内田吐夢監督の戦前の名作ですが、製作当時の完全版は今では見られません
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、内田吐夢監督の『土』です。昭和14年の日活映画で、製作当時は15巻・142分の大作だったそうです。その後、フィルムが散逸して、映画の最初と最後が失われたバージョンがドイツで発見され、その93分バージョンが現存版として残っています。国立映画アーカイヴでは、それより長いロシアでの発見バージョンを上映したことがあるそうです。映画の中身は、茨城県の寒村に暮らす貧農一家のお話で、見ているのがちょいとツライ作品ではあります。
【ご覧になる前に】現存版にドイツ語字幕が入っているのはなぜでしょうか
鬼怒川の近くの寒村に暮らす勘次は妻に死なれ、娘のおつぎと幼い与吉の三人で畑を耕してなんとか日々の糧を得ています。勘次と折り合いが悪い舅の卯平は、三人とは別の小屋でひとり暮らし。勘次は地主のお内儀に頼み込み、日雇いの仕事をもらうのですが…。
ドイツでフィルムが見つかったのは、日本とドイツとの間の文化交流がもたらした偶然だったのでしょうか。日独防共協定が締結されたのは昭和11年のこと。翌年には日本とドイツが共同で製作し、原節子が主演した『新しき土』が公開されました。映画の公開にあたって原節子はドイツを訪問し、映画館に集まった観衆の前でドイツ語で挨拶したというエピソードも残っています。そうした背景から想像すると、日本とドイツの両国で互いの映画を輸出入しあい、相互理解を深める(あるいは自国の宣伝をする)目的があったのでしょう。それにしてもドイツ語字幕がついた『土』を見たドイツ人は、日本のことを「なんて貧しい国なんだ!」と思ったことでしょう。もちろん農村の一部では貧しい暮らしがあったのも事実なんでしょうけれども。
監督の内田吐夢は、水上勉の小説を映画化した『飢餓海峡』が有名です。日本映画の黎明期から撮影所で働き始め、昭和12年には小津安二郎が原作を書いた『限りなき前進』の監督をつとめています。『土』を発表した後は、満州に渡って満州映画協会に所属。この満映は李香蘭(山口淑子)主演の映画を製作していた国策映画会社。理事長は甘粕正彦という人で、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラスト・エンペラー』で坂本龍一が演じたあの人物です。甘粕は日本敗戦直後に青酸カリを飲んで自殺したのですが、その最期をみとったのが内田吐夢だそうで、日本に戻らなかった内田吐夢は、中国の映画製作を指導することになりました。内田吐夢って歴史的な人物だったんですね。
【ご覧になった後で】音の悪さでほとんどセリフが聞き取れなかったです
いやー、1時間半見続けるのはツライ映画でした。その一番の理由は音の悪さ。音がこもったり割れたりしているので、俳優たちが何を話しているのかがほとんど聞き取れません。さらに茨城弁なのでしょうか、方言のセリフでは意味がわからないところも多々ありました。しかし俳優の話す声だけを聴いていると、妙に臨場感があり、特に大勢の村人が出ている場面ではあちらこちらから自然なしゃべり声が録音されているように感じました。当時の日活映画は、トーキー導入時に同時録音方式を採用したのでしょうか。戦前の日活多摩川撮影所でどのような録音機材が使用されていたのかは定かではありませんが、音の悪さは採録の悪さに起因していて、マイクが音を拾いにくい同時録音での採録だったとも考えられます。でも、これだけ音が悪いと見るのが苦行になってしまいますね。
映画自体は、前半は特に平板で起伏もない展開が続くものの、後半にはふたつのヤマ場があります。ひとつは勘次の家が火事になる場面。もうひとつは卯平が行方不明になるところです。いずれも村人たちが総出になるモブシーンで、映画が盛り上がるべきところ。しかしなかなか気持ちが入っていかないのは、その中心にいる勘次のエモーションが伝わってこないからだと思います。なぜ勘次は卯平といっしょに暮さないのか。どんなわだかまりがあるのか。それがさっぱりわかりません。勘次が娘や与吉にとって良い父親に見えないせいもあるのですが、火事や行方不明といった勘次にとっての最悪の展開が、観客からしてみればどうでもよいことのように見えてしまいます。2時間超の完全版ではきちんと描写されていたのかもしれませんけれども、それにしてもこの映画を名作と言い切ってしまうには、登場人物が今ひとつのように感じられます。
主演の小杉勇は、『土』の前年には『五人の斥候兵』で部隊長を演じています。日中事変の真っ最中で、世の中が戦争へと傾斜していく時期だったこともあり『五人の斥候兵』はキネマ旬報年間ベストテンでその年のベストワンに輝いています。その冷静かつ勇猛果敢な部隊長役とはうって変わって、『土』の勘次役は、家の中では暴君的なのに外に出ると何をしゃべっているかもわからない、たぶん典型的な農家の主を演じていて、ある意味リアル過ぎて見ていられないくらい真に迫っていました。戦後は映画監督としても作品を残していて、昭和39年の東京オリンピックに合わせて製作された『東京五輪音頭』がいちばん有名かもしれません。(A101421)
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