八甲田山(昭和52年)

新田次郎の小説を橋本忍が脚本化してから3年がかりで製作された超大作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、森谷司郎監督の『八甲田山』です。八甲田山雪中行軍遭難事件を取り上げた新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」は昭和46年に出版されてベストセラーになりました。橋本忍は昭和49年にその映画化権を獲得するとすぐに八甲田山でロケハンを始めますが、雪山での撮影は困難を極めて結果的に完成まで3年の歳月が費やされることになりました。東宝系で公開されると大ヒットとなり、昭和52年度の日本映画配給収入でトップの25億円を記録し、キネマ旬報ベストテンでも第4位に選出されています。

【ご覧になる前に】スタッフが防寒・防雪パナビジョンキャメラを開発し撮影

第四旅団司令部の会議室では中林参謀長がロシアとの戦争に備えて寒地訓練が必要だと訴え、友田旅団長は青森第五連隊の神田大尉と弘前第三十一連隊の徳島大尉に「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わんか」と問います。やむなく了解させられたうえ青森と弘前を出発した双方が八甲田山ですれ違うというルートまで強制させられた神田大尉は雪中行軍の経験がある徳島大尉の自宅を訪ね、隊の編成や装備などの指南を仰ぎます。弘前隊が少数精鋭で240kmを11日間かけて踏破することを知った青森連隊の山田少佐は、晴天に恵まれた事前の予行演習を成功裡に収めたことから神田大尉に200名を超える中隊編成を組むよう指示するのでしたが…。

八甲田山雪中行軍遭難事件は、日露戦争勃発の二年前にあたる明治35年に八甲田山田代新湯に向う青森第五連隊210名が行軍の途中で遭難した事件で、199名が死亡した近代登山史において最悪の遭難事故と言われています。この事件を題材にして「八甲田山 死の彷徨」を書いた新田次郎は、気象庁に勤めながら山岳小説を書き始めたという人で「強力伝」で直木賞を受賞すると作家活動に専念するようになりました。

昭和46年に出版された原作の映画化権を入手した橋本忍は、長年温めてきた『砂の器』を完成させるために自らの製作プロダクション「橋本プロ」を立ち上げ、松竹系で公開された映画は大ヒットを記録しました。その橋本プロの第二回作品として企画がスタートしたのが昭和49年はじめのことで、橋本忍は松竹と東宝を天秤にかけながら東宝系で公開する有利な契約を取り付け、『砂の器』で「製作協力」という立場にいたシナノ企画を共同製作に引き込みます。

シナノ企画は昭和48年公開の『人間革命』を製作していて、創価学会の関連企業として学会員の動員に多大な影響力を持っていました。橋本忍は信仰や思想よりも学会員の組織的動員が期待できるシナノ企画と組むことによって公開後の興行成績に保険をかけたわけで、橋本忍の思惑通り確実な安定的観客動員をベースにして大ヒット作品が生み出されたのでした。

そのような製作体制を組んだものの八甲田山の現地ロケーション撮影は困難を極めたそうで、昭和50年2月に雪の実景撮影からスタートして最終的に撮影が完了したのは足掛け2年後の昭和52年2月のことでした。平均気温零下15度、風速1mごとに体感温度が1度ずつ下がるという極寒条件の中では普通の機材は動かなくなってしまいます。そこでスタッフはモーター部分を電気毛布で覆うとともにレンズの前に両側から強烈な空気圧をかける装置でレンズに雪が付着しないようにした防寒・防雪のパナビジョンキャメラを開発しました。このキャメラは零下50度までの撮影に耐えられたんだそうです。

撮影隊は分かれて地元の民宿に宿泊しますが、毎日八甲田山山中のロケ現場まで行き、そこで猛吹雪の悪天候を待つ日々を過ごしました。なにしろ遭難事件を描く映画ですから雪山でもカラリと晴れていては撮影できません。普通の映画撮影ならば天気待ちをするのに、この作品では天気が悪くなるのをひたすらじっと待つわけです。監督の森谷司郎もその時間が最初はイライラしたけれどやっているうちに冬山を感じながら大自然と一体するしかないという境地に達したと語っています。

しかし零下何十度という極寒の中でただひたすら猛吹雪になるのを待つだけというのも辛いものです。それで撮影隊は中古の大型バス5台を買い取り、雪が積もる前に撮影現場に点在させておいてそのバスを緊急避難場所として利用したそうです。雪で埋もれても入口さえ掘ればバスの中に入れますし、車中には24時間分の食料と石油ストーブが用意されていました。遭難事件を映像化するためにスタッフたちも命がけの態勢で臨んでいたんですね。

【ご覧になった後で】次々と兵隊が倒れていく遭難の映像に圧倒されました

いかがでしたか?劇場初公開時に見て以来の再見でしたけど、雪山での遭難場面の映像に圧倒されてしまいました。猛吹雪や雪崩もそうですけど、特に息を飲まされたのは雪の銅像のように立ち尽くしている兵士たちがひとりまたひとりと倒れていく映像で、まさしく圧巻でした。ほの暗い雪の斜面に凍ったまま直立している兵士たちが墓標群のようにも見える静かで恐ろしい構図も見事ですが、その中の墓標がひとつずつ足元から折れたように倒れていき、歯抜けになっていく静的な動きが雪山の厳しさと残酷さをそのまま伝えていました。アングルやサイズを変えて繰り返しこのショットが出てきて、そのどれもがある意味大変美しく撮られていたのがこの『八甲田山』のイメージそのものだったのではないでしょうか。

