我が家は楽し(昭和26年)

戦後から6年、中流家庭の日常生活を描いた松竹お得意のホームドラマです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、中村登監督の『我が家は楽し』です。本作は昭和26年3月の公開。松竹は大船調といわれるような家庭劇を得意としていて、本作も父母と四人の子どもたちの一家の日常を描いたホームドラマです。父親役の笠智衆はともかくとして、母親に山田五十鈴、長女に高峰秀子、次女が岸恵子と女優陣は錚々たるキャスティング。でもなんと本作は岸恵子の記念すべきデビュー作でもあるんですね。開巻直後の「お父~さん」と呼ぶ声のハスキーさだけで岸恵子だとわかってしまうくらいに、デビュー作からその個性を発揮しています。

【ご覧になる前に】貧乏ではないけど裕福でもない、けど心は豊かな一家です

植村家は両親と四人の子どもの六人家族。サラリーマンの父親を見送る母親は内職で家計を助け、長女は画家を夢見て隣家の屋敷を写生して作品にしようとしています。学校に通う次女の京都旅行の費用や小学生の長男が野球で骨折してしまった治療費など、なにかと物入りが続き、母親は妹に結婚指輪を質入れするように頼みます。そんなときに勤続25年を迎えた父親が、会社から表彰されて金一封をもらい受けることになったのですが…。

太平洋戦争が終わって6年近くが経ち、人々の生活も以前のような日常が戻ってきたものの、普通の家庭はまだまだ質素な暮らしを送っている時期でした。この年に公開された日本映画は、「日本映画データベース」によると216本。前年が234本、翌年が287本と、映画は人々にとって欠かせない娯楽になっていきました。昭和26年の日本はまだGHQの管理下に置かれていましたが、前年に勃発した朝鮮戦争は日本にいわゆる朝鮮特需をもたらしていて、横浜に設置された「Japan Logistical Command」は日本で調達した物資を朝鮮半島に送る拠点となり、そこでは食料品はもちろんのこと、繊維製品(土嚢袋や軍服やテント)、各種鋼材(鋼管や鉄条網)、コンクリート材料(セメントや骨材)など幅広い製品が扱われました。本作の主人公植村は森永製菓の人事課長という設定ですから、一部はこの特需にあやかったところはあったのかもしれません。たぶん田町なんだと思いますが、森永製菓のビルも映画の中に登場しますし、日本橋の高島屋では既製服売場や呉服売場で奉仕品が並べられて、客が大勢入っている風景も記録されています。

後に田中絹代が映画監督になったときに、『乳房よ永遠なれ』で脚本に起用したのが田中澄江。本作はその田中澄江の脚本デビュー作で、田中澄江の原案を柳井隆雄という人と共同でシナリオにしています。この柳井隆雄は二年後に『君の名は』の脚本を書くことになるのですが、戦前から松竹でメロドラマをたくさん書いていた人のようです。小津安二郎とも『父ありき』で組んでいまして、その縁で柳井のいとこが旅館を経営していた尾道が『東京物語』の舞台になったという話もあるそうですよ。

そして岸恵子ですが、もともとは川端康成の大ファンで小説家を目指していた高校生のときに、同級生に誘われて大船撮影所へ見学に行った際、吉村公三郎にスカウトされて松竹に入り、最初に出演したのが本作なのでした。初出演とは思えないほどのびやかな演技を見せていまして、当初は大学に入るまでの腰掛と思っていたらしいのですが、松竹で本格的な女優に道を歩むことになります。デビュー二年後には『君の名は』に主演したおかげで日本全国どこに行っても「真知子がいる!」と注目される立場になってしまい、五年後の昭和31年には『早春』に出演して小津安二郎に気に入られるのですが、その次の年にはフランスの映画監督イヴ・シャンピと結婚してフランスに渡ってしまいました。その後も映画出演は続けますが、本作のわずか6年後に結婚・渡仏という道をたどるとは、本人も予想していなかったことでしょう。

【ご覧になった後で】こんな良い人たちばかりならどんなに幸せでしょうか

いかがでしたか?登場人物のうち、高峰秀子が勤めに出る不動産屋の社長以外すべての人たちが、悪口ひとつ言わない良い人ばかりで、こんな人たちだけの暮らしができるならお金が足りなくても借家住まいでも、それ以上の幸せはないんじゃないでしょうか。夫婦仲は良く、親子間の関係も良好、子どもたちは兄弟喧嘩もしないって、そんな家庭あるわけがないと思いますが、そこがこの昭和20年代におけるホームドラマの在り方のひとつだったのでしょう。せっかくの金一封を盗まれてしまっても、笠智衆は「酒なんか飲むんじゃなかった」反省するばかりで、山田五十鈴は「仕方ないじゃありませんか、最初からなかったものと思えばいいんですよ」と不満ひとつ言いません。普通なら掏られてしまった夫に対して妻が悪口雑言の限りを尽くして罵倒する場面ですよ。こんな優しい妻でありお母さんである山田五十鈴のことが仏様に見えてしまうほどでした。

