永遠の人(昭和36年)

木下恵介が自ら書いたオリジナル脚本の主人公を高峰秀子が演じ切る傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、木下恵介監督の『永遠の人』です。木下恵介は優秀な脚本家でもあり、楠田芳子がシナリオを書いた『夕やけ雲』以降は深沢七郎の原作を脚色した『楢山節考』『笛吹川』以外はすべて自らの脚本を映画にしています。本作も木下恵介のオリジナルシナリオ作品で『笛吹川』に続けて製作されました。高峰秀子が演じる主人公さだ子の三十年に及ぶ半生を描いていて、キネマ旬報ベストテンで第3位と高評価されました。さらに1961年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたものの、オスカーはベルイマン監督の『鏡の中にある如く』に渡りました。

【ご覧になる前に】阿蘇でロケーション撮影したキャメラマンは楠田浩之です

汽車に乗って阿蘇から離れていく男女をひとりの女性が見送っています。時代はさかのぼって昭和7年のこと。名誉の負傷をして故郷に帰った軍服の男が乗る馬車を阿蘇谷の村の衆が出迎えます。片足が不自由な平兵衛は大地主小清水家の長男で、帰還祝いの席で小作人草二郎の娘さだ子に酒を注がせます。さだ子は恋人隆が兵役から帰るのを待っていますが、ある晩平兵衛に無理矢理犯され、村はずれの渓谷に身投げしたところを隆の兄に救われます。やがて除隊となり村に戻った隆はさだ子に村を一緒に出ようと誘いますが、夜明けに六地蔵で待っていたさだ子を残して隆はひとり姿を消したのでした…。

木下恵介は昭和24年の『破れ太鼓』以降、一部共同脚本作があるものの全監督作品で自ら脚本を書いています。唯一の例外が楠田芳子が脚本としてクレジットされた昭和31年の『夕やけ雲』で、実妹の楠田芳子はこの作品で脚本家としてデビューしましたから、実質的には兄の木下恵介がかなり手助けをしているはずです。木下恵介の代表作と言われる『カルメン故郷に帰る』や『日本の悲劇』『喜びも悲しみも幾歳月』はすべて木下恵介のオリジナルシナリオですし、『二十四の瞳』や『野菊の如き君なりき』『楢山節考』『笛吹川』などは原作はありますが、木下恵介による脚色があったからこそ映画としても名作になったんでしょう。小津安二郎も黒澤明も自分で脚本を書いていますので、木下恵介を含めて日本映画史を支えた監督はみんな優れたシナリオライターでもあったわけですね。

本作は九州の阿蘇山の麓の村が舞台になっていて、現地で大規模なロケーション撮影が行われました。キャメラマンは木下組の楠田浩之。木下恵介の監督デビュー作『花咲く港』以降一貫して木下作品でキャメラを回し続けた楠田浩之は、木下恵介の妹芳子と結婚しましたから義弟にあたります。ちなみに阿蘇山の実景は本作で渋谷組から木下組に移ったばかりの助監督桜井秀雄が撮影助手の成島東一郎といっしょに撮ったものなんだそうです。木下恵介はスタッフの前では「桜井君の撮った実景を見ようよ」「これいいね」とか言うわりには、個人的には「ついでに撮ったんじゃないの」とか辛辣な言葉を投げかけられたんだとか。そんな桜井秀雄は大勢の前では誹謗しない木下恵介を後に「渋谷さんは秀才で、木下さんは天才」と述べています。

主人公さだ子を演じるのは高峰秀子。木下組では『カルメン故郷に帰る』以降多くの作品で主演をつとめてきましたが、ひとりの女性の三十年にわたる半生を演じ切ったのは本作が初めてではないでしょうか。仲代達矢は高峰秀子とは成瀬巳喜男作品で共演してはいたものの、夫婦として相対する配役は初めてのこと。さだ子との夫婦喧嘩の場面の撮影中に木下恵介から「本番では本当に殴れ」と指示されて思い切り高峰秀子の頬を張ったんだそうです。本当に殴られると思っていなかった高峰秀子から撮影後に「馬鹿力だけはあるのね」と言われたと仲代達矢は振り返っています。

隆役の佐田啓二は本作出演後の三年後には事故死してしまうので、映画出演キャリアでは晩年の出演作となります。加藤嘉は劇団民藝を退団して映画を主戦場としていた時期にあたり、この四年後には文学座に加入します。注目は若き日の田村正和が出演していること。阪東妻三郎の長男田村高廣も木下恵介の『女の園』で映画デビューしましたが、次男田村正和は成城高校在学中に松竹と専属契約を結んだ年に正式に出演した映画が本作でした。また、同じく松竹と契約して端役で映画出演していた藤由紀子は本作で高峰秀子の娘役に抜擢されて一躍注目されました。にも関わらず翌年にTVドラマに出演したことを松竹から問題視されて自ら退社。大映で再デビューを果たし、大映のスターだった田宮二郎と結婚することになります。

【ご覧になった後で】脚本・演出・撮影・演技・音楽が五拍子揃った傑作です

いかがでしたか?木下恵介監督作品としてはアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたわりにあまり語られることが少ない本作ですが、木下作品の中でもトップクラスの傑作と断言できる出来栄えで、1時間47分の上映時間中驚きっぱなしの映画体験となりました。まず脚本が素晴らしいですよね。一章が昭和7年、二章が19年、三章25年、四章35年と進み五章で製作年度の昭和36年になるクロニクル形式で描かれます。これだけ長い時代を扱っているにも関わらず場面は阿蘇山周辺のみ。時代の変遷で乗り物が馬車からバスに変わりますが、常に阿蘇を見上げながら物語が進んでいきます。特に優れているのはさだ子を描く長い年代記のように見えて、実は章ごとの短い時間を切り取ったところ。こうした半生記は冗長な感じになりやすいところですが、章ごとの描き方が適度に刈り取られているのでテンポ良くストーリーが運びますし、章が移ってもキャラクターの心情が継続しているのでストーリーがしっかりと連結されているのです。やっぱり木下恵介はシナリオライターとしてもプロフェッショナルだったんだなと痛感しました。

