十字路(昭和3年)

衣笠貞之助が監督したサレント映画で海外で評判を呼んだ初の日本映画でした

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、衣笠貞之助監督の『十字路』です。女形の俳優として映画界に入った衣笠貞之助は、演出の才能を買われて監督に昇格して大正15年には日本初のアヴァンギャルド映画といわれる『狂った一頁』を発表します。それに続いて衣笠貞之助が松竹京都撮影所で作ったのがこの『十字路』で、映画が完成すると衣笠は松竹を辞めてロシアを経由してヨーロッパに渡り、本作を「ヨシワラの影」という題名にして公開することに成功したのでした。

【ご覧になる前に】主演女優千早晶子は本作の約10年後に衣笠と結婚します

深夜の江戸の裏町を走る男がひなびた長屋に逃げ込みます。喧嘩で叩きのめされた弟が二階を借りている姉のところに帰ってきたのでした。大家の男が夜分に足音がしたと二階を覗きますが、姉は弟を匿って猫じゃないかと誤魔化します。大家のところに十手をもった目明しが訪ねてきて、怪しい男がいないか尋ねると姉弟は息を潜めてやり過ごします。弟は矢場の女お梅に惚れ込んでいますが、お梅は男たちに人気の的で、家を飛び出してお梅に会いに行った弟は取り巻きたちに目をつぶされてしまうのでした…。

三重県亀山の生家から役者を志して家出をした衣笠貞之助は、京都の一座の女形に収まり、大阪角座の舞台に出ているところを日活にスカウトされました。現在でもその名を残す日活は、吉沢商店、横田商会、Mパテー商会、福宝堂の四社が合併して大正元年に「大日本活動写真株式会社」として設立されたのが始まりで、日本映画界で最初のメジャー映画会社でした。衣笠貞之助は日活向島撮影所で5年間に150本もの作品に女形として出演したそうです。

映画の撮影技術が進化し女性の社会進出が進むと、日本独特の女形という形態は映画界で敬遠されるようになり、女優を起用することが当たり前になってきます。女形の新派劇にも限界を感じていた衣笠は映画界に監督として残る道を選び、大正9年に自ら脚本を書いた『妹の死』で監督デビューを果たします。日活から牧野省三が設立したマキノ映画製作所に移りますが、自由に映画を作りたいという意思から大正15年に『狂った一頁』をほぼ自主製作の形で発表することになります。しかし興行的に惨敗して赤字を背負った衣笠は松竹下加茂撮影所に入って、林長二郎主演作品を立て続けに監督することになりました。

当時の日本は世界的に見ても映画産業が盛んな国で、欧米の映画が多く輸入されて公開されていました。その頃の映画評論家たちの日本映画評は、外国映画に対して俳優、セット、ストーリー、演出などすべての面で劣っているという見解で一致していて、日本映画も早く海外に輸出できるくらいのクオリティに達しなければならないという議論が交わされていました。そんな中で大正14年に村田実監督の日活映画『街の手品師』という作品が評論家たちにも好評で、やっと日本映画を代表する作品が現れたということでドイツ、フランス、イギリスで公開されることになりました。しかしヨーロッパの批評家や映画配給業者からは見向きもされず、海外進出は失敗に終わってしまいました。

そこで衣笠貞之助は、日本の特質をいかした時代劇ではあっても、チャンバラ主体の剣戟ものではなく、江戸の街の市井の人を描いた作品だったら、海外でも通用するのではないかと、この『十字路』の脚本を仕上げます。衣笠は自らの製作プロダクションと松竹京都の共同で本作を完成させ、ヨーロッパでこの映画を成功させようとプロダクションをたたみ、松竹を退社してフィルムをもって自ら渡欧する道を選んだのです。

昭和3年8月に松竹は副社長城戸四郎を団長としてモスクワで市川左團次による歌舞伎公演を挙行していて、元から日本文化に興味を持っていたエイゼンシュタインがその公演を見て歌舞伎評論を書くなどの影響を受けたという話が伝わっています。たぶん衣笠貞之助は歌舞伎公演についていく形でモスクワに渡ったんではないかと思われ、歌舞伎公演に合わせて日本映画の上映会なども開催されたようです。そこから衣笠は単身ヨーロッパに乗り込み、ベルリンにいた千田是也の住まいに身を寄せて『十字路』の上映を実現させます。「ヨシワラの影」と題された『十字路』はドイツとフランスで長期にわたって上映され、批評家からの好評を得て、特に日本人俳優の演技が賞賛されたんだそうです。

