫や武田泰淳に絶賛されたのでした。この小説に惚れ込んだ木下恵介は、歌舞伎の演出手法を用いてこの姥捨ての物語を様式美あふれる映像作品にしました。その独特な作風が高く評価されてキネマ旬報ベストテンで第一位に輝きましたが、ヴェネツィア映画祭ではフランソワ・トリュフォーらに支持されたもののグランプリは稲垣浩監督の『無法松の一生』に持っていかれてしまいました。

【ご覧になる前に】木下恵介監督の粘り強い熱意が映画化を実現させました

黒子の東西声が物語の開始を告げると、そこは山奥のさびれた村にある茅葺屋根の家です。来年の正月に七十歳を迎えるおりんは息子の辰平の後妻探しをしていたのですが、隣村から訪ねてきた飛脚がお玉を紹介してくれることになり、ほっと一安心した気持ちになります。というのも村では七十歳になった老人を楢山の山奥に置き去りにする「楢山参り」が慣わしになっていて、辰平が事故で嫁を失っていたのが気にかかっていたからでした。村の子供たちはおりんの歯が33本もあるとからかう替え唄を歌っていて、おりんは食料の乏しい貧村で歯が丈夫なことは恥ずかしいことだと感じ、自分の歯を石臼にぶつけて弱らせようとするのでしたが…。

日本中の観客を泣かせた『二十四の瞳』や日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』などを送り出した木下恵介監督は、押しも押されもせぬ日本映画界の巨匠のひとりになっていました。助監督の吉田喜重から紹介された深沢七郎の「楢山節考」をゲラ段階で読んでひと目で気に入った木下恵介は、すぐに松竹の製作本部長を通じて映画化権を獲得しましたが、社長の城戸四郎は「年老いた親を山に捨てるなんて映画は家族愛を信条とする松竹の方針に反する」といって映画化の許可を与えませんでした。それでも松竹を代表する木下恵介が熱望する企画なので、会社側から「興行的な大ヒット作を作ったら、そのご褒美にこの映画にとりかかっていいよ」という条件が出され、そんな経緯もあって『楢山節考』を作る前に木下恵介はまず『喜びも悲しみも幾年月』を作ることになったんだそうです。

結果的に灯台守夫婦が日本全国の僻地を巡る『喜びも悲しみも幾年月』は昭和32年度興行収入第二位の大ヒットを記録して、城戸四郎社長が木下恵介に感謝状を贈るほどだったとか。それですぐに『楢山節考』の製作に入ればいいものを、「全国ロケして金と時間をかければ誰だって『喜びも~』程度の映画は作れるさ」という大船撮影所内のやっかみの声を耳にした木下恵介は、「だったら低予算・短期間でもう一本撮ってみせる」と反発心を燃やしてさらに『風前の灯』という映画を一本作ってしまいます。『喜びも~』の封切りからわずか二ヶ月後に、同じ高峰秀子と佐田啓二を主演にして正反対の喜劇を公開したのですから、木下恵介の意地も相当なものだったようです。劇中には、映画を見に行こうとしている人物が新聞広告をみて「このナントカぶしこうって映画、つまらない題名だね」とつぶやくセリフが登場するらしく、簡単に『楢山節考』を撮らせてもらえなかった怨念の深さが感じられます。

『楢山節考』映画化にあたって木下恵介監督がとった戦略は、原作の伝説的な雰囲気を映像表現するために全編をスタジオセットで撮影し、舞台のような効果を強調するために歌舞伎の演出手法を大胆に取り入れることでした。なので本作の音楽は義太夫の野澤松之輔、長唄の杵屋六左衛門の作曲によるものになっていて、撮影当時の文楽で中軸だった竹本南部大夫の義太夫に野澤松之輔の三味線で木下恵介が書いた浄瑠璃が語られます。

また美術は伊藤熹朔(いとうきさく)で、『喜びと~』でも美術を担当していますし、その前には溝口健二監督の『雨月物語』や『山椒大夫』などでもセットを作ってきた日本の舞台美術監督の第一人者です。実弟があの千田是也だというのも調べてみてびっくりしました。キャメラマンは木下恵介の相棒の楠田浩之ですから、『カルメン故郷に帰る』の経験を生かしたうえで室内でのカラー撮影にのぞみました。なにしろすべてのシーン、すべてのショットをスタジオのみで撮影するのですから、セット数は36杯に及び、使用電力は大船撮影所の電気契約量を上回るくらいで、木下組の撮影中は他の組がライトを使用できないほどでした。

おりんを演じる田中絹代は撮影当時四十八歳ですから、七十歳の老婆を演じるために自らの歯を外して撮影にのぞんだそうですし、辰平役の高橋貞二は小津作品に出てくるのほほんとしたイメージは消し去って、親を楢山参りに連れて行かなくてはならない苦悩を表現するのに体重を10kg以上落としての出演でした。辰平の後妻お玉は木下作品には欠かせない望月優子。けさ吉には当時の市川団子があてられていて、のちに市川猿之助から二代目市川猿翁となる歌舞伎役者の若い時の姿が記録されています。

