ろくでなし(昭和35年)

松竹ヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本で、吉田喜重の監督デビュー作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、吉田喜重監督の『ろくでなし』です。昭和35年6月に公開された大島渚監督の『青春残酷物語』をきっかけに松竹の新人監督たちの作品が「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」として売り出されることになりました。本作は翌7月に公開された吉田喜重の第一回監督作品で、吉田喜重自ら脚本を書いています。退廃的かつ厭世的な青春を送る学生たちを高度経済成長下で拡張する日本経済に対比させて描いた本作からは、惹句だけではなくフランス映画の影響が多く見受けられます。

【ご覧になる前に】階層の違う学生を演じた津川雅彦と川津祐介が主人公です

丸の内のオフィスビルで銀行から出てきた女性が近づいてきた高級自動車の中に引っ張りこまれます。運転している秋山は秋山物産の社長の息子で、社長秘書の牧野が運んでいた現金を狙ったのでした。同乗しているのは秋山とつるんでいる友人たちで興味のなさそうな淳や金に執着する森下をなだめて秋山は牧野に金を返してしまいます。その一件を牧野は社長に報告しますが、社長は真剣に息子を諭そうとはしない様子で、秋山の家で騒ぐ友人たちをよそに金がほしいなら言いなさいと息子に伝えるだけでした。社長に告げ口した牧野を懲らしめるためパーティに誘い出すことにした秋山は淳に牧野を迎えにやらせるのですが…。

松竹ヌーヴェル・ヴァーグという呼び名は松竹の宣伝部が作ったという説がある一方で、マスコミがフランス映画にあやかってそのように名付けたという話もあり、使い始めのことはよくわかりません。フランスでヌーヴェル・ヴァーグという言葉が初めて登場したのは1957年と言われていて、ジャック・リヴェットが1956年に発表した『王手飛車取り』を皮切りとして映画雑誌カイエ・デュ・シネマ所属の批評家だったトリュフォーやゴダールが製作した映画群をヌーヴェル・ヴァーグと呼ぶようになっていました。

松竹ヌーヴェル・ヴァーグの始まりとなったのは本作の一ヶ月前に公開された大島渚監督の『青春残酷物語』だと言われています。『愛と希望の街』(原題は「鳩を売る少年」)で階層の断絶を描いた大島は監督第二作で即物的に行動する若者を描き、興行的にも成功を収めました。昭和35年の日本映画配給収入トップテンを見ると第四位まですべて日活作品で占められていて、松竹の映画は一本も入っていません。前年はにんじんくらぶ製作の『人間の條件』を配給したおかげでそこそこ潤っていた松竹ですが、メジャー六社の中では新東宝に次ぐ万年ブービーの地位に甘んじていました。『青春残酷物語』のヒットに気を良くした大谷博社長は、松竹の起死回生策として松竹ヌーヴェル・ヴァーグを推し進めることにしたのでした。

吉田喜重は昭和30年松竹に助監督として入社し、同期には後に大島映画の脚本家として活躍する石堂淑朗がいました。学生時代からフランス映画に傾倒した吉田喜重は木下組についた後に本作で監督デビュー。入社5年目での監督昇進はそれまでの松竹では異例の早さですので、松竹ヌーヴェル・ヴァーグ路線が新人監督の早期登用につながったことがわかります。二年後に発表した『秋津温泉』がキネマ旬報ベストテンで第10位となり高く評価されますが、岡田茉莉子と結婚した昭和39年に松竹を退社。夫婦で現代映画社という独立プロダクションを設立することになります。

本作の主人公もブルジョアと労働者階級という別の階層にいる二人になっていまして、社長令息を川津祐介、貧乏学生を津川雅彦が演じます。川津祐介は映画監督川頭義郎の実弟で、慶應義塾高校から慶應大学医学部に進学した秀才でしたが、医学部在学中に兄に誘われて映画俳優の道に進むことになりました。マキノ家に生まれた津川雅彦は大映で子役をやったあとに日活に入社していきなり『狂った果実』で石原裕次郎の弟を演じて注目されます。日活で一年半の間に12本の作品に出演しますが松竹に移籍、木下恵介監督の『惜春鳥』などの出演歴があるものの特にヒットを飛ばした経歴は見当たりません。松竹としてはフランスのヌーヴェル・ヴァーグからも注目された『狂った果実』に主演した津川雅彦は、まさに本作にピッタリの俳優だったことになります。

社長秘書を演じる高千穂ひづるは本作出演時二十九歳。津川雅彦がまだ二十歳だったことを考えるとうまい配役だなあと思わせます。宝塚歌劇団出身で松竹に入った高千穂ひづるは昭和28年に東映に移籍して以降、50本以上の時代劇に出演を重ねていきます。昭和32年に松竹に復帰してからは清張映画など幅広い役を演じるようになりました。ほかには舞台出身でこの時期には俳優座に所属していた三島雅夫が社長役で出演していますし、ガールハントを繰り返す虚無的な会社員を大島映画の常連となる渡辺文雄がやっています。

