わが愛(昭和35年)

井上靖の小説「通夜の客」を五所平之助監督・有馬稲子主演で映画化しました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、五所平之助監督の『わが愛』です。井上靖の小説「通夜の客」を原作としていて、一部では『「通夜の客」より わが愛』というタイトル表示になっています。五所平之助は本作を皮切りとして『白い牙』『猟銃』と井上靖の小説を連続して映画化していて、しかも三作ともに佐分利信が主演を務めています。本作では佐分利信の不倫相手役を有馬稲子がしっとりと演じているのが大いに注目されるところです。

【ご覧になる前に】大ベテランの八住利雄が脚本を書き音楽は芥川也寸志です

夜の繁華街で階段を降りてきた新津は仲間たちと酒を飲んでいたのですが、突然倒れてしまいます。新津の通夜は自宅で行われ、新津の妻は新聞社の同僚たちの弔問を受けます。会食が始まると突然喪服を着た女性が現れ、妻が席を離れると打ち覆いを取り払い亡骸の顔を見つめます。キヨと名乗ったその女は宿に帰ると女中相手に亡骸の眉が動いたと言い、戦争が始まる前に身を寄せていた柳橋の叔母の家で新津と出会ったことを思い出すのでした…。

井上靖の小説といえばかつて新潮文庫の100冊にも入っていた「氷壁」が思い出されますし、「敦煌」や「天平の甍」など中国大陸を描いた歴史小説が代表作とされています。しかし昭和25年に芥川賞を受賞してからの10年くらいはいわゆる中間小説をたくさん書いていて、社会派小説のほかには大人同士の恋愛小説も得意としていました。その中のひとつが原作となった「通夜の客」で、妻子ある男性と知っていながら一途に思い詰める北原キヨという女性が主人公になっています。

監督の五所平之助は日本映画初のトーキー『マダムと女房』を撮ったように松竹大船撮影所の主力監督のひとりでしたが、戦後に移籍した東宝で争議が起こると組合側について精神的支柱に祭り上げられます。結局退社を余儀なくされた五所平之助はスタジオ8という独立プロダクションを設立し、新東宝と提携して『煙突の見える場所』などの作品を製作するようになりました。本作は古巣の松竹の製作ですから五所平之助は松竹と本数契約を交わして監督したんでしょうか。それはともかく撮影は松竹京都撮影所で行われています。

本作は昭和35年1月3日に松竹系映画館で正月映画として公開されていて、併映は木下恵介監督・岡田茉莉子主演の『春の夢』でした。有馬稲子は岸恵子・久我美子とともに昭和29年に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立していますが、映画俳優としては昭和30年に松竹と専属契約を交わしたようで、当時の松竹では有馬稲子と岡田茉莉子は主演女優の二枚看板となっていました。なので本作は松竹が正月の大入りを狙って有馬・岡田の主演作を五所平之助と木下恵介という二人の大御所監督に作らせた力の入った番組構成だったと思われます。

脚色した八住利雄はPCLでシナリオライターのキャリアをスタートさせ、東宝を退社後はフリーでメジャー各社の脚本を書いたベテランで、昭和30年代には文芸作品の映画化は八住利雄に一任みたいな感じで『細雪(新東宝版)(大映版)』『夫婦善哉』『雪国(東宝版)』『智恵子抄(東宝版)』『暗夜行路』などの脚本を次々に書き上げていました。一年後に公開される『猟銃』も八住利雄ですが、もちろん文芸作品しか書かなかったわけではなく、エノケンものなどの喜劇から時代劇までレパートリーは広く、七十歳を超えるまでに250本近い脚本を残しています。

キャメラマンの竹野治夫は戦前の新興キネマで撮影技師になり、戦時中に松竹に移った後は一貫して松竹京都撮影所の主戦として活躍した人でした。『白い牙』『猟銃』と続く五所平之助による井上靖三部作はすべて竹野治夫がキャメラを回しており、竹野にとっても晩年の代表作になりました。また音楽を担当したのは芥川也寸志。芥川龍之介の三男である芥川也寸志はこの当時は映画界にひっぱりだこで、年間10本前後の映画音楽をコンスタントにこなしていた時期でした。芥川也寸志も竹野治夫同様に三部作全部で作曲をしていて、もちろん本業である音楽活動を支えるための副業の位置づけだったんでしょう。日本映画にとっては映画製作本数がピークとなっていた時期に芥川也寸志(大正14年生まれ)をはじめとして、團伊玖磨(大正13年生まれ)、黛敏郎(昭和4年生まれ)、武満徹(昭和5年生まれ)が三十代の働き盛りだったことは、まさに僥倖だったといえるでしょう。ちなみに本作公開の年に芥川也寸志は草笛光子と再婚して、わずか二年後に離婚しています。余計な話ですけど。