NHKがTV放映を開始したのは昭和28年2月のことですから、本作公開当時の昭和26年にはTVというもの自体が日本には存在していませんでした。本作に出てくる植村家にはラジオを聴く場面は出てきませんでしたが、当時の家庭にとって放送とはラジオを指したもので、昭和25年度末のラジオ受信契約数は920万世帯。なんでこんな数値が残っているかといえば、NHKは公共放送なのでラジオ時代のときにすでに一般家庭から受信料を徴収していたのです。家にラジオしかなかったので、俳優たちがセリフを話したり演じたりするのを見るとしたら、演劇を見に劇場へ行くか、映画を見に映画館へ行くかしかありません。となれば、入場料も安く毎週新しい作品が公開される映画館へ行きますよね。昭和26年の物価一覧を見ると映画館の入場料は100円。ちなみに大卒公務員の初任給は5,500円、かけそば15円、コーヒー30円、銭湯12円でしたから、映画を見るのは身近な娯楽だったわけです。と考えると、本作は当時の庶民にとってのホームドラマであって、現代におけるTVの夜8時からやっているファミリードラマ(まあのんびりした家庭劇は死滅してしまいましたが)の代わりでもありました。人々は毎週、どこかの家庭で繰り広げられる悲喜劇を覗き見るようにして、映画館でホームドラマを見ていたのですね。

まあそういう背景を考えれば、本作について映像だの演出だのと七面倒くさいコメントをすること自体が映画の見方を間違えているように思えてきますね。中村登監督は、佐田啓二の残したチューリップの鉢植え以外では目立った映像演出をしていませんが、逆にそれくらいに抑えていたのかもしれません。次々に家庭劇を映画にするのなら、脚本とキャスティングさえしっかりしておけばそこそこの映画は出来上がったでしょう。本作も前半は幸せな家族ののどかな日常を描き、金一封を盗まれた以降は次々に災難に見舞われながらも健気に前向きに生きていく平凡な勇気が前面に出てきます。画家を夢見る高峰秀子の現実感のなさなどが見ていて歯がゆい感じもありますし、絵描きの友人や療養中の佐田啓二などがいかにも生活感のない夢想家にしか思えないあたりも欠点ではあるものの、まあTVのホームドラマと同じようなものと思って見れば、これでも上出来なほうでしょう。

それにしても山田五十鈴の賢母ぶりは今となっては絶対に描くことのできない母親像でしたね。夫に仕え、子どもたちにすべてを捧げ、内職をして質にも入れ、自分のことはすべてにおいて後回し。現在においては全部が全部逆になっていますので、本作の山田五十鈴は本当に博物館に飾りたいくらいの慈母的存在です。山田五十鈴本人がこの役に納得していたのかどうかは知る由もありませんが、幅広い役をこなした山田五十鈴としてはかなり地味な母親役でありながら、笠智衆と買い物をする場面などでの、長い間夫婦をやっている二人にしか醸し出せない抑制された愛情や思いやりの表現などは、心底うまいなーと感服させられます。笠智衆が何の工夫もなくいつも通りの演技をしている(だから笠智衆なんですけど)だけに、山田五十鈴の作品ごと役ごとの千変万化ぶりは見事としか言いようがありません。

高峰秀子は例によって気が強いけど素直で実直な感じでいつもの高峰秀子でしたが、それに対して岸恵子はデビュー作ながら自由奔放さが垣間見えました。声も枯れているし演技も決してうまいわけでないのに、名監督から寵愛されて重用されたのは、この品があって伸び伸びとした溌溂さのせいだったのではないでしょうか。こういう女優がいたら腰掛だけで引退させるのは惜しいですよね。

そういえば笠智衆が受け取った金一封は3万円でしたから、さきほど紹介した当時の物価から計算すると現在の価値では50万円くらいになるでしょうか。「月給の二倍」というセリフもあったので、ひょっとすると100万円近い金額になるかもしれません。確かにそれくらいあれば現在でもちょっと豪華に買い物してしまいたくなりますし、当分の間は内職しなくても済むかもしれません。でもそんな大金を電車の中で簡単に掏られてしまうというのは、ちょっと脚本に無理がありましたね。悪人を出したくないという意図があったのかもですが、もっとリアルな失い方を工夫してほしかったなと思います。(Y012622)

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