主演女優は千早晶子で、本作出演時にはまだ十九歳の若さでした。ヨーロッパから戻った衣笠が松竹下加茂撮影所に復帰すると、『忠臣蔵』や『雪之丞変化』など衣笠監督の時代劇に連続して出演し、『雪之丞変化』三部作完成の翌年、千早晶子は衣笠貞之助と結婚して映画界を引退することになります。弟を演じる阪東寿之助は本作が映画出演二作目の新人だったらしく、昭和12年まで松竹下加茂撮影所での出演が続きますが、そのキャリアは途中で途絶えていますので、兵役にとられてそのまま映画界に戻ることはなかったと思われます。

【ご覧になった後で】当時の世界における日本映画の先進性に驚かされました

いかがでしたか?昭和3年に本作のような作品が作られていたことは、1920年代当時の日本映画が世界レベルでも先進的な創造性を持っていたことを雄弁に物語っているのではないでしょうか。とにかく本作の映像表現には大変驚かされたわけでして、夜の場面が多く照明を駆使した夜間撮影が主体的なこともあり、光と影を効果的に使った陰影の濃い映像は現在的に見ても非常に印象的でした。特に射的場の回転する的を照明で光らせた幻想的なショットは、人を引き寄せる歓楽街の魔性さを感じさせますし、弟が幻惑される心象風景を的確に表わしていました。ちなみにお梅のような矢場で働く女性は、同時に春を売る商売もしていたそうで、弟がお梅に「ひと言愛していたと云ってくれ」というのは、現在的にはお気に入りのデリヘル嬢に本気になってしまったストーカー男みたいな感じなんでしょうか。

五所平之助のすごいところは、自らの映画監督としてのテクニックを本作の中にすべて押し込めるようにして、様々な演出を施していることでした。冒頭の導入部からして、長屋の家を俯瞰で捉えた次に夜の闇に浮かぶ男のバストショットにいきなりカッティングしていて映像的なショックを狙っていましたし、道端の猫をインサートショットに使ったり、階段を上る大家を真上から撮ったりして、やや異様なムードを盛り上げていきます。横移動のショットを行きつ戻りつして使うのも面白いですし、ロングショットで階段と一階の様子全体を映すのもメリハリを効かせた映像構成につながっていました。

そんな中で特に印象深いのは目明しの男の超クローズアップショットで、突き出した八重歯がドラキュラを思わせるような口元が画面いっぱいに映し出されると、それだけで姉が凌辱されたような効果を生んでいました。姉が目明しを殺してしまい、落とした包丁が床に突き刺さるアップショットも見事で、それは包丁を光らせる照明技術によってより効果が出ていたと思います。照明といえば、暴風雨という設定のクライマックスで、土砂降りの雨に照明を当てることによって雨粒をきちんとフィルムに写るようにしているところも、日本映画の映像技術が一級品であったことを伝えていましたね。

さらに千早晶子の演技は抑制を利かせながらもエモーションに溢れていて、演技がドイツやフランスの批評家から賞賛されたのも納得という感じでした。五所平之助がドイツのベルリンに本作のフィルムを持ち込んだというのは、千田是也がベルリン在住だったといいこともあるでしょうけど、1920年代の前半くらいまでは日本がドイツ映画の主要な輸出先であったことも大いに影響しているようです。確かにサイレント時代の日本映画はドイツ表現主義に刺激を受けていて、ハリウッド映画が日本市場を席捲する以前は「黄金の20年代」と呼ばれたベルリンの文化・芸術が日本にも浸透していたのでした。

それではドイツでは日本映画の存在は皆無だったかといえばそうでもなかったらしく、19世紀後半にフランスでジャポニズムが流行して以来、ヨーロッパにとっては東洋の最果てに位置する日本はエキゾチックな興味をそそる対象であったことから、日本映画にも興味関心があったようです。そもそもシネマトグラフを発明したリュミエール兄弟が日本を訪問して横浜の風景を撮影していた事実は、「ジャポニズム」を活動写真で体感したいという欲求に現れだったんでしょう。もちろん興味の対象は「ゲイシャ」「サムライ」「ハラキリ」といった歪んだ日本観だったらしく、ドイツに輸出された日本映画は物語の中で誰かが切腹する場面が描かれたものに偏っていたそうです。ドイツを代表する監督フリッツ・ラングが1928年に作った『スピオーネ』には、日本人スパイが登場して切腹して果てるという場面が描かれており、フリッツ・ラングまでもが「日本=ハラキリ」というイメージを持っていたんですね。

そんなドイツで評価された本作も脚本についてはボロクソに批判されたそうで、確かに不幸な姉弟が救いのないままに終わる物語は全く面白くなく、見ていて眠くなる展開ではありました。それでも夜間撮影の照明の使い方を始めとして、映像の印象はコワイくらいに残っていて、子供の時に見たらトラウマになってしまいそうな独特な映像感覚がありました。エイゼンシュタインが『戦艦ポチョムキン』を製作したのは1925年ですから、その三年後の昭和3年に極東の日本でモンタージュを駆使した本作が作られていたことは、驚愕以外の何物でもないような気がします。(Y071824)

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