【ご覧になった後で】有馬稲子の迫真の演技を優雅な音楽が盛り上げています

いかがでしたか?同じく不倫関係を描いた『猟銃』に比べると、主人公二人が互いに惹かれ合って道ならぬ仲にはまっていく感情がしっとりと描かれていて、観客が違和感なくストーリーに没頭できる上質な作品に仕上がっていましたね。両作ともに八住利雄が脚本を書いているのですが、本作のほうが何倍も完成度が高く、最初にいきなり佐分利信が死んでしまい、謎の女として有馬稲子が登場してから過去に切り替わり、終盤で二人そろって上京するという時制のコントロールが見事でした。二人で東京に行くという展開にならないと有馬稲子は通夜に出席できないわけですから、本作では八住利雄によるプロットの組み立てが奏功していました。もしかしたら原作自体がそうなっているのかもしれませんが。

そして圧巻なのは有馬稲子の迫真の演技でした。謎の喪服女が旅館で酒を飲む場面ではいつも通りの中途半端な適当さが感じられましたが、戦前の場面に切り替わった途端に十代の娘が中年男の佐分利信から耳元で「いつか浮気しようね」と告げられた言葉に心を奪われてしまうという初々しい心情をヴィヴィッドに表現していました。山陰の村のシークエンスでは呼び方が「新津さん」から「あなた」に変化するのも自然でしたし、勝手に押しかけた立場を弁えながらも丹阿弥谷津子の本妻としての自信が揺らがないことに嫉妬してしまう感情の動きがちょっとした顔の表情や通せんぼするアクションに出ていました。有馬稲子は演技派とは思えなかったのですが、本作は有馬稲子にとっても会心の演技だったのではないでしょうか。

少し下世話な話ですが、有馬稲子は日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で中村錦之助と結婚する前からある著名な映画監督と不倫関係を結んでいたことを告白しています。「愛煙家でタバコを咥えるために歯を抜いていた」というような表現がされていて、誰がどう読んでも市川崑だとわかってしまう書き方だったのですが、妻子ある中年男と不倫するという本作の主人公の立場はまさに有馬稲子の実生活そのものだったことになります。中村錦之助との結婚は本作出演の翌年のことですので「私の履歴書」で不倫相手が自分の結婚に猛反対したというのと符号しますし、有馬稲子と中村錦之助の結婚生活は結果的に4年弱で破綻してしまいます。現在的には有馬稲子が見せた最高の演技はその当時に有馬稲子自身が置かれた境遇を反映したものだったと思わざるを得ませんね。

その有馬稲子の演技を盛り上げたのが芥川也寸志の優雅で流麗な音楽でした。芥川也寸志の作曲スタイルは三期くらいに分けられるんだそうで、快活で彩りのある旋律を何度も繰り返す「オスティナート技法」を多用したのが本作を作曲した初期の作風だったようです。その後はオスティナートを封印して減衰・静的な要素の前衛的スタイルに変わり、最後にはそれらをクロスオーバーさせた作風に落ち着いていきました。オスティナートではひとつのリズムパターンが反復されるということで、確かに芥川也寸志の名を広く知らしめることになったNHK大河ドラマ「赤穂浪士」(昭和39年)のテーマ曲なんかを思い出すとまさにオスティナートってこのことを指すのね!と理解できるような明快な反復パターンがあります。本作でも有馬稲子の演技に芥川也寸志のオスティナートが重なって、不倫をテーマとした恋愛映画のムードを反復しながら高めていたと思います。

一方の佐分利信も『猟銃』ではなんでこんな男に山本富士子がイチコロになってしまうのかと思われたのに対して、本作では人生経験豊富な成熟した男性という大人にしかない魅力が伝わってきて、有馬稲子が若い頃から潜在意識下でいつかこの人と浮気したいと考えるようになるのも納得できました。最初は佐田啓二のような二枚目俳優がやるべきではないかと思って見ていたのですが、佐分利信は少ないセリフを低く渋い独特な声で話すところに妙味がありました。佐田啓二と有馬稲子では歳が近すぎて明らかに不倫が肉欲に直結してしまうんでしょうけど、佐分利信だとなんだか精神的なつながりのほうが強い印象になるんですよね。そこらへんが不倫ものなのに読後感に爽やかさが感じられる理由かもしれません。

竹野治夫のキャメラも引きの画面をゆっくりしたトラックアップや横移動させる映像スタイルが本作の雰囲気にぴったりマッチしていました。五所平之助にとっても同じスタッフに囲まれて作った『猟銃』よりはるかに質のいい作品を作ることができて満足だったのではないでしょうか。そして有馬稲子の代表作としても記憶に留めておきたい作品だと思います。(T030524)

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