007ダイヤモンドは永遠に(1971年)

ショーン・コネリーがジェームズ・ボンド役に復帰した007シリーズ第7作

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ガイ・ハミルトン監督の『007ダイヤモンドは永遠に』です。シリーズ前作の『女王陛下の007』でボンド役を演じたジョージ・レーゼンビーは次作には出演しないと明言していたため、ハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリの製作コンビは125万ドルという破格のギャラを支払ってショーン・コネリーを復帰させることになりました。ショーン・コネリーの名前を前面に押し出したプロモーション戦略が奏功して全世界興行収入第1位となる世界的大ヒットを記録。ショーン・コネリーは出演料のほかに興行収入の10%とユナイテッド・アーティスツ社から自分が望む出演作を製作してもらう権利を得たのでした。

【ご覧になる前に】イアン・フレミングの原作を大幅に改編したSF仕立てです

007ことジェームズ・ボンドは日本からカイロへと追跡した末に宿敵ブロフェルドを抹殺することに成功しました。上司のMは南アフリカで採掘されるダイヤモンドが大量に横流しされている事件を解明するためにオランダへ行くようボンドに指令します。ダイヤモンドの運び屋ピーター・フランクスに成りすましてダイヤモンドの仲買人ティファニー・ケイスと接触したボンドは、逃走してきた本物のフランクスをエレベーターの中での格闘で始末し、フランクスの遺体にダイヤを隠してアメリカに移送する計画を立てます。ロサンゼルスの空港ではCIAのフェリックス・ライターの協力で税関を通過させ、葬儀社で遺体から取り出したダイヤモンドを受け取ったボンドの前には、南アフリカからやってきたウィントとキッドの殺し屋コンビが待ち構えていたのでした…。

ショーン・コネリーはシリーズ第5作『007は二度死ぬ』でスパイアクションを演じるにはかなり動きが重くなっていて、ロケーション撮影のために来日した際に突然ボンド役からの引退宣言をして世界中を驚かせました。しかしジョージ・レーゼンビーが一作限りで降板することが決まると、ショーン・コネリーはボンド役を演じる代わりにボンドのイメージから脱却するための自身の出演作をユナイテッド・アーティスツ社に製作させることにしたのです。その結果作られたのが、1972年のシドニー・ルメット監督による『怒りの刑事』でしたが、ショーン・コネリーがボンド役の呪縛から逃れることができたのは1974年の『未来惑星ザルドス』あたりからでしょうか。007シリーズの早い時期からウィッグを着用していたコネリーは、そのような小細工を捨てて本当の自分の姿をさらけ出すことによって、『風のライオン』や『王になろうとした男』、『ロビンとマリアン』などで完全に一人の演技者としての新しい役者像を確立することになっていきます。

『ダイヤモンドは永遠に』のタイトルはイアン・フレミングが書いた007シリーズの四番目の小説と同じですが、ボンドがダイヤモンド密輸団を追うという基本プロット以外はすべて映画のオリジナル脚本になっています。原作には登場しないブロフェルドが悪役として再度登場していますし、ダイヤモンドを反射板に使った人工衛星で米ソの原子力ロケットや潜水艦を破壊するというSF仕立ても映画化の際につけ加えられました。なにしろソ連と宇宙開発競争をしていたアメリカがアポロ11号によって人類初の月面着陸を果たしたのが1969年7月のことでしたから、1970年代初の007映画としては宇宙を舞台として取り入れるのが最新トレンドだったんでしょう。

そのようにして映画用オリジナルシナリオを書いたのはリチャード・メイボームとトム・マンキーウィッツの二人。メイボームは第1作『ドクター・ノオ』から前作まで、『二度死ぬ』を除いたすべてで脚本を書いてきた映画用007の作者といっていい人でしたが、マンキーウィッツは本作ではじめて007チームに参加した当時三十歳になる前の若手シナリオライター。マンキーウィッツはその後ジョン・スタージェス監督の『鷲は舞いおりた』やオールスターキャストの列車パニック『カサンドラ・クロス』で脚本を書き、TVシリーズの監督として活躍するようになります。

ジル・セント・ジョンは十四歳でUCLAに入学したという天才少女だったそうで、1960年代からハリウッドで脇役として映画出演していましたが、本作でボンドガールを演じて一躍有名になったものの三十一歳という遅咲きでしたので、本作以降はあまり目立った作品には出ていません。ラスヴェガスのカジノでボンドの相手役になる二番手ボンドガールをやったラナ・ウッドはナタリー・ウッドの妹で、なんとジョン・フォード監督の『捜索者』ではインディアンにさらわれる娘の少女時代を演じた女優さんでした。この二人は後に因縁の仲になっていまして、ナタリー・ウッドが溺死した後に夫のロバート・ワグナーが再婚した相手がジル・セント・ジョンだったのです。ラナ・ウッドは出版した手記の中でロバート・ワグナーが姉のナタリーを溺死に見せかけて殺したんだというような主張をして、ジル・セント・ジョンと険悪な間柄になったんだとか。なにしろ本作撮影時に二人ともショーン・コネリーとただならぬ関係におちいったという説もあるようで、そのライバル関係が続いていたのかもしれませんけど、まあ実際のところ何が本当なのかはよくわかりません。