そして演出はほとんど撮影と一体化していました。特に一章の映像の完成度が高く、本当に見惚れてしまうくらいの完成度でしたね。まず縦と横の構図の使い方が本当に上手ですし白黒画面が写真作品のような完璧な構図で映し出されます。小清水家に馬車が到着する場面での旧家全体を横から映した超ロングショットなんかがその代表で、そのまま写真美術館に展示しておきたいくらいの端正さでした。室内でも基本的に横から高峰秀子と仲代達矢の夫婦を映し出していて、これらのショットは全部フィックスというわけではなく、帰還祝いの宴席場面では長回しで横移動したり、部屋の柱越しにほんの少し横に動いたりします。この横移動は乙羽信子の登場シーンでさらに効果的に使われていて、死んだはずの隆の嫁がさだ子を訪ねてくる場面などはスルッと横移動すると乙羽信子の背中がフレームインするというショットになっていました。こうすることで余分な切り返しをしなくても済みますし、キャメラの移動で人物をフレームインさせることで意外さを演出していました。本当に巧いです。

そして一転して縦の構図は緊迫した場面で使用されます。田村正和演じる長男栄一を探し回る場面。田畑の中の一本道を奥へと走る高峰秀子が画面に緊張度をもたらします。この縦ショットは終盤でも再登場して、臨終間際の佐田啓二の言葉で高峰秀子が自宅へと急ぐ場面は、はるか遠くから走って近づいてくる高峰秀子をじっととらえていたキャメラが高峰秀子が接近すると急にトラックアップを始めます。で、切り返して高峰秀子を背中から映したショットはトラックバックしたかと思うと移動をやめて走り去っていく高峰秀子を見送るように静止します。ここらへんは木下恵介の映像演出と楠田浩之の撮影技術が一体化しているので、もう共同作業の映像表現としか言えない素晴らしさでした。縦と横の構図を固定的でなく流動的に操ると同時に、基本的には観客はスタティックな印象を継続しつつもドラマチックな場面ではキャメラの大胆な移動とともにエモーションが高まるような気分を味わうことができます。

その最高潮のひとつが栄一捜索の途中で久しぶりの再会を果たす高峰秀子と佐田啓二の場面。右から左への移動で佐田啓二を追い、左から右へと高峰秀子が走るので、この二人が出会うことはキャメラの動きで観客にダイレクトに伝わります。観客としては結ばれずに離れ離れにされてしまったさだ子と隆に同情的なわけですから、この再会シーンには非常に感銘を受ける仕掛けになっているのです。そしてもうひとつが仲代達矢が隆宅へと急ぐラストショット。先に行く高峰秀子がやや湾曲した道を走るのが見え、そのあとを仲代達矢の大きな背中が追い、遠ざかっていきます。長年互いを憎み合いいがみ合ってきたこの二人が和解するかもしれないという希望を抱かせて、『永遠の人』とはこの二人のことだったのだなと観客が得心して終わるエンディングにふさわしい見事なショットでした。

加えて楠田浩之のキャメラは抑えめの露出が本作の通奏低音のような効果を出していましたよね。夜の場面や昼間の室内では影が真っ黒に表現されていて、その黒さが犯された男を生涯の伴侶としなければならない高峰秀子の絶望を表現しているようでした。さらに阿蘇山を遠くに入れた構図が随所に挿入されて、雄大な大自然の前で憎しみ合う人間同士のはかなさというか矮小さみたいなものが醸し出されていたような気がします。

これらすべては一気通貫して高峰秀子の演技力に支えられていたわけで、一章の娘時代はちょっと年齢的に無理している感じはあったものの、二章の冒頭で堂々とした旧家の嫁になっているところからはもう高峰秀子の独擅場だったといって良いでしょう。激しい感情を持ちながらも冷たい態度を崩さず、そのうえで観客に共感される人物像を底意地悪くならないように抑え気味に演じ切った高峰秀子は、ちょっと他の女優では置き換えられないくらいの適役でした。仲代達矢や佐田啓二ももちろんいいのですが、脇役では隆の兄役を演じた野々村潔が、小作人の悲哀さと誠実な人柄を伝えていて非常に印象的でした。この野々村潔、岩下志麻の実父なんですよね。あんまり似ていないので奥様が美人でいらっしゃったのかもしれません。余計な推測ですけど。

そして最後に本作のオリジナリティを強調していたのが木下忠司の音楽でした。最初にフラメンコギターがかき鳴らされたときの衝撃は見ているうちに鎮静化してくるものの、章替わりのたびに浄瑠璃風に物語を語る歌がギターに重なるとなんだか西部劇でも見ているような気がしてきました。「それがですなあ、それがですなあ」という節回しも強烈で、夫婦が憎しみ合いいがみ合う本作の基本的な暗さがこのフラメンコギターによって吹き飛ばされるような効果がありましたよね。ちょっとした異化作用というか悲劇調をバラバラに解体するというか、この『永遠の人』という映画の仕上げにフラメンコギターを使ったことで、味付けが大きく変化したように思います。本編の中で唯一東野英治郎の巡査が笑いをもたらしてくれたように、フラメンコギターの旋律は本作を日本映画の中でも独自のジャンルに位置づける役割を果たしていたのかもしれません。(V042124)

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