人斬り(昭和44年)

フジテレビと勝プロダクションが共同製作して大映が配給した幕末時代劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、五社英雄監督の『人斬り』です。国内の映画館観客動員数は昭和33年に11億2745万人を記録したのをピークに急降下していき、十年後の昭和43年には3億1340万人と約三分の一に減ってしまいました。家庭にTVが普及したせいなのですが、そのTV局が潤沢な利益を背景にして映画製作に乗り出したのもこの時期。フジテレビは昭和44年に東京映画と共同で『御用金』を製作し、東宝系映画館で配給されて大ヒットを飛ばします。フジテレビ製作第二弾となったこの『人斬り』は勝新太郎が経営する勝プロダクションと組んで大映が配給した作品。いずれもTV出身の五社英雄が監督をしていますので、大手映画会社による映画製作システムすらTVに取って代わられる時代となっていったのでした。

【ご覧になる前に】司馬遼太郎の短編をもとに脚本化したのは橋本忍でした

土佐のあばら家でひとり刀を振り回しているのは下級武士の岡田以蔵。以蔵の剣に目をつけた土佐勤皇党の盟主武市半平太は、土佐藩執政吉田東洋の暗殺を企てその現場を以蔵に観察させます。「天誅」の名のもとに吉田が殺されるのを見た以蔵は、武市半平太とともに京都に移ってからは幕府側の要人を次々に斬殺して、薩摩の田中新兵衛か土佐の岡田以蔵かと噂されるほどの人斬りとして名を挙げていきます。褒美金をすべて女郎おみのに貢いでしまう以蔵のもとに、訪ねてきたのは以蔵とは子供の頃からの知り合いで土佐藩を脱藩し今は勝海舟と行動を共にしている坂本龍馬でした…。

司馬遼太郎が書いた「人斬り以蔵」という短編小説は別冊文藝春秋に連載していた短編連作の一篇でしたが、その短い小説に肉付けをしてオリジナル脚本を書き上げたのは橋本忍でした。橋本忍は自作の脚本が黒澤明の目に留まり、その脚本に黒澤明自らが手を入れて映画となったのが『羅生門』で、以降『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』などで黒澤映画には欠かせない共同脚本家になりました。一方で東宝以外の各社からも脚本依頼が殺到し、時代劇から現代劇までジャンルを問わず、脚色からオリジナル脚本まで名作・佳作を次々に発表していきました。この『人斬り』も司馬遼太郎の原作があるにはありますが、設定だけを活かしながら脚本としてはほぼ橋本忍のオリジナルといっていいかもしれません。

『御用金』のヒットに味をしめたフジテレビは監督に再度五社英雄を起用して、当時の映画製作費の三倍の予算を用意して勝プロダクションとの共同製作にのぞんだそうです。五社英雄は東映京都や東京映画で撮影した経験はありましたが、勝新太郎が選んだのは自らが慣れ親しんだ大映京都撮影所。TV出身の五社英雄に対して大映のスタッフたちは当初はお手並み拝見的に冷ややかに接していたそうですが、オープニングの吉田東洋暗殺場面のリアルな演出を見て、一致団結して五社英雄を支えるようになりました。映画界の慣習にこだわらない五社英雄の演出が多くの場数をこなしてきた大映のベテランスタッフたちの手によって見事に映像化されていくといった現場だったようです。

主演はもちろん勝新太郎ですが、共演者に仲代達矢と石原裕次郎を招き主要キャストが決まったものの、岡田以蔵に相対する薩摩の田中新兵衛役に誰を据えるかが問題となりました。勝新太郎とタメを張るほどの存在感を出せる俳優が見当たらなかったためでしたが、五社英雄は三島由紀夫が自主製作した『憂国』を見ており、その強烈な印象から三島由紀夫に出演を依頼しようという案を橋本忍に相談しました。橋本忍の同意を得てオファーを出すと、三島由紀夫は幕末の人斬り役だということで欣喜雀躍してすぐに出演を承諾しました。増村保造監督の『からっ風野郎』に主演してボロクソに批判された経験を持つ三島でしたが、本作への意気込みは大変なものだったようで、当時マスコミの寵児でもあった三島の映画出演は大きな話題となりました。