【ご覧になった後で】木下恵介の乾坤一擲の実験的演出が存分に味わえました

いかがでしたか?クレジットタイトルが歌舞伎の定式幕の上に出てくる開巻から始まって、そのまま劇的空間の中に幽閉されてしまったような閉塞感に襲われてしまうような映画でした。その閉塞空間がすべてセットで出来ているので、リアルなのに現実ではないちょっとしたズレ感というか、夢を見ているような感じというか、姥捨て伝説の世界の中に入り込んだような気分になっていきます。幕がおとされたり、舞台セットが移動したりして、場面転換が行われるのがいかにも歌舞伎的ではありますが、それよりもスタジオセットというのは奥行きが限られているわけで、あえて奥行きがないことを示す背景とそれを強調する照明が、閉じ込められた感じを増幅するようでした。それが、登場人物たちが古くから伝わる因習から逃れることができない絶望感や圧迫感の表現につながっていたように思えます。

そして本作の一番の見どころはやっぱり終盤の楢山参りのシークエンスでした。ここで36杯もセットを作ったというセット数の多さが目に見えてわかってくるのですが、普通ならロケーション撮影で村から山への道程の長さを表現できるところを本作では美術セットが村から次第に人里を離れた場所に変わっていくところを見せて、楢山のセットも山道がどんどん険しい岩場になっていくのが人工的に表現されています。ここで左から右に移動するショットだけでもかなりのバリエーションがあって、それは楢山参りで教えを授けられた「三つ目の山」とか「池を回って」とか「七曲がりの道」とかの具体的再現になっていました。美術セット自体で「楢山参り」の道行を見せるこのシークエンスは、監督だけではなくキャメラマンと照明、そして美術セットを組む大道具さん、小物を揃える小道具さんたちによるまさに総合芸術が結実した名場面だったのではないでしょうか。

この道行は、辰平がおりんに話しかけながらの上り、おりんを山においてからの下り、銭屋親子が谷底に落ちてからおりんのところへ戻る上り、おりんに最期の別れを告げた辰平が泣きながら走る下り、と二往復、合計四つの行程に分かれて描写されます。ここの人物の動かし方と移動撮影が本当に見事で、すでに仏の境地で達観したおりんに対して、辰平の複雑な気持ちの変化(親を想う気持ち、家族を養わなければならない責務、古くからの因習への呪い、自分の将来の予行演習など)が四つの行程ごとに違ったリズムで映像化されていて、単純な俳優による泣き叫びの演技だけではない、映像自体が非常にエモーショナルに観客に突き刺さってくるようでした。

そのほかにも印象深い映像は多々ありまして、楢山参りの指南を受ける場面の導入ショット。これは長回しで、辰平とおりんが話している戸外のショットが右にパンすると辰平の家の入口をとらえて、そこに指南役の村人たちが入っていくという流れになっています。驚いたことにここではひとつのショットの中に複数の時間が凝縮されていて、たぶん木下恵介としては舞台演出上の当たり前の時間経過表現のつもりだったんでしょうけど、現在的に振り返るとカッティングなしでふたつの時間を表現するという、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の先駆けにもあたる革命的ショットだったようにも感じられます。

さらに指南役がひとりずつ水瓶から水をのみ楢山参りの教えを告げるワンショット。ここは緑色のスポットライトによる照明が不気味であると同時に怪奇伝説的な雰囲気づくりにつながっていました。また楢山参り当日の辰平の家の入口をとらえた静的なジャンプショットも見事でしたねえ。家の中での支度は一切描かずに、辰平にとっては出かけたくない、おりんにとっては待ち望んだ楢山参りへの出立となる、切迫するような緊張感が徐々に入口がアップになるショットを繰り返す映像だけで伝わってきました。

このように映像があまりにも見事に構築されているので、俳優たちの演技も映像にのっかっている材料のように見えてしまうのは残念な点でした。確かに田中絹代はじめ全員が熱演ではありましたが、様式的舞台の演技者として配役ごとに演じているのだなあという感じになっていたのは、映像のインパクトの反動のようなものかもしれません。あと原作でもそうなっているのかわかりませんが、伊藤雄之助の又やんまで谷底に落ちてしまうのはどうなんでしょうか。観客はおりんと辰平の親子の気持ちに一点集中していましたので、なんだか余計な気を使わせられるような落下だったように思います。

木下恵介監督にとって畢生の作品となった『楢山節考』は、原作が評判になったこともあり興行的にもそこそこの好成績だったそうです。黒澤明や溝口健二が海外の映画コンクールで様々な賞を獲得していた時期だったので、木下恵介としては歌舞伎様式を導入したいかにも日本映画らしい本作で海外映画祭の賞を狙う気持ちはなかったとはいえないでしょう。ヴェネツィア映画祭金獅子賞を決める審査委員会は本作か稲垣浩の『無法松の一生』かどちらに賞を与えるべきか喧々諤々の協議がなされたといわれています。結果的には木下恵介はグランプリを逃し、以後海外映画祭での栄誉に到達することはできませんでした。『無法松の一生』の主演が海外で人気抜群の三船敏郎で、東宝が海外に知己の多い川喜多長政氏を現地に送り込んでいたのに対して、松竹は城戸四郎社長が「親を捨てる映画は日本の恥だ」といって代表を派遣せずにヨーロッパ駐在員任せにしていたことも木下恵介監督にとっては不利になったのかもしれません。

ここらへんの経緯は、長部日出雄著の「天才監督 木下恵介」に詳しく書かれていますので、ご興味があればぜひご一読ください。(A062522)

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