キャメラマンのテッド・ムーアも007チームの一員で『ドクター・ノオ』から『サンダーボール作戦』までの撮影を担当してきた人です。本作でシリーズにカムバックして『黄金銃を持つ男』までキャメラを回すことになります。007シリーズ以外ではフレッド・ジンネマン監督の『わが命つきるとも』なんてのも撮っていますので、イギリスを代表するキャメラマンの一人といえるでしょう。音楽のジョン・バリーとタイトルデザインのモーリス・ビンダーは不動のチームメンバーですので、もはや説明するまでもないおなじみの顔ぶれですね。

【ご覧になった後で】これはたぶん007シリーズ史上最悪の作品ではないかと

うーん、007シリーズファンとしてはなんとか良いところを見つけて褒めてあげたいのですが、この第7作だけはなんともフォローがしがたいくらいに最悪のアクション映画だったんではないでしょうか。なにしろ脚本がひどすぎますよね。最終的にはブロフェルドが人工衛星からレーザー光線を地表上にピンポイントで照射して米ソ中の核装備を破壊するというSFものになるわけですが、そこに無理くりダイヤモンドをからませているので、南アフリカで炭鉱夫たちがちょろまかしたダイヤ程度で、そんな精巧なレーザー兵器が製造できてしまうこと自体がおかしいですし、その計画を暴くまでのプロットがまるで噛み合っていないためになぜこの場面が必要だったのかなという疑問符だらけのお話になっていました。

例えば砂漠にある衛星製造工場ではなぜか月面探索のシミュレーションが行われていて、アポロ11号による月面着陸が実はスタジオ撮影を実況しているだけだったという流行りの陰謀論を映像化するためだけにくっつけたような設定でしたし、ボンドがわざわざカジノホテルのエレベーターのてっぺんに乗って窓の外から侵入したのがブロフェルドの罠だったという展開も、高層ホテルの最上階の窓の外をぶらさがるような危険を冒したのにたどり着いたのが防犯カメラの監視部屋だったというのではあまりにお粗末です。オランダのエレベーターでは単なる運び屋相手に互いがお尻で昇降ボタンをさかんに押して苦戦してしまいますし、葬儀社で棺桶に閉じ込められて焼かれそうになるピンチも結果的に相手方が救ってくれちゃいますし、手に汗握る前に笑ってしまうような場面ばかりがダラダラ続くようでした。

ラスヴェガスの街で赤いムスタングを警察が追いかけるのもなぜ追うのかがはっきりわかりませんし、ブロフェルドもボンドを早く始末すればいいのに必ず逃げ道を与えてしまいます。土管に埋めたつもりがネズミとともに逃げられたとか海上石油リグの一室に閉じ込めたつもりが床に脱出口があるとか、あんまり緩すぎて緊張感のかけらもありません。その場面ではジル・セント・ジョンを連行するブロフェルドの手下はあっけなくライターたちのヘリコプターからの援護射撃で撃ち殺されてしまって、なんで複数人で連行しないんだよーと脇の甘さにツッコミを入れたくなってしまいます。

しかしながら、もしかしたらそのような緩さをあえて狙っているんではないかとも思えてしまうわけで、すなわちスパイアクションではなくスパイを主人公としたドタバタコメディと見るべき作品だったのかもしれません。辛口批評で有名なレナード・マルティンが本作を高評価していて「great fun」とコメントしている通り、まあコミック雑誌のマンガを読むようにして楽しめばいいんだよというのが基本スタンスなんでしょうか。

007シリーズらしいキャラクターは最後の客船まで追いかけてくる同性愛二人組の殺し屋くらいで、チャールズ・グレイ演じるブロフェルドも無駄に女装をしたりして重さがないですし、007に脅威を感じさせるような悪役が不在なのも減点となるポイントでした。ガイ・ハミルトンは『ゴールドフィンガー』以来二作目の監督作となるのですが、初期の快作『ゴールドフィンガー』にしても終盤の睡眠薬散布あたりでいい加減な演出をして緊張感を緩めていたので、どちらかというとちょっとハズし気味の軽いタッチを好む人なのかもしれないですね。バンビとサンバーの女格闘家二人組を出したいとか月面探索車を砂漠で走らせたいとかムスタングを斜めにしたらどうかとか、そんなアホみたいなアイディアをたくさん詰め込みたくて作った映画だったように思えます。

そんな第7作なのでモーリス・ビンダーのタイトルデザインも冴えなかったですし、ジョン・バリーの音楽もクライマックスでもなかなかかからずに効果的に使われていなかった感じでした。まあシャーリー・バッシーの主題歌は一度聴いたら忘れられない名曲でしたので、この音楽が流布したおかげで世界興行で成功したのかもしれません。そんなわけでなぜプールで殺されていたのかわけがわからなかったラナ・ウッドが、『捜索者』に出ていた少女でもこんなにグラマラスに成熟するんだという感動をもたらしてくれたところが一番印象に残ることになったのでした。(A050223)

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