驚くべきことにものすごい猛吹雪の場面を撮っていてもレンズに雪の粒が付着せずに全編どのショットもクリアな映像で残されています。これが独自開発されたパナビジョンキャメラの手作り装置の効果なんでしょうね。ほんのワンシーンだけレンズが濡れたのは高倉健率いる弘前隊が雪崩に巻き込まれそうになるところ。ここだけは本当に雪崩がキャメラそのものを襲ったらしく、レンズに雪粒が飛び込んできていました。実はこの雪崩は雪の急斜面に103個の穴を掘り、そこに計50kgのダイナマイトを仕掛けて起こした人口雪崩。正面から狙っていたキャメラは谷川を越えて押し寄せた雪に埋もれてしまい、それでもキャメラを回し続けたそうです。

雪山を撮っているのにどのショットもピントも露出も完璧のコントロールされているのが本当に驚きでした。まあ2年に渡って雪山に閉じこもっていたら、キャメラマンも雪山と一体化できたということなんでしょうか。撮影したのは木村大作。撮影助手として黒澤組で活躍したのちに昭和48年の『野獣狩り』でキャメラマンとしてデビュー。森谷司郎監督の『日本沈没』でもキャメラを回していて、同じ黒澤組出身の助監督と撮影助手がコンビを組んで『八甲田山』の厳しい現場を乗り切ったことになります。やっぱり黒澤組で修羅場をくぐってきただけのことはありますね。

高倉健は前年にはじめて東映から離れて『君よ憤怒の河を渉れ』で他社出演したのですが、たぶんオファーがあったのはこの『八甲田山』のほうが先だったんではないでしょうか。いずれにしても東映やくさ映画路線を離れて日本映画の大作に欠かせない大物俳優になっていったキャリアを振り返ると、本作は高倉健にとってもターニングポイントとなる作品だったと思われます。ちなみに高倉健は現場では待ち時間でも絶対に椅子に座ったりしないそうで、本作の撮影時も岩木山を背景にしたショットを撮る際、岩木山がくっきりとその姿を現すまで4時間立ちっぱなしだったんだとか。その間、監督の森谷司郎はずっと煙草を吸い続けていたそうで、撮影が開始されるときに健さんは監督に「煙草23本は吸い過ぎですよ」と忠告したというエピソードが残っています。

劇場公開時には北大路欣也はそれなりの大スターだったのですが、久しぶりに再見するとまだまだ若くて精悍な顔つきなのでこの当時はまだ東映時代っぽい感じが残っていたんだなと感慨にふけってしまいました。撮影時には三十三歳前後なのでまあ当たり前ですけど。そんな北大路欣也は高倉健に比べて明らかに損な役回りで、遭難してしまう青森隊の指揮官なわけですから演技的にも難しいものがあったと思われます。実際に「天は我々を見放した」と吐き出すようにセリフを言ったあとは、ほとんど見せ場もなくなり、逆にそれまでほとんどセリフがなかった加山雄三の倉田大尉に活躍の場を奪われてしまう展開でした。

もちろん遭難の引き金となり責任を感じて自害する三國連太郎の山田少佐が完全に悪者上官として描かれていたので、北大路欣也の立場は守られたのですが、遭難して次々に兵士が死んでいく終盤にかけてはけた外れの猛吹雪だという設定もあり、すべての登場人物が雪や氷まみれになって誰が誰だかわからなくなってしまいます。たぶんそれでもいいんだ、個人の顔よりも集団が遭難する悲劇を描きたいんだということなんでしょうけど、緒形拳と下條アトムの師弟関係などの物語部分が後半に一気に弱くなるのは仕方ないことでした。

原作者である新田次郎は本作を見て、原作と映画は違うけれど「2時間48分が1時間のように感じられた」「映画『八甲田山』にノックアウトされたような気持ちだ」と述べています。原作者をそこまで感心させた傑作の一番の要因は映像だと思いますし、同じ書き手の立場からいえば橋本忍の脚本の完成度があったからではないでしょうか。橋本忍は競輪マニアで、自分の脚本を競輪に例えて「『砂の器』はまくりが決まった。『八甲田山』は先行逃げ切りで書いた」と分析しています。確かに本作では雪中行軍に出かけるまでが早いですし、行軍に出てからずっと緊張度の高い展開が続きます。先行型でハナを切る勢いは結局終盤まで維持されて、高倉健が北大路欣也の遺体を見て慟哭するクライマックスまで到達するのです。脚本職人としての橋本忍の代表作のひとつといっていいでしょう。

ひょいひょい歩いて道案内した秋吉久美子(あんな山の中にこんな美女がいるのは非常に不自然ですが)に対して高倉健が隊員たちに「案内人殿に、頭、右!」と号令をかける場面などはもちろん橋本忍の創作ですし、そもそも青森隊と弘前隊が同じ八甲田山踏破を命じられすれ違うように指示されたというのは新田次郎のアレンジによるものでたまたま二つの部隊の行軍が重なっただけのことでした。実際の案内人は軍隊から敬意を払われるなんてことはなく、使い捨てで放置されて凍傷で重傷を負った案内人の保障を求める嘆願書があとになって届けられたんだとか。軍人が威張るという傾向は明治の時代から太平洋戦争に伝えられたのかもしれませんね。(V032724)

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