結果的に本作は大ヒットとなり、昭和44年度の配給収入ランキングで年度四位に記録されています。ちなみにトップは石原プロモーションが製作して松竹で配給された『栄光への5000キロ』。第二位は東宝の戦争シリーズ『日本海大海戦』でしたから、TV局製作による本作のヒットは大健闘といえるでしょう。

【ご覧になった後で】斬新な映像もよいですが印象的なのは三島由紀夫でした

いかがでしたか?さすがに橋本忍の脚本だけあって、主人公以蔵のキャラクターが深掘りされて描かれているので2時間20分の長尺を飽きることなく見ることができました。人を斬るだけの殺人マシーンとして利用されていることに気づきながら、そこから這い出そうとして這い出せない哀しみを勝新太郎が自分の個性に引き寄せて演じるので、非常に実在感のあるリアルな以蔵像が体現されていましたし、基本的にはアクション主体の作り方なのに以蔵の感情の動きが映像的に伝わってきて、無駄なセリフがないところもスタイリッシュでよかったですね。

それが五社英雄の演出と見事にリンクしていて、例えば以蔵が武市半平太に啖呵を切って土佐勤皇党から抜けようとする場面。画面いっぱいに屋根瓦が映し出されてそこを勝新太郎が左から右に駆けていきますが、途中で引き返そうとして、でもやっぱり画面右へとフレームアウトします。うねるような屋根瓦が以蔵の気持ちの迷いを象徴するような背景になっていて、そこに行こか戻ろかというアクションを重ねて、ついに意を決する感情の動きを表現していました。もちろんセリフはないのですが、観客に以蔵の気持ちがダイレクトに伝わってくるような演出でした。

五社英雄はロケハンのセンスもあったのだと思いますが、勝新太郎と石原裕次郎が並んで歩く武家屋敷の長い土塀のショットなどは、土塀の奥行きを斜めの構図で切り取って表現していましたし、京都祇園での暗殺シーンではカッティングで人物の位置関係を正確に伝えながら、刀を振り回すことが難しい狭い路地での斬りあいを迫真の映像で演出していました。ここでは窓の縦格子にズサっと斜めに刀の切り傷がつくショットが印象的で、単にアクションだけでなく普通は背景としか扱われない美術セットを人斬りに効果的にからませていましたし、照明を上手に使って夜の暗殺場面を浮き立たせていました。

しかしそれ以上に印象に残るのはやっぱり三島由紀夫でしたね。『からっ風野郎』は現代劇なので確かにちょっと学芸会っぽい演技になってしまっていましたが、この『人斬り』ではまず侍の鬘と衣裳がばっちり似合っているんですよね。もともと顔の大きい人なので余計なのですが、月代を鋭角的にして髷を後ろに垂らした鬘に対して顔が負けていませんし、重心が下にあるどっしりした構えで武士の装束がハマっていました。セリフは少ないのですが、撮影前や撮影中に勝新太郎が三島由紀夫に丁寧に演技指導というか指南をしたために三島由紀夫自身もリラックスして演じられたようです。訥弁なところが逆に田中新兵衛という剣術遣いをリアルに見せていましたし、勝新太郎の以蔵を慰める場面ではなんだか二人の心情の通い合いが演技から滲み出てくるようでした。

この作品が公開されたのは昭和44年8月で、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げるのは一年四ヶ月後のことです。田中新兵衛の切腹場面では、三島は鬼気迫る演技だったそうで竹光の刀の切っ先が本当に腹の皮をえぐってしまうほどだったとか。三島にしてみれば、『憂国』でも切腹する場面を撮っていますし、このときには楯の会のメンバーと何か事を起そうという計画は頭の中にあったのでしょう。だとすると腹に傷がつくことくらい平気の平左だったはずなので、本作は三島由紀夫の最後の映画出演作であるとともに、三島由紀夫が自決するに至る経緯の中に確実に刻まれるべき映像遺産だったのかもしれません。(Y122122)

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