【ご覧になった後で】フランス映画の影響が強く音楽もジャズが効果的でした

いかがでしたか?松竹ヌーヴェル・ヴァーグと称された通りでフランス映画のヌーヴェル・ヴァーグ作品との既視感が強く、学生時代にアテネフランセでフランス映画を見まくったという吉田喜重らしいヌーヴェル・ヴァーグへのオマージュ的作品でしたね。そもそもブルジョワ息子の川津祐介と貧乏学生の津川雅彦の組み合わせや友人同士での乱痴気騒ぎ、ピストルが暴発するエンディングなどはクロード・シャブロルの『いとこ同志』の影響が伺えますし、ラストのビル街をシャツ姿で走っていく津川雅彦の後ろ姿はゴダールの『勝手にしやがれ』のラストとまったく同じでした。

もちろん後追いだけというわけではなく、津川雅彦がパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』を読んでいるのはルネ・クレマンの映画公開が同年6月だということを考えると撮影中に急遽小道具として加えたか、フランスで絶賛されたのを早々にキャッチしたのかのどちらかだったのでしょう。また川津祐介がランボーの詩集を朗読するのは、ゴダールの『気狂いピエロ』を先取りしていますし、木下忠司のジャズの使い方が非常に効果的で、ヴィブラフォンを使った哀調を帯びたクールな旋律が本作のムードを醸し出していました。

でもさすがに新人監督に大きな製作予算を渡すわけにはいかなかったんでしょうね。セットの貧弱さはちょっと可哀想なくらいで、川津祐介が避暑で葉山に行くという場面は海岸に広げたビーチチェアで寝転がっているだけで、豪奢な別荘が出てくるわけではありません。津川雅彦の下宿もベッドしか映らないくらいの安普請ですし、秋山物産はたぶん常盤橋にあった大和証券本社ビルの前でロケ撮影をして、それっぽく見せているに過ぎません。まあそれでも丸の内でのロケ撮影はやや即興的な演出にも感じられて、低予算だったことがかえってヌーヴェル・ヴァーグ風の雰囲気に役立っていたようにも感じられました。

本作で撮影技師としてはじめてクレジットされたキャメラマンの成島東一郎は、シネマスコープのモノクロ画面を乾いたタッチでうまく活かしていたように思います。特に狭い空間での横長画面の使い方がうまくて、高千穂ひづると渡辺文雄が二人でバーに入る場面では、向かい合わせで座った二人を横からとらえて、顔を近づける人物の動きに合わせて画面の中で二人の顔が入ったり出たりするパンショットが印象的でした。渡辺文雄がセリフのうえで結婚しようと迫るのと同時に、画面の構図の上でも渡辺文雄が高千穂ひづるに迫っていき、高千穂ひづるがその画面から引くようにフレームアウトしていくのです。こうした映像の作り方は松竹のホームドラマでは見られなかった表現ですので、吉田喜重などの若手監督に新作を作らせた成果は伝わってくるようでした。

本作以降も松竹は大島渚の『太陽の墓場』、篠田正浩の『乾いた湖』、田村孟の『悪人志願』、池田博の『俺たちに太陽はない』、吉田喜重の『血は渇いてる』と一ヶ月に一本のペースで松竹ヌーヴェル・ヴァーグ的な新人監督による意欲作を劇場にかけていきます。日活の躍進を横目で見ながら、新しい観客層を取り込むにはこの路線で突っ走るのが最善だと経営判断したんでしょう。しかしきわめて保守的な体質だった松竹にとっては、10月に公開した大島渚の『日本の夜と霧』が大きな躓きとなってしまい、興行不振により公開4日目に松竹は上映中止を決定します。一説によると上映中止を決めた日は当時日本社会党委員長だった浅沼稲次郎氏が演説中に右翼の少年によって刺殺されるテロ事件が発生し、政府から圧力がかかったことが劇場で上映できなくなった直接の要因だったのではないかとも言われています。

結果的にこの『日本の夜と霧』上映中止事件によって松竹ヌーヴェル・ヴァーグはその短いムーヴメントの幕を閉じることになりました。以降の松竹は城戸四郎による松竹大船調を基本としたホームドラマに回帰していきますし、大島渚や吉田喜重など新人監督たちは松竹を去り独立プロダクションで活動することになります。松竹ヌーヴェル・ヴァーグの中で乾いた印象をもたらしたこの『ろくでなし』は、短命に終わった松竹の新たな波を象徴する一作として、日本映画史においても重要な作品であるといえるのではないでしょうか。(U090323)

コメント

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました